もう年齢のせいでしょうか。このブログも思い出話が多くなってきました。バッハの教会カンタータ第106番「神の時は最良の時」を聴いていたとき,その歌詞の内容から,私の中学校時代からの親友F君のことを思い出してしまったのです。
F君との思い出話はたくさんありますが,やはり夏の出来事をどういう訳か多く覚えています。私もF君も中学校時代は野球部に属していまして,大所帯の野球部の中では補欠の補欠といったような立場でした。そんな訳で,炎天下でのクラブ活動に対するモチベーションは極めて低く(笑),彼と一緒によく練習をサボってはかき氷屋さんで冷たいかき氷を食べてだべったり,卓球をしたりして遊んでいました。そのかき氷屋さんにはどういう訳か卓球台が置かれていたのです(笑)。また,高校進学後も,彼から誘われていろいろなアルバイトを一緒にやりました。大人の人と一緒になって,ニワトリやヒヨコを車で運搬して,鶏舎などに入れるようなアルバイトも体験しました。今にして思えば,彼は世間知らずの私を,社会との接点に導いてくれたという面もありました。
前にもこのブログで触れたことがあったかもしれませんが,その大親友であったF君は3年前に亡くなりました。私は弔問の際に人目をはばからず号泣しました。社会人になってからはお互いに会うことは少なくなりましたが,彼は生前,家族に私のことをたびたび話してくれていたようです。
死というものは前方からやってくるものではないのですね。後ろからそっと肩を叩かれるような感じです。沖合はずっと向こうの方にあると思っていたら,実は足元まで潮が満ちていたというような・・・・。「死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず。かねてより後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遙かなれども、磯より潮の満つるが如し。」(徒然草第155段)。
バッハの教会カンタータ第106番「神の時は最良の時」の中の歌詞にも,次のようにあります。
「神の時は最良の時である。彼において私たちは生き、動き、存在する。彼の意図されるかぎり。彼において私はしかるべき時に死ぬ、彼の意図される時に。」
この教会カンタータはバッハが22歳の頃の作品ですが,素晴らしい傑作であり,礒山雅さんは「死における信仰の意義をこれ以上印象深く描き出した芸術が、いったいほかにあるだろうか。」と述べています(「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」53頁,礒山雅著,講談社学術文庫)。バッハ自身も6歳の時に次兄を亡くし,9歳の時に母を,10歳の時に父を亡くしておりますから,もう22,3歳の時には生と死の問題に関して大きな悟りのようなものに達していたのではないでしょうか(同著55頁)。
このカンタータの冒頭の2本のリコーダーとヴィオラ・ダ・ガンバの紡ぎ出す美しい印象的な旋律も素晴らしく,そしてその歌詞に接した時には思わず親友のF君のことを思い出したのであります。