小学校低学年の頃,決まって給食の時に流されていたシューベルトの「軍隊行進曲」なんかは割と好きだったし,音楽の授業の時に聴いたケテルビーの「ペルシャの市場にて」などは,「そうか,こういう珍しげな曲もあるんだ・・」などと感心していた。でも,今にして思えば,特定の作曲家やアーティストなどを明確に意識しだした最初の頃は,おそらく小学校6年生だったと思う。
そのきっかけは,音楽室の前面上部の壁にほぼ週替わりで掛けられていた4枚ずつほどの音楽家の肖像画であり,またクラスメートの女の子が図書室から借りてきてくれた音楽家の伝記だった。例えば,今週はブラームス,チャイコフスキー,ヘンデル,シューマン,その次の週はバッハ,メンデルスゾーン,ショパン,ドビュッシーといったように有名な音楽家の肖像画が掛け替えられる風習がその小学校にはあり,漠然とだが音楽家に興味を持つようになっていた。そうこうしているうちに,転校生の私に優しく接してくれたNY子さんが,僕に何気なく,「今から図書室に行くけど,何か借りてきてあげようか。」と声を掛けてくれたのである。僕は「じゃ,誰のでもいいから,音楽家の伝記をお願い。」と頼んだのである。
そこでその優しい女の子が借りてきてくれたのが,たまたまショパンの伝記だった。全部読んだら,じゃぁ,このショパンという人はどんな音楽を創ったんだろうかと興味が湧き,父に頼んでショパンの作品(小品)が10曲ほど入ったレコードを買ってもらって聴いた。ひ,ひじょーに感動した。今も覚えているが,そのレコードで演奏していたピアニストは,ポーランド人のアダム・ハラシェヴィッチという人で,「英雄ポロネーズ」,「ノクターン(変ホ長調の有名なやつ)」,「別れの曲」,「幻想即興曲」,雨だれの前奏曲」,「華麗なる大円舞曲」などが入っていたと思う。後から知ったことだが,このピアニストは,1955年の第5回ショパン国際ピアノコンクールで,あの有名なヴラディーミル・アシュケナージと優勝を争った人だ。
私の音楽遍歴の出発点は,このショパンの音楽だった。こりゃすごいと思い,今からすれば極めて遅咲きだったが,土下座せんばかりに父に頼み込んで,すぐにピアノを習わせてもらうようになった。結果的には,あの優しかったNY子さんが僕の音楽遍歴の出発点を作ってくれたのだ。その子は,いわば典型的な昭和の女の子で,面長,色白,頭の後ろで三つ編みを二つに分け,飾り気のないこざっぱりした子だった。ただ,僕の記憶では学年の途中か,それとも学年の終了時に,おそらくお父さんの転勤の都合か何かで北海道へ引っ越していってしまったと思う。彼女は,まず,ショパンと僕を引き合わせてくれた功労者だったのだ。
(いつかに続く)