「ぜんまいざむらい」に登場するなめざえもんについて,少しばかり思うところがあったので,考察してみたい。なめざえもんという存在は,ぜんまいざむらい,ひいては視聴者にとっては嫌な奴という側面は確かにある。
思いつくままにその嫌な奴の側面を指摘してみると・・・・例えば,ぜんまいざむらいが好意を寄せるずきんちゃんをめぐっては,恋敵である。ぜんまいざむらいがずきんちゃんと仲良くすると,嫉妬心を露わにする。時にはずきんちゃんに強引にキスしようとするなど,セクハラまがいのこともする。小判を連ねた小判剣を振りかざし,お金にものをいわせる体質。「にょほほ」というかんに障る笑い。ずきんちゃんを「やぐら寿司」に誘った時に,ぜんまいざむらいや豆丸を「招かれざる客」みたいにぞんざいに扱い,嫌みを言う。ずきんちゃんのためとはいえ,お菓子を買い求めようと人が行列をして待っているのに,お金にものをいわせてお菓子を買い占める・・・・・などなど。
しかし,よくよくなめざえもんのことを観察していると,結構いい奴である。「・・・・でシュタイン」の原賀ゲンナリが,できそこないの「頭のよくなる機械」を発明してこれをぜんまいざむらいに試し,一時的にぜんまいざむらいを記憶喪失にしてしまったことがある。それを見たなめざえもんは心からぜんまいざむらいのことを心配し,目から洪水のように涙を流し,ぜん様の記憶が蘇るように必死の努力をしてくれたのだ。なめざえもんの涙に,僕も朝っぱらからもらい泣きをしたくらいである(笑)。
そうです。なめざえもんは結構いい奴なんです。普段でも,ずきんちゃん自身がなめざえもんと一緒に町内を歩いているシーンが散見されるということは,ずきんちゃんもそれなりになめざえもんの良さは認めているということでしょうか・・・。なめざえもんの存在自体からも判るように,欠点が目立つ人間でもどこかに長所や美点があるものです。なめざえもんがそのことをあらためて教えてくれました。
いやー,本当に疲れた。へとへとである・・・。疲れたと言っても,仕事ではなく,ゴルフなんだけど。車で行くことのできる場所だが,土曜日に一泊し,土曜日と日曜日に連続でラウンドした。昔はこのようなことは平気だったが,最近では年齢のせいか2日連続ラウンドは割と体にこたえる。帰宅したら,自然に熟睡できた。ビートルズの「ア・ハード・デイズ・ナイト」という曲の歌詞の中に,「 I should be sleeping like a log 」(丸太みたいに正体もなく眠りたい)というのがあるが,正にそんな感じであった。熟睡というより,爆睡というやつである。
さて,さて,ゴルフのスコアはやはりダメであった。前にこのブログで「復活の兆し」と題してあたかも開眼したかのように述べたが,甘い評価であった。確かに,その時に肝に銘じた「早打ち厳禁」の鉄則は今も真実だと思っているし,このこと自体に間違いはない。でも,僕の場合は,それだけでは解消されなかった問題点があったのだ。それは,球があまり上がらないことである。宿敵のY弁護士は,僕の地をはうような独特の弾道を見て,「まむしの元松」などと揶揄している。確かにドライバーだってそうだし,アイアンだって「ロフト角度」というものがある。ちゃんとしたスイングをしていれば,このロフト角度どおり,自然に球が理想的な弾道を描くはずなのである。どうも僕の場合は,球が上がりにくい傾向があった。こういう場合,例えばグリーンの前に池が立ちはだかって,いわゆる「花道」がないような場合は,致命的である。
でも,今回の2ラウンド目にようやくつかんだ。球が上がるスイングに目覚めたのである。僕の場合は,どうやらいずれのショット(ドライバーとアイアン)もインパクトの瞬間にクラブフェイスがかぶさり気味で,ロフト角度を全く生かせていなかったことに気づき,「ボールを払うような」スイングとクラブフェイスの向きを修正してみたら見事に高い弾道を描くようになったのである。ドライバーもアイアンも。ハッ,ハッ,ハッ!やりました。今度こそ復活の兆しであります。ちょっと季節は暑くて辛いけど,宿敵Y弁護士に今度こそ圧勝すべく,次のラウンドが誠に楽しみであります。
社会に対して不満ばかり感じている渋面の爺さんと誤解されるのを覚悟で,先日出くわした2つの出来事,不満について敢えて述べてみたい(本当はそういう爺さんじゃないんでやんすよー(笑))。
まず1つ。客待ちで待機していたタクシーに乗り込んだ時のこと。もろに,しかも強く,タバコのにおいがしたのである。確かタクシー「全車禁煙」という英断,実施に踏み切ったなずなのに・・・。いわゆる流しのタクシーを止めて乗り込む時には,場合によってはその前の乗客が吸っていたタバコの「残り香」に出くわすことはある。でも,今回のは客待ち待機のタクシーであり,中でこっそり運転手さんが一服していた可能性もある(前の乗客のせいだというなら,換気しておけば良い。)。もしそうだとしたら,プロ意識が希薄過ぎる。その場の真実は分からないが,せいぜい「無言の圧力」をかけてやった。
2つ目。司法修習生とランチに行った時のこと。感じの良い和風レストランであったが,あいにく一番広い開放的なスペースが一杯で,割と狭いスペースに案内された。そこには,それでも2人掛け程度の大きさのテーブルが5卓くらいあり,僕らが着席したらどのテーブルも満席となった。そこまではよいのだし,料理も大層美味かった。でも,隣のテーブルに坐っていた50歳半ばと思われる会社員風の2人の男性の会話の騒々しいこと。特にそのうちの年上で目上と思われる方は,周囲を全くはばかることなく「ワッハッハー」という甲高い笑い声を連発していたのだ。音はいろんな伝わり方をするが,そのときは,周りの人の耳をつんざくような感じ,つまり空気を振動させ,周囲の者の鼓膜を遠慮なく暴力的に揺さぶるような笑い声だったのである。僕は内心,「もういい歳なんだし,分別盛りなんだろう。もう少し周りの人に対する配慮をしたらどうだ!」と思った(怒)。他のテーブルの人たちは,食事と会話を楽しみ,その会話たるや他のテーブルの人に聞こえるか聞こえないかといったようなもので,いい雰囲気だったのに。さきほどの初老の不心得者の甲高い声だけが,ほどよい「静謐」を壊してしまったのである。
「また『マタイ受難曲』かよー」なんて言わないでね。今日は,マタイ受難曲の曲そのものよりも「マタイ受難曲」という本のお話なのです(あれっ?今日はいつもと文体が違う)。前にも一度このブログで触れたことがあると思いますが,その本というのは,「マタイ受難曲」(礒山雅著,東京書籍)のことです。
僕がこの本を東京の書店で偶然見つけたのは,平成7年3月ころでした(あの忌まわしい地下鉄サリン事件が起こった直後のことです。)。司法修習生の時代も終わりを告げ,4月からはさあいよいよ弁護士1年生という時期でした。この本を購入してしばらくの間は,仕事が忙しくて読む余裕がなかったのですが,恐らくちょうどその年の今ぐらいの季節からこの本を読み始めました(今日はこの文体でこのまま突っ走ります)。
著者(礒山雅氏)のマタイ受難曲への思い入れは半端なものではありません。その求道心とこの曲に対する素晴らしい研究の成果がこの本に凝縮されております。他の本と比較した訳ではありませんが,マタイ受難曲の研究成果に関する本としてこれ以上のものが現時点で存在するでしょうか?・・・・・。例によって,この本の「はじめに」の部分から少し引用してみましょうね。
「・・・・・私は、構想の雄大さと親しみやすさ、人間的な問題意識の鋭さにおいて、《マタイ受難曲》こそバッハの最高傑作であると思っている。この作品には、罪を、死を、犠牲を、救済をめぐる人間のドラマがあり、単に音楽であることをはるかに超えて、存在そのものの深みに迫ってゆく力がある。それはわれわれをいったん深淵へと投げ込み、ゆさぶり、ゆるがしたあげく、すがすがしい新生の喜びへと、解き放ってくれる。研究者としての私にとって、《マタイ》はいつも、大きな目標として、頭の上にあった。その《マタイ受難曲》の研究に、私は、自分の四十代を費やした。その集成が、本書である。・・・・・・・・」(17~18頁)
どうです,皆さん。もう読むしかありませんよねぇ・・・。それにしても,ある研究者の四十代,約10年間を費やす対象となった「マタイ受難曲」という存在。これは何度聴いても涙がでてくる至高の存在なのであります。僕もこれまで,ある本を何度も読み返した経験はありますが,今回この「マタイ受難曲」という本を読み返すのは5回目で,5回目を迎えたのはこの本が初めてです。というのも,今年の11月に合唱団の一員としてこの曲の上演があり,そのために練習を重ねているのですが,改めてこの曲に対する理解を深めるにはこの本を読み返すのが一番だと思ったからです。
名古屋グランパスは土曜日のホームでの千葉戦に0-1で敗れた。シュートは16本も打っているけど,ゴールの予感すらないものがほとんど。実はこのような戦い方がここ数試合ずっと続いている。この千葉戦は確かにケガや出場停止で必ずしもベストメンバーで臨んだ訳ではないかもしれないが,そういうことを差し引いたとしても,仮に勝っていても勝利には値しない戦いぶりである。
ストイコヴィッチ監督は,この試合後のコメントでディフェンスや中盤はよくやっている,攻撃陣がもっと奮起せよと述べている。でも,恐れながらちょっと違うような気がする。例えば鹿島アントラーズの戦いぶりと比較してみても明らかなように,中盤が機能しているかどうかが決定的な差となっている。グランパスの試合を観ていても,実況や解説者からは「中盤ができていない」などと言われるように,中盤でのパスミス,ボールキープ力不足,パスワーク不良,苦し紛れのバックパスないし前線への放り込み,ルーズボールへの対応の遅さなどが目立つのである。また,「ディフェンスはよくやっていた」といっても,それは中盤を相手方に制圧されて押し込まれていたからディフェンスが忙しかったというのが実情であろう。
強いチームは何よりも中盤がしっかりしている。平成8年ころの強いグランパスは中盤がしっかりしていた。このブログを書いている今日,グランパスのフロントがオーストラリア代表FWのジョシュア・ケネディとの入団交渉を成功させ,獲得したとの情報に接した。確かにFWのケネディは身長194センチでハイボールの競り合いには強いし,ポストプレーも十分に期待でき,強力な助っ人にはなろう。FW陣のうちダヴィ,玉田,ケネディをどのように使っていくのかは分からないが,いずれにしても彼ら攻撃陣が得点を量産するにもそれを下支えし,お膳立てをすべき中盤が機能していることが前提であると思う(「もう,あちきは,個人技だけに頼る戦法をとるでやんすよー。」というのであれば話は別だが。)。
中盤が機能していないのであれば,どのようにして機能するようにしていくかを考え,工夫し,実践させていくのが監督の役割であり,学習能力,修正能力が要求されるのである。今は監督としての正念場ではなかろうか。
ジャイアンツの方は今のところはあまり心配していないが,グランパスの方は最近では新聞の順位表に目をやらなくなってしまった。でも心の中では応援しているのだ。プロ意識をもっと前面に出してぜひとも頑張って欲しい。
一昨日は梅雨空の雨が降り,夕方には雷が暴れた。行乞の旅に出た網代傘姿の山頭火は,雨とはどのように付き合ったのだろうか。その日の食い扶持を確保しなければならないのだから,雨だからといって行乞を止め,畳の上で大の字になっている余裕はなかったと思う。
「あの雲がおとした雨にぬれてゐる」
「雨なれば雨をあゆむ」
「笠をぬぎしみじみとぬれ」
山頭火は,雨でも自然と一体である。当然のことながら自然を敵対する勢力とは全く思っていない。
では,暑い晴天の日はどうか。
「炎天をいただいて乞い歩く」
「炎天の下を何処へゆく」
山頭火はたとえ炎天でもやはり自然と一緒だ。一体である。
それに引き替え僕といったら。真っ黒に日焼けすると法廷で「遊び人」と思われてはいけない,紫外線は大切な髪に悪いなどといった理由で,男性用日傘を差して歩いている。山頭火とは違い,あたかも自然を敵対視し(そのつもりはないのだが),自然から自己を防衛している(・・・・・いわゆるUVカットというやつ)。でも日傘は結構重宝している(笑)。
でもねぇ,山頭火の気持ちが解るなどとは,とても恥ずかしくて言えない。山頭火の生き方に共感を覚えるなどと言っても説得力がない。それでも何となく山頭火の生き様に憧れる。五七五でない山頭火の自由律非定型句に心を惹かれるのである。
仕事に疲れ,夕食の時にテレビを見ながら美味いビールを飲んでいた時,思わず吹き出してしまった。「すみま,すみませんでした,すみまー。」だと・・・(爆笑)。お笑い芸人のハイキングウォーキングのギャクだ。腹を抱えるほどではないが,笑える。
このコンビには,このほかにも,「かしこ,かしこまりました,かしこー。」というのもある。これも腹を抱えるほどではないが,笑える。このコンビ名もどこか牧歌的な感じでいいし,鈴木Q太郎の髪も非常に美しい。ロン毛としては多少気持ち悪い長さだが,その緑の黒髪の見事なこと。きっとQ太郎の髪のキューティクルは完璧なほどの健全さを保っているのであろう。日本人にはやはり世界に冠たる黒髪がある。Q太郎には絶対に金色や茶色にヘアダイしてもらいたくない。
ただ,例えば僕や事務員さんに何か不手際があり,依頼者(クライアント)に迷惑をかけたような場合に,僕が「すみま,すみませんでした,すみまー。」などと言ったら,大笑いして許してくれるか,さもなくば,弁護士会に懲戒請求をされてしまうだろう。「すみま,すみませんでした,すみまー。」とか,「かしこ,かしこまりました,かしこー。」とかは,使い方と使い時を間違えると,非常にリスクが高いギャグである。
それにしても,笑いは人間にとって非常に良いことなんだそうな。腹から笑うことによって,免疫力・自然治癒力が高まる,脳内血流量が増えて細胞が元気になる,緊張が緩和され,精神的にリラックスできるなどの効用があるようだ。絶対に笑ってはいけない場面ではやはり笑ってはいけないが,そうでない限り,できるだけ笑える機会を自ら積極的に見つけ,そこに身を置き,腹の底から笑うべきである(笑)。
1回で直してくれた腕の良い歯医者さん。その治療の際に,間抜けな顔で大口を開けている僕の口の中をバキュームしてくれた女性がいた。看護師さんなのか,歯科技工士さんなのか,助手さんなのかは分からない。その女性は大きなマスクをしていたので,鼻から上の容貌しか分からなかったが,目鼻立ちははっきり分かった。恐らく相当に美人に違いない。間違いない。きっと美人である。
まぁ,僕の場合は,間抜けな顔で大口を開け,しかも不安と恐怖で体を硬直させ,口の中を美人にバキュームしてもらっていた訳だから,恥ずかしかった。その女性は,目鼻立ちがはっきりしていて,物腰も丁寧で優しかった。女性の色香があったのである。
女性の色香に対しては,男子たるもの,絶えずこれに対する「迷い」を自戒していかなければならない。愛読書の「徒然草」の第九段には,こうある(新編日本古典文学全集44,小学館,88頁)。
「・・・・・・まことに愛執の道というものは、その根が深く、源の遠いものだ。人間の欲望を刺激する、さまざまな対象は数多くあるけれども、それらはみな、しりぞけることができるものだ。その中で、ただ、あの情欲という迷い一つだけは、とてもおさえがたく、こればかりは、年老いた人も若い人も、また知恵のある人も愚かな人も、変わるところがないものと思われる。こういうわけだから、女の髪の毛をよって作った綱には、大きな象さえも、しっかりとつなぎとめられ、女のはいた足駄で作った鹿笛には、秋の雄鹿が必ず立ち寄ってくるものだと言い伝えられているのです。自ら戒めて、恐れもし慎みもしなければならないのは、この迷いである。」
本当にそうだなあ。吉田兼好さん,良いことを言うなぁ。奥が深い。ただ断っておくが,歯医者さんでの治療の際,口の中をバキュームしてくれた女性については,単に美人だと思っただけで,誓って言うが何も情欲まで感じたのではない。ブログの話のネタに「徒然草」第九段に言及したに過ぎない(笑)。
・・・・・・・は,・・・歯が取れちゃった(笑)。僕も歳をとったもんだなぁ。前に歯医者さんで処置してもらった箇所である。歯が取れたと分かった瞬間は,一時的にでも身体の完全性が失われたので,ショックではある。
早速予約を入れ,取れた歯を持って行きつけの歯医者さんに出かけた。この歯医者さんは,恐らく僕と同年代であろう。治療に関する説明を十分にしてくれるし,何しろ腕が確かだ。診察券を見ると,初診が平成7年になっているから,かれこれ14,5年になる。
でも,いくら歯医者さんの腕が確かでも,例の「キーーーーン,キーーーーン」という歯を削る機械の音を聞くと,やはり緊張するし,不安で胸が高鳴る。よく映画の予告編などで「手に汗握る,感動スペクタクル巨編!」などのキャッチフレーズがあるが,僕は映画を見たくらいで手に汗など握った経験は全くない。逆に必ずと言っていいほど手に汗を握ってしまうのは,歯医者さんで治療を受けている時である。さらに悪いことに,僕は「痛み」に対して非常に臆病で,特に「キーーーーン,キーーーーン」などの時は,緊張で体が硬直してくるのだ。あたかも死後硬直が始まったかのように・・・・・。
その治療の日に使用された機械はどうやら2種類で,「キーーーーン,キーーーーン」の高音域のものと「ゴーーーーン,ゴーーーーン」の低音域のものだった。ソプラノとバス・・・ち,違うかぁ(笑)。結局この時は,何となく自分でも分かってはいたのだが,幸いにして歯の実質を削る時間は比較的短く,かみ合わせ調整のために上にかぶせる金属を削る時間の方が長かった。でもねぇ・・・,上にかぶせる金属を削るとはいっても,やはり削られている間は長く感じる。僕の場合,やはりその間は手に汗を握りつつずっと死後硬直状態であった。
2,3回は通わなければならないのかなと覚悟していたのだが,何と,その日1回の治療で見事に元通りに復旧し,思い切り噛めるようになったのである。素晴らしい。歯医者さんはすごい・・・。思うに,歯医者さんは,口腔解剖学,口腔外科学,歯内治療学などを学んだ学者としての側面も勿論あるが,何より「職人」ではないかと思う。僕の場合は,いい腕の職人に出会えて良かった訳だ。
仕事の忙しさや様々なストレスに押しつぶされまいとして,自分なりに工夫してストレスを解消したり,癒しを求めたりしている。ゴールデンウィーク(連休中)には東京へ行き,バッハのミサ曲ロ短調を聴いてきたのだが,これは本当に素晴らしい。名曲の宝石箱のようである。
このミサ曲ロ短調の中で,とりわけ心が躍ってしまう曲,精神的に凹んでいるような時にお薦めの曲が,「グローリア」の中の「クム・サンクト・スピリトゥ」である。これはいいですよ。心だけでなく,体まで踊ってしまいます。指揮者のジョン・エリオット・ガーディナーもこの曲の舞踊的・舞踏的要素を強調しているし,実際に彼が指揮をしている時は小躍りした感じになっているくらいで,すごく躍動感がある。でも,総譜(スコア)を見ると,特に中間部は16分音符が流れるように配置され,歌唱技術としては相当に高度なものが要求されるのではないだろうか。単に聴いている分には楽だけど(笑)。
この「クム・サンクト・スピリトゥ」はニ長調で書かれ,トランペットが効果的に使われている。このニ長調とトランペットと旋律,そして三拍子というのが躍動感の源泉なのであろうか。同じニ長調とトランペット,そして三拍子の組み合わせと言えば,やはりこのミサ曲ロ短調の「グローリア」の中の「グローリア・イン・エクシェルシス・デオ」でも共通して使われ,これも心が躍る名曲である(祝祭的な感じもする)。
以上,精神的に凹んでいるような時にはこの2つの曲がお薦めです。元気になりますよ。