大久保「おい,西郷。この店も,ここんとこ,ちょっと客の入りが悪いなぁ。やっぱり不景気で,財布のひもがかたくなっとるのかなぁ・・・。」
西 郷「うーん。レバ刺しのような内臓ものは俺は苦手だが,どのメニューも割と安くて,味がいい店なんだがな。それに,一杯やった後のラーメン食うには,すぐ近くに屋台もあるし。まっ,せいぜい俺たちはいつもみたいにここで安酒を飲んでいくか。」
大久保「うん。で,どうだ最近は。」
西 郷「どうもこもないわ!」
大久保「出たな。お前のぼやきが・・・。何が不満の今日この頃だ・・・?」
西 郷「今朝だ。メールしながら歩いとる若い会社員風のボンクラ男がおった。ぶつかるまいとして右側に避けたら,今度はすぐに,メールだか何だか知らんが,携帯電話をいじくりながら歩いとるバーコードの中年男とぶつかりそうになった。咄嗟にさらに右側に避けたら,最後の締めは,携帯電話で何やらしゃべくりながら自転車を運転しておるボンクラ娘と本当にぶつかりそうになった。俺は,『ここはどういう星だ。』,『こういう世界で俺はこれからも生きていかねばならんのか。』と愕然となった。本当に情けない。」
大久保「まぁ,携帯は俺も使うが,何故通行の邪魔にならんように立ち止まって隅に寄れんのかな。昔の江戸の『往来しぐさ』のように,できるだけ多くの人が気持ちよく過ごせるような配慮,思いやりがなぜできんのかな。」
西 郷「もう泣けてくるわ。ちょっと最近,年のせいか,感情失禁気味だし・・・」
大久保「はっ,はっ,はっ。毎晩お前の涙が見れて楽しいわい。」
西 郷「あほ抜かせ!」
大久保「でもな,西郷。俺も,ちょうど今朝の体験だが,朝マンションを出てすぐに,大きな声で『おはようございます!』と元気に挨拶してくれた小学生の女の子がおったぞ。うちの学区では,1年生だけは黄色い帽子をかぶって登校することになっておるから,きっと1年生の女の子だ。それも全く知らない子だ。うれしい挨拶じゃないか!それから間もなくして,交差点にあるコンビニの前ですれ違った小学生風の男の子は,いかにも学校の図書室から借りていそうな『ファーブル昆虫記』という本(図書館のラベルが貼ってあった)を小脇に抱えて,行儀良く通りを歩いて行きおった。きっと昆虫が好きなんだ。そういう子供たちを眺めていると,我が日本国の子供たちもまんざらではないと思った。」
西 郷「こういう子たちが,あの携帯電話3連発のようなボンクラな大人にならないように願ってる。」
大久保「みんながみんな立派すぎる国民というのも何やら気持悪いが,少なくとも他をかえりみない『往来しぐさ』もできないような人間にしないためには,ちゃんとしたしつけと,他人を思いやるメンタリティーを醸成する最低限の教育だろう。」
西 郷「まあな。俺たちも,偉そうなことを言っておるが,毎晩飲んでばかりだしな・・・。」
大久保「でも俺は,評判の悪い定額給付金をもらったら,景気浮揚の一翼を担うべく,この店で飲むぞ。それが結局は,回り回って,日本経済の立て直しに役立つし。」
西 郷「そうすると,少し客の入りが悪くなったこの店も大丈夫だ。それはそうと,もうすぐ3月だ。4月異動が気になるが,お前だけ抜け駆けして課長補佐に昇進するなよ!係長昇進時期が一緒なら,課長補佐昇進時期も一緒だ。裏切るなよ!」
大久保「仮に俺が課長補佐の辞令をもらったとしても,お前があれほど苦手なレバ刺しを食べる覚悟と勇気と誠意を示すなら,いったんもらった辞令を人事部に返してもいいが,どうだ。」
西 郷「・・・・・・・・・・・・。ふんっ,お前だけが課長補佐の辞令をもらえるとも思えん。ど,どうでもいいけど,レバ刺しだけはいいわ。」
あのオーディションを経て入団した合唱団。バッハの「マタイ受難曲」演奏の一翼を担いたい一心で,けっこう一生懸命に頑張っております。毎週火曜日の夜に練習があり,週によっては金曜日の夜の練習もあり,月に最低1回は日曜日の練習もあります。仕事を終えての夜の練習が終わると,空腹感と疲れでヘトヘトです。
でも,ソプラノ,アルト,テノール,バス(このうちの一人が私)の4声部が合わさった時の響きはたまりません。精緻で崇高な音楽。ますますバッハの凄さを痛感します。あれっ?今日のブログは,なぜか「ですます」調になっております。仕事と練習を終えてから,疲れた頭でこのブログを書いていますから,文体までいつもと変わっております(笑)。
ところで,今日仕入れた情報によると,バッハが当時食べていたある日のメニューの中に,ある魚料理のアンチョビバターソースというのがあった。今から270年以上も前に,私が心から崇拝するバッハが,アンチョビを口にしていたというのだ。意外だったし,何か嬉しい気もする。というのも,僕もアンチョビが大好き。ある料理研究家のレシピに,ご飯をニンニクとアンチョビで炒め,これにトマト,香草(イタリアンパセリのようなもの),マッシュルームなどを加えて作るアンチョビライスというのがあって,これがひじょーに美味い。アンチョビというのは,これはむしろ調味料ではないだろうか。それもとても優秀な。
なお,ついでに言うと,イカの塩辛もいい。イカの塩辛を使ったご飯の炒め物やパスタもとても美味い。アンチョビは世界的にも有名だが,実はイカの塩辛もこれに劣らず,我が日本が世界に誇る非常に優秀な調味料なのではないかと思う。あれっ,いつのまにか,「ですます」調からいつもの文体に戻っていた。
ここ数日,これから数日は雨模様であるが,今日は月の話。仕事帰りに歩きながら冬の月を眺めることがある。冬の月は,眺めているこちらが寒がっているせいか,どこか寒々とした風情もある。でも,他の季節と比べて,月と自分とを遮るものが少ないような気がして,くっきりと見事な姿に映る。冬の月もまた格別である。
月のついでに,ここ数年で知った,名前に「月」という字がつく人物についてお話したい。いつも思うけど,僕のブログは本題への導入が何とも強引である(笑)。
一人目は,大町桂月である。高知県出身で,明治期から大正期にかけて活躍した歌人,随筆家,評論家である。何でこの人を知ったかというと,数年前に十和田湖,奥入瀬渓流に旅行した際に,湖上遊覧船で紹介されていたのと,泊まったホテルにもその紹介があったからである。この人は,酒と旅行を終生こよなく愛し,十和田湖などのすばらしさを全国に知らしめた。人生の最後には,十和田湖からそれほど遠くない蔦温泉に移り住み,そこで人生を終えたそうだ(蔦温泉の辺りも車で通ったが,なかなか佳い所)。僕も十和田湖や奥入瀬渓流は大好きで少なくとも2度は訪れている。どっかりと腰掛けて奥入瀬の流れを眺めていると,無常観が湧き上がってくる。絶え間ない水の流れは一瞬たりとも同じものはなく,そう,「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。・・・」(方丈記)の世界。自分の来し方行く末を思ってしまう。こうやって歳を重ねていくのだなぁ・・・。
二人目は,井上井月である。気になる種田山頭火の関連書物を読んでいて,この井上井月という,幕末から明治20年にかけて長野県の伊那盆地周辺を放浪した俳人のことを知った。山頭火はこの井上井月に非常な親近感をもっており,その感情は思慕に近かったようだ。井月もやはり放浪の俳人であり,山頭火としてもその境涯や作風の面などで身近に感じていたのだろう。山頭火は,その放浪の中心は西日本だったが,何とか長野県の伊那にある井月の墓参りをしようと念願し,二度目でようやくその念願を果たしている。井月の代表的な句をいくつかあげてみる(村上護著:「種田山頭火」ミネルヴァ書房,372頁以下)。
「旅人の我も数なり花ざかり」
「何処やらに鶴の声きく霞かな」
「酔いてみな思ひ思ひや月今宵」
「芋掘りに雇はれにけり十三夜」
月といえば,僕は中村屋の月餅も好きだ。ち,違うかぁ・・・(笑)。
今日,2月23日は,新撰組の前身となった浪士組が初めて京都に到着した日であるし,奇しくもその2年後の同じ日に新撰組総長となっていた山南敬助が京都前川邸の西の出窓のある部屋で切腹した日でもある。
近藤勇の道場である江戸の試衛館時代から,近藤,土方,沖田らと行動を共にし,芹沢鴨一派の粛正にも重要な役割を果たした彼が,何故切腹する羽目になったのだろうか。その心の内は・・・。これまで何回かこのブログでも新撰組のことに触れてきた。新撰組や個々の隊士は非常に魅力的で好きなのだが,仮に僕が新撰組にいたとするなら,その組織内での立場などからすると,僕はやはり山南敬助タイプだとも思っているので,山南敬助の脱走,切腹の際の山南の心情が思いやられる。
仙台藩脱藩,学問もあり,北辰一刀流免許皆伝,温厚で人当たりがよく,組織内でもある時期までは近藤局長らに頼られるまでの存在だったのに・・・。思うに,山南敬助としては,尊皇攘夷思想が強く,自分が身を置いている新撰組に次第に違和感を抱いたか,あるいは身の置き所がなくなったと感じていたのだろう。というのも,池田屋事件にみられるように(既に病気だったのかもしれないが,山南敬助は参加していない),反幕的な動きをしていた長州藩士らをやたら取り締まっていた新撰組の活動が幕府の走狗のように山南には感じられたのだろう。伊東甲子太郎が参謀として迎え入れられた後には,その尊皇攘夷思想にさらに触発された面もあるし,ますます「総長」職がお飾りのように感じられ,身の置き所がなくなりつつあったと思う。
そして,決定的だったのは,新撰組の西本願寺への屯所移転問題だろう。これは長州藩ら反幕府勢力に好意的だった西本願寺を自己の監視下に置こうという土方らの意図があったが,山南はこれに明確に反対するも全く受け入れられず,「もはやこれまで」と感じて脱走に至ったのであろう。そこで,新撰組の局中法度に触れたとの理由で切腹を命じられた。山南は切腹して果てたが,その最後は非常に立派なものだったという。
ところで,山南敬助の考えていた尊皇攘夷とはどんな内容のものだったのだろう。これは全く根拠などはないし,想像に過ぎないが,恐らく坂本龍馬(「船中八策」)のような考え方,もはや完全攘夷というものではなく,薩摩や長州などの雄藩が結束し,西洋の文物をまずは取り入れ(魂まで洋化するものではない),国としての基盤を確立していくというようなものだったのではないか。いずれにしても,山南敬助は,新撰組隊士の中でも僕が興味深く感じる存在で,数年前の旅行では,京都の光縁寺にある彼の墓にもお参りをしてきた。そして,祇園でお気に入りの一銭洋食をちゃっかり2枚も食べてきた。
既視感と言うらしい。フランス語でデジャヴュ。ある場面に遭遇した時,「あれっ?この場面,どこかで見たことあるけど・・・」という体験はないだろうか。僕は,小学生のころ,少なくとも2回はそういう体験をしたことがある。さすがに,今となってはどういう場面だったかは覚えていないが・・・。ところが,それが数日前,とても久しぶりに,外での仕事中にそういう場面に遭遇した。
何故そういう体験をするのだろうか。この既視感というのは,そういう場面に将来遭遇することをあらかじめ夢で体験すること,すなわち予知夢とも違うらしい。すごく不思議な現象に思えてくる。小学生のころ,こんな体験は自分だけなのか不安になって家族や友達に尋ねてみたことがある。そしたら,自分だけでなく他の人も大なり小なりそういう経験があると知って安心した記憶もある。人間の脳って本当に不思議だなと思う。
予知夢とは違うにしても,夢とは全く関係ないとも思えないし・・・。高校生の時には,その当時大学生だった姉の本箱の中に,宮城音弥の「夢」(岩波新書),フロイトの「夢判断(上・下)」(新潮文庫)があって,何やら面白そうだなと興味本位で読んでみたが,その時は夢判断に非常に興味をもった。クラスで毎日一人ずつ課せられた3分間スピーチで,得意げに知ったかぶりのフロイト学説の受け売りをした恥ずかしい思い出もある。でも,自分としては,夢判断や既視感に興味があり,時間を見つけてはこの方面の本を読んでみたいと思う(もちろん仕事もちゃんとするが・・・)。
今日のブログは,もう,ちゃんとした話にまとめきれないのを自覚したので,最後に,フロイトついでに,思い出に残る大学時代のクラスメートに言及したい。彼は,○○君といった。当時,自分1人だけか,あるいは2,3人の友人で,「大衆芸能同好会」の活動という名目でストリップ劇場などによく出入りしており,「リビドー○○」という異名も冠せられていた(笑)。でも,彼は非常に優しく,控え目で,僕は割と好感をもっていた。その彼も大学生活を謳歌し,卒業と同時に,日本でも有数の一流企業への就職をちゃっかりと決めた。結構印象に残っているクラスメートである。今頃どうしているであろうか。
大学時代に熱中した音楽のジャンルは,クラシック音楽,ビートルズの他に,シャンソンであった。当時の法学部の定員は160名で,第二外国語の選択でクラス分けがされ,約3分の2がドイツ語選択,残りのほとんどがフランス語選択だった。シャンソンに興味を示したのも僕がフランス語選択だったからかもしれない。ただ,その直接のきっかけとなったのは,テレビでシャンソン歌手のジュリエット・グレコ特集を見て感動したことだった。
グレコは黒の衣装と,女性としては独特の低音の声が魅力的で,何よりもシャンソンが,歌詞,メロディー,身振り・手振り,表情などを要素とした極めて深みのある音楽ジャンルだと知った。その当時最初に手にしたグレコのレコードは,シャンソンの名曲集で,魅力溢れるものだった。「枯葉」,「パリの空の下」,「ロマンス」,「ラ・メール」,「詩人の魂」,「聞かせてよ愛の言葉を」,「ムーラン・ルージュの歌」,「懐かしきフランス」,「パリ野郎」,「後には何もない」,「アコーデオン」などだ。これでシャンソンに熱中しない訳はない。
さらに,大学生協のレコード等の購買部にはシャンソン分野も非常に充実していて,しかも廉価で購入できたことも有り難かった。シャルル・トレネやエディット・ピアフ,さらには何とダミアの「暗い日曜日」なども聴いていた。
さて,特に好きだったグレコに話を戻すが,後年,僕が社会人になった後,コンサートで本物のグレコのシャンソンを聴く機会に恵まれたのだ。名古屋の池下にあった厚生年金会館でのライブである。その晩はレコードで聴いていたシャンソンの名曲も聴くことができたし,その後のグレコの持ち歌も堪能できた幸せな晩だった。会場は満席に近く,名古屋においても幅広いファン層がいたのだ。今でもグレコの名曲集のCDを聴きながら,熱中していた当時に思いをはせることがある。
ヒルティの著作のようなタイトルになってしまったが,何のことはない,ちょっと寝付きが悪い,なかなか眠れないような夜に,赤ちゃんのようにスヤスヤ眠りにつくために聴く音楽のお話である。いまどきは,仕事で疲れているせいか,暖かい毛布と布団の中に入ると,幸せなことによく眠れている。でも,何か心配ごとがあったり,特に夏場にエアコンを付けたりしているとなかなか眠れないこともある。
そのような夜に,眠りの導入に割と効果的だった音楽(曲)について体験的にお話ししてみたい。
第1曲 教会カンタータ第82番「われは満ち足れり」の中の第3曲のアリア(子守歌風)(バッハ)
やはり,バッハじゃのぅ。理屈抜きで癒されるし,アッという間に深い眠りに陥り,朝日で目が覚めるぞ。どうしてこんなに美しいメロディーが浮かぶのだろうか。その歌詞も「まどろめ,疲れた目よ,穏やかに,幸せに閉じるがいい!」(礒山雅対訳)というものだ。ただ,その後に続く歌詞は,この世への訣別が内容となっており,そのまま朝が迎えられずに,逝っちゃったら困るのだが・・(笑)。でもね,寝付きが悪いのだったら,いっぺん聴いてみんしゃい。
第2曲 ミサ曲ロ短調の終曲「ドナ・ノヴィス・パーチェム(平和を我らに)」(バッハ)
また,バッハじゃのぅ。しょうがないわ。実力者なんだから。これも例えようもなく美しいメロディー(いわば天上的な美しさ)である。あなた,眠りたいんでしょう?だったら,だまされたと思って一度聴いてみてよ。なお,蛇足であるが,同じバッハの作品でも,不眠症で悩まされていたカイザーリング伯爵のために作曲されたというゴルトベルク変奏曲は,起きている時に聴くべきである。非常に佳い曲であることは間違いない。主題となるアリアだけだったら,これを繰り返して聴けば眠りに陥るが,その後の数多くの変奏(ヴァリエーション)は,何しろ知的で,かえって頭が冴えわたってしまい,眠れなくなる。
第3曲 「亡き王女のためのパヴァーヌ」(ラヴェル)
管弦楽に編曲されているのがお勧めです。これも眠れます。あたしは好きです。
第4曲 「3つのジムノペディ」(エリック・サティ)
これは原曲どおりピアノによる演奏でも眠れます。誰でも一度は耳にしたことがある有名な曲だと思いますが,床の中に入って改めて聴くと,結構,睡眠導入効果があります。なお,同じ作曲家の「3つのグノシェンヌ」と間違えないようにね。このグノシェンヌも僕は大変好きなのですが,そのメロディーが余りにも妖しすぎ,遠い昔の古代ギリシャのクレタ島で,薄着の妖艶な美女が妖しく踊っているシーンを思い浮かべてしまい(僕だけか?),かえって眠れなくなってしまう。
いずれにしても,これらお勧めの曲は,同じ曲を何曲も入れるか,あるいはリピートにして聴いてください。1回聴くだけで深い眠りに・・・というのは無理で,もしそういう人がいたら,それはそもそも不眠症ではありません(笑)。
街中での法律相談が終わった後や,ランチの帰りなどに,デパ地下の生鮮食料品売り場で大好きなトマト,甘夏,ちりめんじゃこ,あじの開きなどを買って帰ることがある。そういう時,僕がレジの順番待ちをしていると,残念ながら後ろの人の買い物カゴが僕の体に有形の圧力をかけてくるという体験をよくする。決して気のせいではない。「有形」の圧力なのだ!
そういう時にヤンワリと後ろを振り返ると,その圧力の主は,決まってオバサンなのだ。全国約6018万人の僕のブログ愛読者の中にはその年齢層の女性も含まれ,僕も法律事務所の経営者だから経営面からも特定の層を敵に回したくはないのだけれど,事実は事実として言わせてもらうザマス。過去にこのようなカゴ圧力の経験をしたことは少なくとも7,8回はあったが,顔こそ毎回違うものの,繰り返すがその圧力の主はことごとくオバサンだったのだ。
僕としても何とか一矢報いるべく,カゴが当たっている腰の辺りに力を入れて少し押し戻してみると,10秒ほどは正常に戻る。しかし,柔らかいグミが指で押されて元に戻るように,気がつくとたちまち「有形の」カゴの圧力を再び腰辺りに感じるのである。いったい何故このような現象が起こるのだろう。セパレート式の矢印信号が出たのに気づかない先頭車両の運転者に対し,あろうことか3台後方の運転者がジレてクラクションを鳴らしてしまうように,一向に進まない列にイラついて直前の僕に圧力をかけてしまうのだろうか。いやいや,まさかそんな理不尽な人がいるはずはない。「早く進まないかなぁ」と無意識のうちにそのような行動となってしまうのだろうか。それとも,「絶対に割り込ませないぞ。スペースを空けないぞ。」という意識が強くて,そのような圧力付きの密着状態になってしまうのだろうか。相手にスペースを与えるなというのはサッカーの原則だが,さすがにデパ地下では困る。
住みよい街づくりのために,また,日本の明るい未来のために,今一度,自分の買い物カゴが列の前の人に「有形」の圧力を与えるなどといった,傍若無人な振る舞いをしたりしていないか確認し合おうではありませんかっ。
夜にお風呂に入るときは入浴剤を入れている。クナイプの岩塩入浴剤を楽しんだり,日本の温泉入浴剤を楽しんだりしている。昨夜は箱に10袋くらい入った温泉入浴剤をバラバラにして,目をつぶって「今日はコレ!」と選んでバスタブに入れた。昨夜目をつぶって選んだのは「那須塩原温泉」だった。2年前に旅行で行った温泉だ。歴史が古く,文人墨客も愛した名泉である。
亡き大平正芳元首相は,休日や旅行の際には読みたい本を何冊も持って,本当に嬉しそうに旅行先などで読書を楽しんだそうだが,僕も昔から読みたい本を温泉場でゆっくりと味わうのを至上の喜びとしてきた。那須塩原温泉で思い出したが,この時に読んだ本の素晴らしかったこと!
その本のタイトルは「逝きし世の面影」(渡辺京二著,平凡社ライブラリー)である。この本の価値は,僕の拙い言葉,表現力では到底伝えきれない。感動したし,繰り返し何度も読み返したい。この本は,開国前後に日本に訪れた外交使節,通訳,学者,旅行者らによって表現された旅行記,日本人評,日本文明評などを紹介し,著者自ら「失われた文明」を深く考察しているものである。その当時確かに存在した文明を初めて目にし体験した異邦人による評価の方が,より鮮明かつ客観的にその特徴を浮き彫りにできるのではないだろうか。礼儀正しさ,優しさ,質素,清潔,明るさ,子供たちの可愛らしさ。「いいことづくめで,どうなのよ。」と引いてしまう方もいるかと思うが,例えば,「第十章 子どもの楽園」の中から,若干引用してみよう(411頁以下)。
「チェンバレンの意見では、『日本人の生活の絵のような美しさを大いに増している』のは『子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯』だった。日本の『赤ん坊は普通とても善良なので、日本を天国にするために、大人を助けているほどである。』モラエスによると、日本の子どもは『世界で一等可愛いい子供』だった。かつてこの国の子どもが、このようなかわいさで輝いていたというのは、なにか今日の私たちの胸を熱くさせる事実だ。モースは東京郊外でも、鹿児島や京都でも、学校帰りの子どもからしばしばお辞儀され、道を譲られたと言っている。モースの家の料理番の女の子とその遊び仲間に、彼が土瓶と茶碗をあてがうと、彼らはお茶をつぎ合って、まるで貴婦人のようなお辞儀を交換した。『彼らはせいぜい九つか十で、衣服は貧しく、屋敷の召使いの子供なのである。』彼はこの女の子らを二人連れて、本郷通りの夜市を散歩したことがあった。十銭ずつ与えてどんな風に使うか見ていると、その子らは『地面に坐って悲しげに三味線を弾いている貧しい女、すなわち乞食』の前におかれた笊に、モースが何も言わぬのに、それぞれ一銭ずつ落とし入れたのである。この礼節と慈悲心あるかわいい子どもたちは、いったいどこへ消えたのであろう。しかしそれは、この子たちを心から可愛がり、この子たちをそのような子に育てた親たちがどこへ消えたのかと問うこととおなじだ。・・・・・・・」
これは当時の子供たちの様子に触れた箇所であるが,その他の章(テーマ)においても,このような描写,表現が至る所に散りばめられている珠玉のような名作だ。日本人には,その根底部分には,その心性として,惻隠の情,敵に塩を送る思いやり,卑怯を憎む心,礼節,潔さなどがあって,それらはまだ残っていると信じたい。著者は,本書を著した意図について「私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。」(65頁)と述べているが,僕なんかは追体験するにとどまらず,かつてあった文明の良い面は何とか復活して欲しいと切に願う一人なのである。
大学に入ってからの音楽生活は,質的にも,量的にも充実したものになった。アルバイトなどして経済的にも小遣いが増え,音楽的関心の対象にある程度お金を費やすことができるようにもなったからである。ただ,その前に高校生時代の最後に今でも記憶に残っていることがあるので,このことだけ伝えたい。音楽そのものに感動したというより,去り際に何かしら印象に残る教師がいたのである。もう名前は忘れてしまったが,超小柄,黒縁メガネ,禿頭,無口,シャイな先生だったが,最後の授業の最終の時間帯に,あらかじめ持参したレコードプレーヤーを使って,ヨハン・シュトラウスのワルツ「春の声」を教室で聴かせてくれたのである。卒業の門出に,はなむけの音楽としてそういう時間を生徒たちのために作ってくれたのだと思う。しかもその去り際には,相変わらずはにかみの(シャイな)表情で,「グッバィ,エブリバディ!」と言って教室から風のように出て行った。それまでは何かさえない先生だなと思っていたが,プライベートでは音楽好きの良い人なんだなと,何か嬉しいほのぼのした気分になったことを覚えている。
さて,大学に入ってからは,学問もそこそこに派手に音楽を聴いた。それまで聴く音楽のほとんどはショパンのピアノ曲だったが,かなりレパートリーが広がった。バッハ,ベートーヴェン,ブラームスのドイツ3大Bをはじめとして,その範囲は広範になった。ベルリオーズの「幻想交響曲」を聴くにつけても,その作曲技法特にオーケストレーションのすばらしさに感動した。今でもショパンは好きであるが,例えばピアノ協奏曲などにおけるオーケストレーション技法は,ど素人の自分でもベルリオーズのそれと比べて貧弱に感じたりしたものだ。
もちろん,お約束のビートルズにも熱狂した。同じビートルズ好きの友人の下宿に泊まっては,曲を聴きながら馬鹿話をし,挙げ句に深酒をして二日酔いとなり,翌日の授業をよくサボるという有様。「イエスタディ」,「ヘイ・ジュード」,「オブラディ・オブラダ」,「カム・トゥゲザー」,「ゲット・バック」など,誰もが挙げる曲が素晴らしいのは言うまでもないが,その当時も今も僕が特に好きなのは,次のような曲だ。
「マーサ・マイ・ディア」,「ユア・マザー・シュッド・ノウ」,「フォー・ノー・ワン」,「イン・マイ・ライフ」,「ゴールデン・スランバー」
これらの曲に共通しているのは,何よりもメロディーが美しいことだし,このうちのいくつかの曲は,その中間部にバロック的,対位法的な部分が含まれていることである(どうしてもクラシカルな部分は愛してしまうのか)。
そして,大学時代に熱中した音楽のジャンルは,クラシック音楽,ビートルズの他に,シャンソンであるが,シャンソンのことについては後日触れたい。