ゆっくり徒歩で通勤していると,さすがに肌に感じる風が春めいてきたことに気づく。事務所までの経路のうち,シーズンになればそれはそれは見事な桜を咲かせる木々の集まった場所があるが,その枝々は何となくではあるがふっくらしてきたように見えるし,今にも蕾を出しそうな風情でもある。
雲水,漂泊の俳人種田山頭火が作った次の句は,おそらく今頃の季節の作であろう。
「ゆらいで梢もふくらんできたやうな」
きのう,3月6日は山頭火のお母さんの命日だそうだ。昭和13年3月6日,山頭火はそのお母さんの47回忌に次のような句を作っている。
「うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする」
山頭火の母は不幸にも自宅の深井戸に身を投げて自殺し,この時山頭火は満9歳と4か月の幼少であった。それ以来,母を思慕して歩む人生で,現世にあっての遊蕩も,世を捨てての放浪行乞も,その根っこのところでは母の自殺が因を成しているとの指摘もある(「山頭火名句鑑賞」234頁,村上護著,春陽堂)。
山頭火が春に作ったと思われる境涯俳句風のものに,次のようなものがある。
「かうして生きてはゐる木の芽や草の芽や」
そして,やはり彼が春に作ったと思われる少し楽しげな句は,
「何が何やらみんな咲いてゐる」
さてさて,同業者同士の来週の京都旅行に備えて,新撰組コース責任者の私は,昨日(3月3日)も下見に行ってきました。本当は仕事をやりたかったのですけどね・・。でもその一方で,京都の一人散策はこれまた楽しい。
最初の目的地は京都御所でした。と,ところが・・・,地下鉄今出川駅から地上に上がった瞬間に私が見たものは,相当の勢いで降っている雪でした。もう,おひな祭りだというのに。ああ,今日の下見は先が思いやられる。早速コンビニで500円の透明ビニールの傘を買い,当日の昼食会場までの足取りを確かめた後,京都御所に向かいました。京都御所の中へは事前の参観許可書が必要ですので(当日の分は既に入手済みです),この日は許可書受付までの道順やその周辺(京都御苑),蛤御門などを確かめておきました。
そうこうしているうちに,午前11時30分となりました。少し早かったのですが,次の目的地である壬生界隈に向かう前に,御所周辺でランチをとることにしました。その日の晩は,娘のあかねちゃんの期末試験終了慰労とひな祭り祝いをかねてしゃぶしゃぶをすることになっておりましたので,軽めのランチにしました。場所は,京都御所蛤御門のはす向かいにある小さな喫茶店でした。店内には客は誰もおらず,おばあさんが一人で頑張っておりました。カレーライスとコーヒーを注文。少し経った頃,電子レンジ何かの「チン」という音がしました。出てきたカレーライスはごく普通のものでしたが,明らかにレトルトカレーだと思われます(笑)。でも,腹も減っていたし,そこそこ美味しかった。食べている間,コーヒーをいただいている間は,そのあばあさんとずっと世間話でした。昔のひな祭りではちらし寿司を毎年作って嫁いだ娘に食べさせたこと,そしてもうこの場所で43年間も喫茶店を続けているとのこと。何よりです。細々ですが,京都御所の直ぐ近くで半世紀も喫茶店の営業をしてこられました。これからも長生きして欲しいと思いました。
さて,それから向かったのは壬生の光縁寺です。新撰組総長であった山南敬助らの墓所です。ご住職が丁寧に応対してくださり,墓参りをして帰ろうとすると,ご住職は戸を開け放ち,本堂とご本尊を見せてくださいました。そこでも約30分くらい話し込んでしまいました。壬生の人たちの新撰組に対する感情は相半ばするのかもしれませんが,忘れ去られることはないでしょう。
次に前川邸を経て,八木邸です。新撰組の一番最初の屯所の一つで,芹沢鴨らが粛清された場所でもあります。その際にできたと言われる柱の傷も見てきました。その後は,壬生寺です。ここも新撰組ゆかりの寺で,地下には平安時代にできた仏像もありました。仏像などを眺めると本当に気が休まります。
もうこれで新撰組コースの道案内等は完璧です。さてこの段階で午後2時ころになっておりました。歩き疲れていた感はありましたが,前回の下見の時と同様,再び新選組記念館の青木さんを訪れました。アポなしです(笑)。いつもどおり2つの灯油ストーブが置いてあり,アットホームな記念館です。何かに憑かれたように,どうしても足が向いてしまうのです。それくらい青木さんは,おそらく入れ歯だと思うのですが(笑),魅力的なのです。青木さんは京都で生まれ,同志社大学を出て長年銀行マンとして活躍し,民家を改造して新選組記念館を作ったのです。玄関先には新選組の旗が立てられています(笑)。私が青木さんの所を訪ねると,なまじ私も新選組に関するそこそこの知識があるものだから,どうしても長話になってしまうのです。青木さんは次から次に私に資料をくれます。恐縮してしまいます。遠慮したのですが,勝海舟と木戸孝允の肖像画もくださいました。どうせいただくならば,本当はその間にあった西郷隆盛の肖像画が欲しかったのですが・・・(笑)。そんな最中に地元の信用金庫の人が預金勧誘の営業活動にアポなしで訪ねて来ても,青木さんはイヤな顔一つせず,部屋に「上がられますか。」と勧めるような人なのです(笑)。青木さんは本当に新選組と歴史と京都を愛する人なのでしょう。光縁寺のご住職も青木さんのことはご存知でした。
約1時間青木さんと話し込んだ後は,やはり小腹が空いたので,南座の向かい側(祇園の入り口)辺りにある「一銭洋食」に行きました。時間帯が食事時ではなかったため,お客さんの人数よりも,店内に飾られているマネキンの方が数が多かったようですが(笑),お好み焼き風の美味しいおやつです。途中で40歳代と思われる金髪の外国人女性も一人で訪れました。彼女も「一銭洋食」が好きなのでしょう。
まず初めにお断りしておきますが,音楽好きの私は,どの音楽家も心から尊敬しております。ただ好みの問題として,個々の曲には好きかそうでないかの違いはもちろんありますし,音楽家(作曲家)の作風についても若干そういうところはあります。
今年は西暦2011年ですから,作曲家であり著名なピアニストであったフランツ・リスト生誕200年記念の年です。ですからリストは,昨年生誕200年を迎えたショパンやシューマンより一歳年下ということになります。今年はリスト生誕200年を記念して何らかのイベントやコンサートが開かれるでしょうね。
リストはそれはそれはすごい超絶技巧をもったピアニストだったようです。テクニック的にはその当時右に出る者がいなかったほど。ですからリストは「ピアノの魔術師」とか「鍵盤の王者」などと呼ばれていました。「ラ・カンパネラ」とか「超絶技巧練習曲」とかの彼の作品からすればそのテクニックの凄さを窺い知ることができます。実際にそれを作曲し,聴衆の前で演奏していたのですから。そういえば,リストの曲を得意としていたピアニストを振り返ってみても,ジョルジ・シフラ,スビャトスラフ・リヒテル,アンドレ・ワッツといったテクニシャンぞろいです。
でも私は,リストの曲は最近では聴く機会が少なくなりました。昔からそれほど多くもありませんでしたが。はっきり言うと,感動があまりないのです。「超絶技巧練習曲」なんかを聴いていても,技巧面ばかりが強調されているような気がして,「詩」を感じないのです。リストのファンには申し訳ありません。
同時代のショパンは「ピアノの詩人」と呼ばれているように,たとえば「12の練習曲」(作品10),「12の練習曲」(作品25)を聴いていて,感動しますし,詩的で「詩」を感じます。「詩人」のショパンの方を私は好むのです。あの名指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーもショパンの曲を大いに評価し,自ら奏でていたとその夫人が伝えておりました(エリーザベト・フルトヴェングラー)。また,どのピアニストも旧約聖書のように評価,練習しているであろうバッハの「平均率クラヴィーア曲集」のどのプレリュード,どのフーガにも詩的なものを感じるのです。
自分の読書傾向はかなり偏っているとは思うが,それでもいつも心の中には日本の古典への憧れがある。万葉集,梁塵秘抄,方丈記,平家物語,徒然草などなど。方丈記や徒然草などはボリューム的に手頃だったので既に味わったが,いずれ万葉集や梁塵秘抄,平家物語などはじっくりと読んでみたいと思っている。
日本の古典の中で,これまで漠然とではあるが一度読んでみたいと思い続けていたものに上田秋成の「雨月物語」があった。何でこの作品に興味を抱き続けてきたのかは分からないが,雨も好きだし,月も好きだし,タイトルが何ともしっとりとしていて日本的だし,江戸期の怪異文学の傑作という触れ込みに惹かれ,怖いもの見たさというのもあったかもしれない。そんな訳で,このたび,ちくま学芸文庫の「訳注日本の古典」シリーズ中に高田衛・稲田篤信校注の良い本を書店で見つけたので,読んでみた。
上田秋成の雨月物語は次のような構成になっており,全部で九つの怪異談の集まりである。
巻之一 「白峰」 「菊花の約」
巻之二 「浅茅が宿」 「夢応の鯉魚」
巻之三 「仏法僧」 「吉備津の釜」
巻之四 「蛇性の婬」
巻之五 「青頭巾」 「貧福論」
「白峰」における崇徳上皇と西行の行き詰まるやり取り,「菊花の約」における赤穴宗右衛門の至誠と霊の不可思議,「夢応の鯉魚」における鯉の遊泳の際の美しすぎるほどの描写(三島由紀夫も絶賛),「仏法僧」や「蛇性の婬」における人性,獣性の情念の凄絶さ・・・。
怪異文学としては非常に完成度が高いし,改めて日本の古典の素晴らしさを認識させてくれる。雨月物語における「雨」と「月」の言葉の意味については学者の間で深い分析がなされているが,雨月物語の序の部分で作者の上田秋成が書いているのは,「雨が上がって晴れ,おぼろ月夜の晩にこれを書き上げたから『雨月物語』と名付けた」とのこと。ほんと,風情があっていいねえ(笑)。