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弁護士ブログ

2009/01/29

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 中学3年生から高校に進学する頃に,僕はピアノのレッスンを受けるのを終了した。長距離のレッスン通いを共に続けたST君も恐らくその頃にやめた記憶だ。共に進学のための勉強などが理由だったと思うし,概ね3年間を一応の区切りにしたのだ。チェルニー30番とソナチネアルバムの途中まで進んだが,そのあたりまで進むと,それほど難易度の高くない曲だったら,楽譜を見て,つっかえつっかえでも弾けるようになっているものである。僕はそれ以来,特にピアノを習ったりしていないし,たまに気が向いた時に弾くだけだから,今の腕前といっても全然大したことはない。

 

 音楽遍歴というからには,その当時よく聴いていた曲の紹介になるが,やっぱりまだショパンが圧倒的に多かった。レコードジャケットで今も覚えているのは,サンソン・フランソワというピアニストが演奏するバラードとスケルツォ集である(各4曲)。何かしら鼻の下に少しヒゲを生やしたダンディな人だったと思うが,その音色が非常に美しく,艶っぽかった。あっ,そうそう。思い出した。何でショパンのバラードが入ったアルバムを買ったかというと,その頃,NHKの番組か何かで,巨匠ヴラディーミル・ホロヴィッツがカーネギーホールでショパンのバラード第1番を弾いている映像を見たり聴いたりして,「こりゃ,すっげーわ。」とたまげたからである。勿論このピアニストは20世紀を代表する人である。僕が習っていた頃は,先生に,「はい,両こぶしを卵形に握ってー。はい,少し力を抜いてー。そうそう,そういう手,指の格好で弾くんだよー。」と教わっていたのに,このホロヴィッツは,指を相当に伸ばしたまま,それでいて凄い速さと美しい音色で超絶技巧(テクニック)を発揮するのである。

 

 ところで,高校1年生の時は,3歳上の姉(当時は大学1年生)の影響で,カーペンターズの曲に首ったけになっていた時期がある。「イエスタデイ・ワンスモア」,「遙かなる影」,「トップ・オブ・ザ・ワールド」,「ジャンバラヤ」,「マスカレード」,「雨の日と月曜日は」なんかをよく聴いた。だから,クラシック一辺倒だった訳ではない。正月のお年玉で,その当時発売されたばかりの「ナウ・アンド・ゼン」というカーペンターズのアルバムを買った。このアルバムは,そのタイトルからも分かるとおり,その当時のカーペンターズの新曲と,その当時からすれば一昔前のナツメロをカヴァーした曲が入っていた。この中に入っていた古い曲としては,「ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド(この世の果てまで)」というのがとても佳い曲で印象に残っている。それにしても,カレン・カーペンターという人は,出色の女性ヴォーカリストで,本当に歌が上手いなぁと感心していた。それが,その後拒食症などが原因で早世してしまったのは本当に残念である。

 

 このアルバムを聴いていたら,母が,「そういうの買うんだったら参考書でも買ったら?」みたいな嫌みを言ったことを,僕は今でも執念深く覚えている(僕の脳細胞ちゃんたちは,大切なことは忘れる一方で,大昔のこのようなどうでもよいことを覚えている)。母にしてみれば,クラシック音楽好きの良い子の僕が,急に不良か何かになってしまわないかと恐れをなしたのかもしれない(笑)。ハッ,ハッ,ハッ。カーペンターズのような佳い,健全なポピュラー音楽が不良だなんて・・・・・。このように一瞬勘違いした母は,幸い今も元気で健在である。

 

 

2009/01/27

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 前にこのブログで,種田山頭火が非常に気になる存在だと書いた。山頭火の評伝(伝記)はいくつかあるのだろうが,ミネルヴァ書房から出ている「ミネルヴァ日本評伝選」シリーズの「種田山頭火」(村上護著)が決定版ではなかろうか。研究し尽くされた非常によい本だ。種田山頭火(本名,種田正一)は,満で9歳の時に母親が自殺し,その後年,実弟も自殺している。これらのことが山頭火のその後の人格形成に影響を与えなかったはずはない。それはそれとして,この本によると,どうやら山頭火の俳句は諸外国でも人気が高く,あちこちで翻訳されて,今や芭蕉に次ぐ存在になりつつあるとのことだ。

 

 味わう者に語りかけることが多く,その心にずっしりと残る非定型句。彼は,結局妻子を捨てたに等しく,仏門に入って修行と堂守の生活に落ち着くかと思いきや,漂泊の行乞の旅に出る。鉄鉢を手にした托鉢僧姿で来る日も来る日も歩き,句作を続けた。

 

    「どうしようもないわたしが歩いてゐる」

    「しぐるるや死なないでいる」

    「だまつて今日の草鞋穿く」

    「まつすぐな道でさみしい」

    「雨だれの音も年とった」

    「鉄鉢の中へも霰」

 

 木賃宿というのは今もあるのだろうか。旅人がその日の夕食として炊いてもらうお米を宿に持ち込み,炊くための薪代を支払って泊まる宿である。山頭火は,手にした鉄鉢に入れてもらった「もらい」のお米を宿に預け,それがその日の夕食になり,薪代になり,現金になるのである。今日のように真冬の行乞の旅はさぞ厳しいものであったろう(特にしぐれたりしたら・・・)。僕にはとても真似できないし,真似しようとも思わない。僕にも普通の生活があり,山頭火のように,半ば「諸縁放下」(徒然草)する訳にもいかない。でも,山頭火の句は魅力的で,その心情を思いやると何かしら理解できる部分もあり,イメージの中で山頭火の追体験をしたがっているのだろうと思う。

 

   「荒海へ脚投げだして旅のあとさき」

   「ついてくる犬よおまへも宿なしか」

   「ひとり焼く餅ひとりでにふくれたる」

   「たんぽぽちるやしきりにおもふ母の死のこと」

   「濁れる水の流れつつ澄む」

(山頭火の場合は気が向いたらいつかに続く)

 

2009/01/26

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 僕が東京及びその周辺で暮らした年数は通算で約5年間であった。文京区小石川の近く,柏,松戸,和光などである。その時代にしょっちゅう通った店には,東京に行く機会があれば今でも立ち寄ることが多い。本日はお日柄も良いので,東京行きの際に立ち寄る率が高いお店を,3つばかり紹介しちゃいたい。

 

第1の店・・・・・旭川ラーメン「番外地」八重洲北口本店(立ち寄り率100%)

 この店は,東京駅八重洲地下中央口に潜り,大丸デパートの地下を横目に少し歩いた場所にある。行きも帰りも新幹線の東京駅を利用する訳だから,この店に通うのに何の苦労もない。苦労がないどころか,この店のラーメンを食べられるんだったら,多少の苦労も厭わない。店に入ると,いつもの威勢の良い,どちらかというともうおばさんの方に近いお姉さんが,「へい,らっしゃい。・・何にしましょう?」と元気よく迎えてくれる。入口すぐの所にあるレジでまずは食券を買い求める。メニューの中でも自分は絶対に「塩バターコーンラーメン」である。これはいい。魚介系のダシが利いたスープ(大好き)。コシのある中太ちぢれ麺にこのスープがよくからみ,少なめのチャーシュー(くどくない)が好みだし,大きく四角に切ったバターが徐々にスープ全体にとろけていく。本来の白いレンゲの他に,コーンの一粒も無駄にしないように金属製の穴あきレンゲも添えられている。恥ずかしながら,実は僕は,昼と夜の2回にわたり,この「塩バターコーンラーメン」を食べたことがある。

 

第2の店・・・・・名曲喫茶「ライオン」(立ち寄り率62.5%)

 僕はクラシック音楽が好きだもんだから,コーヒーを飲みながら,時には好きな本を読みながら,音楽を楽しむ隠れ家的な場所を欲していた。この名曲喫茶「ライオン」は,割と有名な老舗だから隠れ家という訳にもいかないが,若い頃からよく訪れていた。今でも立ち寄り率は6割を超えている。渋谷駅から道玄坂を上って行き(向かって右側の歩道を),坂の中腹に差し掛かった辺りで右の路地に入り,さらに坂を上っていく。もう少しで上り切るという所の左側にこの店はある。あたし好みの落ち着いた雰囲気の店だ。各曲の終わりには,耳に心地よい若い女性の抑制の利いた声で,例えば,「ただいまの曲は,サン・サーンス作曲,交響曲第3番ハ短調『オルガン付き』,ジャン・マルティノン指揮,フランス国立管弦楽団の演奏でした。」なんていうコメントも流れるのだ。かつては僕は,「自分がもし女性に生まれ変わったら,結婚前にここでこういった感じのアルバイトをする手もありだな・・・。」などと,愚にもつかない,訳の分からないことを思い浮かべた経験がある。

 

第3の店・・・・・寄席「鈴本演芸場」(立ち寄り率37.5%)

 これは店というより,寄席である。今でも立ち寄り率は4割に達しようとする。上野駅から歩いて10分もかからない。缶ビールと名物の助六寿司を味わいながら,落語という世界に誇るべき日本の話芸を堪能できる瞬間は,本当に日本人のアイデンティティーが感じられ,「あぁ,日本人に生まれてよかったなぁ・・・」とつくづく思うのである。落語は勿論であるが,それ以外の分野でお気に入りなのは,漫談のペペ桜井と紙切り芸の林家正楽である。

 

 今週の金曜と土曜に東京へ行くことになっている。本来の用務を終えたら,再びこういった店に立ち寄れたらいいなと思っている。ただ今回も,僕の命ある限りは,「番外地」には絶対に立ち寄り,「塩バターコーンラーメン」を食べてしまうと思う。

2009/01/22

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 僕は,健康管理のために(ストレス解消ともいう),最低でも週1回はトレーニングジムに通っている。でも,先日そのジムで,心理的に非常に微妙な目に遭った。

 

 ジムではいろんなことをやるが,必ずやるのが約40分間の有酸素運動で,それはトレッドミルといってベルトコンベアーのような物の上で早歩きをするのである。その日も「さあ,やるぞ!」とやる気満々で始めた。そのジムはトレッドミルの機械が20~25台くらいはあるのだが,その日は結構混んでいた。僕が始めて30分ほど経った時,たまたま僕の隣が空いて若い男性が来てその台に乗っかったのだが,なかなか始めようとしない。変だなと思って後ろを振り返ったら,何と,彼の彼女らしい若い女性も立っていたのである。そう,彼らは連席で仲良くトレーニングをしたかったようで,僕が終わるか,あるいは一つ隔てて僕の向こう側で早歩きしているオッサンのどちらかが終わるのを虎視眈々と待っていたのである。あーぁ,いやーな感じ。ハイエナかハゲタカが今にも死にそうな獲物が死ぬのを待っているような感じなのである。

 

 でも,僕としても,いつもの通りあと10分くらいは続けたい。そこで,僕の頭の中では,僕の可愛い脳細胞ちゃんたちの臨時議会が招集され,いつもより10分早めて終了し,このうら若いカップルに譲るべきかどうかが審議され始めた。重苦しいけど誠実な審議の結果,「メタボたちが一生懸命に努力しているこの神聖な場所で,色恋沙汰を持ち込むべきではない」という意見が大勢を占め,決して譲るべきではないという議決がなされたのである。それに,向こう側のオッサンもそのうち終わってくれるだろうという楽観的な観測もあった。

 

 このようにして,僕は決然としていつもどおり約40分間の早歩きを続行したのである。でも,その間,いつもはその負荷で脈拍数は108前後なのに,その間は115くらいになり,彼らに「待たれていた」情況が僕の心理に多大の影響を与えていたことは否めない(しゃくに障る。)。それはともかくとして,約40分間が経過しても,何故か僕の体は夢遊病者のようにそのまま動き,早歩きを続けてしまったのである。向こう側のオッサンはというと,水分を補給しながらますますやる気満々で止める気配が全くないのである。そうこうしているうちに,かのうら若きカップルは,ようやく連席で仲良くトレーニングできる場所を見つけ,移動していった。

 

 結局,僕はいつもより約5分間余分に早歩きをやってしまった。思えば,約10分間続行した時間帯は正論を貫きとおしたと評価できるが,余分な5分間は一体何だったのだろうか。それは,虚心坦懐に振り返れば,嫉妬心以外の何ものでもなかっただろう。向こう側のオッサンも僕とほぼ同時に終了したことからすれば,彼も同じく嫉妬心をメラメラと燃やし続けていたに違いない。件のカップルの様子を見ると,案の定,イチャイチャしながら,談笑しながら走っていた。その姿を見て,自分のやったことは決して間違ってはいなかったと言い聞かせ,ジムを後にした(なお,念のために言うと,僕はメタボではない。)。

2009/01/21

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 今回は,今思い出しても胸キュンの甘酸っぱい体験が含まれている。

 

 中学2年生になっても,音楽的な趣味はショパンの作品が中心だったものの,そのほかにもクラシック音楽ならば食わず嫌いをせずに何でも聴いていた。ただ,自分の小遣いも限られていたので,そうそうレコードが買えるはずもなく,所有のレコードを聴く以外には主にラジオが頼りだった。その当時,NHKラジオで,深夜11時ころから「夜のしらべ」という番組をやっており(確か,平日のみだったと思う),これが毎晩楽しみだった。3,40分くらいの短い番組だったが,クラッシックの名曲(小品)を幅広く聴くことができた。

 

 実は,僕はこの「夜のしらべ」のテーマ音楽が好きだった。オリジナルの曲だったらともかくとして,クラシック音楽の一部だったとしたら,一体全体何ていう曲なんだろうと思っていた。いい曲だな,何ていう曲なんだろうと思いつつも,正式曲名を知ることができない悶々とした体験をしたことはないだろうか。結局,この「夜のしらべ」という番組はその後数年経って終了してしまったので,テーマ音楽として流れていた曲も知らずじまい。でも,今から数年前,ひょんなことからとうとうその曲名を知ることができたのである。それは,ロシアの作曲家ボロディンの弦楽四重奏曲第2番の第3楽章「夜想曲」だったのだ。そして,「夜のしらべ」で流されていたのは,ユージン・オーマンディー指揮(とすればフィラデルフィア管弦楽団か)の弦楽合奏編曲版だったようだ。これはいい曲だ。大好き。このボロディンという人は,例えば,歌劇「イーゴリ公」の中の「ダッタン人の踊り」とかいった,何かしら印象に残るメロディーメーカーだ。

 

 さて,僕のいた中学校は,隣の学区にあった中学校と共にマンモス化していたため,僕が中学3年生に進級する年に,それぞれの中学校生徒の一部ずつから移動させて新設校を作ることになってしまった。ちょうど僕の住所は新設校に移動せざるを得ない位置にあったので,2年間を一緒に過ごした友達の多くとお別れをしなければならなくなったのだ。中学2年生の時,同じクラスにWYさんという女の子がいて,実は僕はこの子が好きだった。色白,小顔,清楚な感じで,本当に気持ちの優しい子だった。まぁ,僕はその当時から奥手であり,誇り高いというか小心者というか傷つくの嫌というか,そういう性分だったから,告白するなんてことは全然考えず,胸に秘めて憧れていただけだった。

 

 お別れの時,胸キュンの出来事があった。何と,憧れのそのWYさんが,思いがけず僕に,餞別というかお別れの品として,ショパンの練習曲集(エチュード)の分厚い楽譜(全音楽譜出版社から出ていたやつ)をプレゼントしてくれたのである。僕がショパンのエチュードを弾くことができると思われていたのだとしたら,相当に買いかぶられちゃったという感じだが(非常に恥ずかしい),本当に嬉しかった。嬉しすぎて,数日間ふぬけの状態,ボーッとした状態になった。今もこのことを思い出すと胸がキュンとなるし,その分厚い楽譜は今も大切にしまってある(でも,僕には難しすぎて弾けない。)。

2009/01/20

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西 郷「最近,特に冷えるなぁ。こういう時は,やっぱりおでんに熱燗だな。大久保どん。ご機嫌いかが?」

 

大久保「どうもこもないわ。」

 

西 郷「おっ,今度はおまえがそのセリフか。おまえが不機嫌だと,少し気にはなるけど,悪趣味だが少し嬉しい気もする(笑)。一体どうしたぃ。」

 

大久保「まぁ,本気で怒ることじゃないかもしれんが,最近民放のテレビで,『大食い大会』や『全30メニュー完食ツアー』みたいな番組が流されとるが,ああいう番組を目にすると,不機嫌になるのよ。すぐにチャンネル変えちゃう。」

 

西 郷「確かにおまえは大食漢じゃないが,どうしてだ。」

 

大久保「ああいう番組では,フードファイターとかタレントが最後は苦痛に顔をゆがめながら食べとるだろう。俺がチャンネルを変える理由は2つある。貧乏育ちの俺は,食べ物というのは『おいしい。おいしい。』といいながら,味わっていただくものだという気持ちがあるからだ。嫌々無理に胃袋に押し込むものではない。もうひとつは,フードファイターらの人間離れした食べっぷりは半端じゃない。見ていて自分の胃まではち切れそうで気分が悪くなるからなんじゃ。」

 

西 郷「確かにな。食べ物だって,あんなに苦痛に顔をゆがめながら食べられるために生まれてきたんじゃないだろう。浮かばれんわなぁ・・・。」

 

大久保「大食漢のおまえも賛同してくれるか。世界中には飢餓で亡くなる人も大勢いるし,この日本国にだって腹すかしている子供もいると思う。あんな番組の企画はしょせん一過性のものだと思っとったが,結構ひんぱんに目にする。あれで視聴率がとれているのかな。ああいう企画は俺にはどうしても理解できん。」

 

西 郷「大久保どん。食べ物というのは『おいしい。おいしい。』といいながら,味わっていただくものだというのは,その通りだ。俺は,この,おでんのたまごが大好物でな。ほれ,・・・・こうやって箸で半分に割るだろう。そうすると,黄身が少しくずれるから,それをまず味見する。・・・・そして,半分を頬張って,・・・それから,おでんのつゆを少しいただく・・・。この黄身と白身とつゆのコラボレーション!俺の至福の時なのよ。ところで,大久保どんの至福の時はどうよ?」

 

大久保「俺か?おれは,ほれ,この串に刺したうずらの卵のフライをな・・・こうやってソースにどっぷり付けて,・・・そして,いったん皿の上に横たえるだろ。・・・・・そこで,ほれ,千切りのキャベツをフライの衣の上にまんべんなくタップリのせるだろ。・・・そして,こうやってうずらちゃんの卵を一個ずつ頬張るのよ。卵と,サクサクの衣とサクサクのキャベツのハーモニー,いやアンサンブルといってもいいかな。これが俺の至福の時よ。」

 

西 郷「そうか,結局お互い卵好きのコレステロール仲間か・・・・・」

2009/01/15

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 実際には非常に可笑しい場面なのに「笑うな!」と言われたり,全員が沈黙し,絶対にここで笑っちゃいけない厳粛な場面などで,結局はそういうプレッシャーに負けて笑っちゃったということはないだろうか。僕は,幼少のころから現在に至るまで,絶対に笑ってはいけない場面ではことごとく笑ってしまった人生を歩んできた。前にもこのブログで,人間ドックの腹部エコー検査では毎回笑ってきてしまった歴史について触れたが,こればかりはどうしようもない。自分としてはこのような悲しい性(さが)を何とかしたいのだが,DNAレベルでそのような人間に生まれてきてしまったのだ。何故だろう。絶対に「笑っちゃいけない!」という意識が強くなればなるほど,そのような強迫観念が僕を支配し,その絶対性が僕を追い詰め,それに押しつぶされてきたのだ。もうこれは死ぬまで治らないのかもしれない。

 

 先日,法廷での証人尋問の前に行う宣誓の場面で,またしてもやってもうた。「良心にしたがって本当のことを申します。知っていることを隠したり,ないことを申したりなど,決していたしません。右のとおり誓います。」という宣誓書の決まり文句を,どの証人も法廷の厳粛な雰囲気で述べることになっている。ところが,その証人は,「・・・・知っていることを隠したり,ないことを申したりなど,決していたします。・・・・」と言い間違えてしまったのだ。これはテレビでやっているような「言いまつがい」とはニュアンスが少し違うと思うが,外形的には,これから思いっきり嘘をつくぞという宣言になってしまったのだ。この証人本人には勿論そのようなつもりはなく,これをあげつらうことは不謹慎であり,ましてや法律家である以上,それを耳にして法廷で吹き出したりしてはいけないのだ。しかし・・・・あってはならないことであるが,やってもうた。

 

 僕は昔から,笑ってはいけないという場面では,必死になって,例えば,自分の太ももを思いっきりつねって苦痛を与えたり(太ももの中でも,お尻に近い方は脂肪が多くて痛くなく,むしろ膝に近い方がより痛みが多いので,相対的には効果があるような気はしている。),過去のとても悲しい場面を思い出すなどして,絶対に笑わないように自分なりに工夫してきた。でも,その一方でそうまでして笑わないように必死であがいている自分自身を,空間の少し上の方から客観的に観察して哀れんでいる自分も意識され,結局は「笑うなプレッシャー」に押しつぶされて,笑ってしまうのである。笑ってはいけない場面で,ちゃんと笑わないでいられる人が羨ましい。一体,全体,何を食べたら,そのように分別があり,その分別に従って行動できるような抑制のきいた人間に成長できるのであろうか。やっぱり,僕のこの性分は,死ぬまで治らないのだろうか・・・・・。

2009/01/14

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 前回お話しした発表会の後も,ST君と僕は互いに練習にいそしんだ。さて,小学6年生から中学1年生当時の僕の音楽の関心は,やはり圧倒的にショパンのピアノ曲であったことは間違いない。でも,その当時持っていたレコードのことをよくよく思い出してみると,ベートーヴェンの「交響曲第5番(運命)」(ジョージ・セル指揮・クリーヴランド管弦楽団)が確かにあった(何やら黒っぽい雲だらけの中から僅かに光が差し込んでいるような不気味な風景のジャケットだった)。また,演奏者は忘れたが,グリーグの「ペールギュント第1組曲」なんかもあったし,ハンガリー出身のジョルジュ・シフラという高いテクニックを有するピアニスト(「リストの再来」などともいわれていた)が演奏するピアノ小品集(「エリーゼのために」,シューベルトの「軍隊行進曲」などが入っていた)のレコードもあったし,さらに,ジェローム・ローウェンタールというピアニストが演奏するピアノ小品集(モーツァルトの「トルコ行進曲」,ヘンデルの「調子のよい鍛冶屋」などが入っていた)もあった。だから,必ずしもショパン一辺倒ではなかったのだ。

 

 そんな中で,中学1年生のとき,ちょっとした「事件」が起こった。何がきっかけだったか全く思い出せないが,同じクラスのOM君(イケメンの子だったような記憶)が,僕にビートルズの「レット・イット・ビー」のシングルを貸してくれたのである。この曲を聴いてビックリした。「これがビートルズかぁ・・・」と大きなショックを受け,良い曲だなと,何度も何度も繰り返して聴いた。この時はビートルズに深入りすることはなかったが(後から知ったことだが,この時は既にビートルズのメンバーも互いに心が離れ,解散直前だった。「レット・イット・ビー(なるようになるさ)」という歌詞も象徴的である。),僕がビートルズ熱にうなされ始めたのは,後年,大学受験生の時だったし,大学生になってからはこれが一挙に爆発することになる。

 

 このあたりで,どうしても中学時代の大親友だったFS君のことに触れなければならない。このころ,FS君は僕に「コンサートのチケットあるんだけど,行かない?」と誘ってくれ,一緒に行ったことがあった。それは,アルフレート・ブレンデルのピアノリサイタルで,確かベートーヴェンのピアノソナタ中心のプログラムであった。良いリサイタルであったし,その後ブレンデルというピアニストがあれほど有名になるとは思っていなかった。このFS君は本当に心を許し合える大親友だったが,誠に残念ながら昨年病気で亡くなった。奥様からの電話でその訃報に接した時は全く信じられず,その場で絶句した。お悔やみに伺った時,彼が生前,自分の家族に僕のことをしょっちゅう話してくれていたということを聞かされ,思わず二度も嗚咽してしまった。彼のことは一生忘れられないし,また別の機会に触れることがあるかもしれない。心からご冥福をお祈りします。

2009/01/13

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 最近ゴルフの調子がいまいちである。ここんとこのスコアがどれくらいかは,とても恥ずかしくて言えるものではない。確かに回数は減ったし,昔は週1ペースで打ちっ放しの練習場にもいそいそと通っていたのが,最近ではそれもあまりないから,下手になったのかなぁ・・・。まあでも,気が置けない友達と緑の中を歩いたり走り回ったりしていると,とても楽しいものである。

 

 これはあまり脈絡はないのだが,ゴルフついでに告白すると,僕は雨の日に傘をさしながらゴルフ場のフェアウェイを歩いていると,決まって「あめふりくまのこ」のメロディーが頭に浮かんでくるのだ(ほとんど例外なく!)。子供のころ,NHKの「みんなの歌」か何かの番組でこの曲を耳にして以来大好きな曲なのである。先日,カラオケに行った時,「まさかある訳ないよな」と,だめもとでこの曲を探していたら,何と,見つかってしまった。僕は矢も楯もたまらず,思わず歌ってしまった。同席の人たちは「困った人だな。」といったような顔をしていた(要するに失笑を買ってしまったという感じ)。でも本当にこれは佳い曲で,何か懐かしい感じがするのだ。

 

 弁護士としては依頼者のため一生懸命に誠実に仕事をしなければならないのは勿論であるが,人間として生まれてきた以上,一生懸命に遊びもしなければならない。僕は,「梁塵秘抄」(巻第二 四句神歌 雑)の中の次の歌がとても,とても好きだ!

     「遊びをせんとや生まれけむ  戯れせんとや生まれけん

      遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」

 この曲の大意については,遊女が子供の声を聞いて自分の罪深さを嘆いているのだという解釈もあるにはあるが,僕は,文字通りの意味,つまり純粋に一人の人間として遊びに興じている無邪気な子供の声に触発されて,自分の体も思わず動いてしまう,一緒に遊びたくなってしまうというような心情を歌ったのではないかと思う。

 

 僕の子供の頃も,草野球,ビー玉,缶蹴り,ハンドベースボールなど,日が暮れる直前まで時間も忘れて(時にはその日にいっぱい出された宿題の存在も忘れて),頭がからっぽの状態でひたすら遊んでいたものだ。やっぱ,人間は「遊びをせんとや生まれけむ」だ。歳をとってもいつまでも遊びごころを忘れずにいたいと思う。

 それにしても内容散漫な本日のブログであることよ。

 

2009/01/09

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 ピアノレッスンの始まりは小学校6年生だったから,今のご時世からすると遅咲きであった。ショパンのピアノ曲があんな風に弾けたらいいなという憧れの気持ちで,一生懸命に練習した。最初の数か月は若い女性の先生だった。それはそれで毎週レッスンに通うのが楽しみだったが(小6の子供としては随分なほどの不純な動機も含まれていたと評価できよう。),ST君という男子の友人の紹介もあり,ほどなくして今度は男性の先生のレッスンを受けることになった。

 

 その先生は,NS先生といって,60歳を少し過ぎた感じの高校の音楽教師であった。我々は,いつも2人で電車とバスを使って南山大学のすぐ近くにある先生のご自宅に毎週1回レッスンに通ったが,その先生は,ひ,ひじょーに厳しかった。僕もST君も,それぞれのレッスンが終わる頃は,目にうっすら涙を浮かべていることがあった。レッスンが終わって交代する際に,ST君が少し泣いているのを何度も目撃したし,僕の場合は,先に終わって交代する際にはできるだけ涙を見られないようにST君と目を合わすのを避けがちだった。でも,今にして思えばその厳しい先生のおかげで練習にも身が入ったし(他律的な面もあるが),上達が比較的早かったと思う。また,時には簡単な作曲法のような指導もしてくれ,目を掛けてくださったのだ。

 

 その当時のピアノ教則は,定番コースのようなものがあって,僕の場合も,バイエルから入り,バイエルの90番あたりを過ぎた頃から,指の筋力トレーニングともいうべきハノン,それから可愛らしい曲が多く含まれているブルグミュラー25の練習曲集,その後,チェルニー30番とソナチネアルバムというような順で進んでいった。

 

 そ,そして,最初の発表会を迎えた。あろうことか,同じ学校の女子2名(そのうちの1人はKMさんという部活で小麦色に日焼けした健康的な可愛い女の子だった。)が僕とST君(泣き仲間)の発表を見に来てくれたので,非常に緊張した。僕はというと,さきほどのブルグミュラーの練習曲集の24番目「つばめ」(演奏時に右手と左手が交差し,ちょっと目にはカッコ好さげに見えるやつ)と,ソナチネアルバムの中のクレメンティのソナチネの第1楽章を弾いたと思う。一方のST君は,やたら元気に行進曲風の曲をガンガン弾いていた記憶である。このようにして,共に泣いた戦友と一緒に臨んだ発表会は無事に終了したのである。

(いつかに続く)

 

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