昨日,つまり2月8日は,新撰組の前身である浪士組が結成され,江戸から京都に向けて出発した日である。文久3年(1863年)というから,今から実に146年も前のことである。僕の場合は,数年前のNHK大河ドラマ「新選組!」をきっかけに新撰組に興味を持ったのだから,新撰組歴はそれほど古くはない。新撰組の歴史的な位置づけについてはいろいろな見方があるが(佐幕派としての活動がかえって倒幕・維新を早める結果となったなど),それぞれの志を立て,必死で白刃の下をかいくぐって奮闘した彼らには魅力を感じる部分も多々あるのだ。僕は好きだな。
さて,新撰組に関する本は数多く読んだが,やはり,子母澤寛の,いわゆる新選組三部作,「新選組始末記」,「新選組遺聞」,「新選組物語」は必読であろう。作者の子母澤寛の祖父も彰義隊の一員として上野戦争を戦い,転戦して函館五稜郭まで行ったのだし,子母澤自身,全国を歩き回って新選組隊士の生き残りや関係者に直接会って取材したという。三部作のうち,「新選組始末記」,「新選組遺聞」の2つは,全国で取材した内容に基づく「聞き書き」で比較的史実に近い内容だと思われるし,「新選組物語」はその名が示すように物語,創作であろう。
ところで僕は,新撰組に関する本を多数読んではみたものの,局長の近藤勇は副長の土方歳三をどのような存在として受け止めていたのだろうかという興味,関心もあった。でも,僕にはなかなかその辺りのことは解らなかった。ただ,土方歳三ファンには悪いが,仮に僕が新撰組隊士だったら,土方にはちょっと「引いてしまう」部分を感じただろう。前にもブログに書いたが,あえてタイプ分類をすると,僕は山南敬助タイプなのだ。
前置きが長くなったが,「新撰組物語」の最後の章である「流山の朝」の中に,さきほどの僕の疑問を解いてくれるような,ドキッとする箇所があった。この章は,もう官軍(直接の折衝役は薩摩藩の有馬藤太)に捕縛される直前の様子を描写したものだが,近藤が,身の回りの世話をしてくれる若い娘お秋に対し,土方に対する思いや心情を吐露する場面があった。その核心部分のみ引用すると(343項以下),
「わしは、京にあって、局長として如何なる我儘でも通る絶対の立場にありながら、何んとなく不自由な、何んとなく狭ッ苦しい、何んとなく息苦しい、言わば圧迫を感じていたのです。わしは、時々、そんな妙な窮屈を感じたので、何んの為だろうと、深く考えては見たけれども、どうしてもわからなかった。それが今朝、本当に、はっきりとわしにはわかったのだ。わしは、下の土方に事毎に敗ける、土方以下の人物だったのです。だから、ゆうべ、ああして土方と別れ別れになった。三十年の盟友と袂をわかって、わしは泣かねばならぬ筈でしょう。泣くのが本当です。それをわしはほっとした。そして、泣くべきわしが、はじめて、そこに己を見出し、自由なうれしさを味わい、何にかこう小鳥が籠を放されたような心地がして、本当に安心して、こんなに眠って終わったのです。わしは、心の中の敵、親しければ親しいだけに、深く食い込んでいた敵と離れたという事をはっきり知ったうれしさに、外の敵などはもう眼中にない。どうでもいいのだ。近藤が全く自由な一人の近藤をして、生きる事も死ぬ事も出来るうれしさ・・・」
これはあくまでも物語であって,近藤勇自身が語ったことではないが,全国を取材した上での「聞き書き」の名手である子母澤寛の深い洞察力に基づく描写であるだけに,説得力もある。僕のもやもやした疑問がある程度解け,我が意を得た瞬間でもあった。