きのう,最高裁の第1小法廷であまりにも当然で妥当な判決がありました。本当に安心しました。この裁判では,都立高の元教職員13人が,国旗に向かっての起立や国歌斉唱をしなかったことを理由として,退職後に嘱託職員として再雇用しなかったのは違法だとして損害賠償請求をしていた事件ですが,最高裁の第1小法廷はこのような措置は合憲であるとして,元教職員らの上告を棄却し,彼らの敗訴が確定しました。
この判断は極めて妥当であり,その要旨は次の2点に集約されると思います。
① 起立斉唱行為は慣例上の儀礼的な所作としての性質を有し,職務命令は個人の歴史観や世界観を否定するものではなく,個人の思想と良心の自由を直ちに制約するものとは認められない。
② ただし,国歌国旗に敬意を表明することは応じがたいと考える人にとっては思想と良心の自由に間接的な制約となる面があることは否定し難いが,式典を円滑に遂行するという職務命令の目的や公務員の職務の公共性を踏まえ,(職務命令には)許容しうる程度の必要性,合理性が認められる。
なお,実は5月30日にも,国旗に向かっての起立や国歌斉唱に関する職務命令の合憲性が争われた同種の事案で,最高裁第2小法廷はやはり前記と同様の理由で合憲と判断しており,この判断も全くもって正当です。
世界中どこの国を見ても,自分の国の国旗には敬意を表しますし,国歌は起立して斉唱するのが常識になっているでしょうに。それにしても,こういった職務命令の合憲性を争う教職員(以下「この手合い」といいます。)は,教職員,公務員としての職務の公共性,児童・生徒らに対する影響力を一顧だにしておりません。児童・生徒にとって,入学式や卒業式のような人生の一ページとなる厳粛な式典の最中に,ふてくされて起立もせず,国歌斉唱もしないような教職員の姿を目にして,児童・生徒はどう感じるでしょうか。その悪影響は看過できません。この手合いが一般市民である場面で起立や国歌斉唱を強要されたというのならば憲法19条(思想・良心の自由)の問題が生じますが,訴訟で争われている場面は,教育という公共性の高い場面なのであり,人権もその職務の公共性に応じて一定の制約があるのはやむを得ないのです。この手合いがその歴史観,価値観に基づいて国旗や国歌に対してどんな認識,感情を有しているのかは知りませんが(恐らく,当時のGHQが徹底して推し進めていた史観,「眞相はかうだ」,「眞相箱」,「質問箱」のようなプロパガンダ,その後の「閉された言語空間」の中での反日的な思考などに立脚するものでしょう。),教育現場や式典の場面で,これは自分の気にくわない情況だ,思想信条に反するからといって,勝手気ままに振る舞わせていたら,秩序が保てませんし,児童・生徒への悪影響は計り知れません。はっきりと言いますが,卒業式などの場面で,この手合いがふてくされたまま起立も国歌斉唱もしないという行動をとるのは,一つのデモンストレーション(示威行動)だと思います。厳粛な式典の場面でそんな権利はありません。そもそも職務命令まで出させる状況自体がおかしいのです。ましてや,そうしたからといって再雇用しないのはけしからんなどと裁判で争うというのは,恥を知る人のすることではありません。
産経新聞によりますと,最高裁の第3小法廷でも,今月の14日と21日にやはりこの種の事案に対する判決が予定されているとのことです。第3小法廷もさきほどのような極めて妥当な判断をすることを期待したいと思います。そうなれば,この争点については,第1小法廷,第2小法廷,第3小法廷のそろい踏みとなりますね。