5月3日はカミさんと娘のあかねちゃんと3人で,長野県の伊那方面へ日帰り旅行に行ってきました。なぜ伊那方面なのかというと,そこは漂泊の俳人井上井月の最終的な安住の地であり,そのお墓や句碑がたくさんあるからです。井月は「せいげつ」と読みます。その当時井月が見たであろう山々や自然を自分の目でも確かめたかったのです。それと伊那の名物,ソースカツ丼もお目当てでした(笑)。
中央道の伊那ICを降りる頃にはもう既にお昼近くになっておりましたから,衆議一決,まずは腹ごしらえということになりました(笑)。お目当てのお店はお客さんがいっぱいでしたのでそこをあきらめ,少しさまよってから何となく良さげなお店に入りました。私とカミさんは当然にソースカツ丼を注文し,娘のあかねちゃんは熟慮に熟慮を重ね,迷いに迷った末に,これまた地元の名物料理であるソースローメンを注文しました(少し太い麺の焼きそばのようなもの)。いずれも注文の食事に満足し,次に井上井月の句碑めぐりをしました。
まずは,井上井月のお墓参り。ただ本当のお墓は塩原本家の敷地内にあるそうで,私たちがお参りしたのは卵形の割と小さな自然石のものでした。この石は,井月没後10年の明治30年に,塩原折治(俳号梅関)が三峰川から拾ってきた卵形の赤御影の自然石に「降るとまで 人には見せて 花曇」(井月の代表的な名句の一つ)を刻み,塩原家の墓地内に供養句碑として設置したものです。やがてこの句碑は昭和年代に入って刻んだ文字が風化して消えてしまったのですが,人々は今でもこれを井月の墓としてお参りに来ます。種田山頭火もこれを井月のお墓として参ったそうです。私たちもお参りしました。
次に向かったのは,六道原です。ここにも句碑があるのです。しかし私たちはこの句碑をなかなか見つけられずにいたところ,カミさんが目ざとく「あれじゃないかな?」と見つけてくれました。そこには,井月の句碑と,その横に彼に私淑し,敬慕していた種田山頭火の句碑が並んでいました。刻まれていた井月の句は「出来揃ふ 田畑の色や 秋の月」で,山頭火の句は「なるほど 信濃の月が 出てゐる」でした。私たちがこれらの句碑を眺め,次の場所に移動しようとして車に乗り込みましたら,これらの句碑のすぐ近くに住む一人の品のよいご老人が私に話しかけてくれたのです。私はその方と井月について少しの間立ち話をしました。この方は,遠路はるばる井月が漂泊した伊那,そしてその句碑などを訪ねて来た私たちのような存在が嬉しいご様子でした。よくよく話を伺ってみると,この方は,何と,何と,井上井月顕彰会の会長をしておられる堀内功さんだったのです。光栄なことです。話がはずんでしまいました(笑)。
そしてそこを辞去した後,堀内会長から道順を教えて貰った六道堤の井月の見事な句碑に向かったのです。大きな池の周りの堤にあるその句碑の句は,あの有名な「何処やらに 寉の声聞く 霞かな」でした。感無量です。そして桜の頃は本当に美しい景色でしょう。井月が数十年にわたる全国的な漂泊の旅の後,この伊那を最終的な安住の地に定めた気持ちの一端に触れたような気がしました。
「落栗の 座を定めるや 窪溜まり」