実は来週の火曜日に,ある集まりで種田山頭火のことについてお話しする機会があります。お話しと言ったって,俳句はずぶの素人ですから別に大したお話しはできません。ただ少しは準備をする必要がありますから,以前読んだことのある「種田山頭火-うしろすがたのしぐれてゆくか」(村上護著,ミネルヴァ書房)をもう一度読み返してみました。この本で改めて知ったのは,やはり自由律非定型句の,これまた漂泊の俳人,尾崎放哉の命日は4月7日,明日なのですね。彼は小豆島の南郷庵でひっそりと41年の生涯を閉じました。彼の死を看取ったのは隣家の老婆ただ1人だったそうです。
それにしても私が尾崎放哉の存在を初めて知ったきっかけは,高校の国語の教科書に彼の句が紹介されていたからです。
「咳をしても一人」
衝撃的な句でした。高校生の私は,俳句と言えば季語が入った五七五という有季定型句しか知りませんでしたので,こういう俳句もあるのかと新鮮な感動も覚えました。種田山頭火も尾崎放哉も同時代に生きた俳人で,荻原井泉水を共通の師としていますが,行乞しながら全国を放浪した山頭火と比較し,放哉は職業人(生命保険会社)としての限界を感じて退職した後は厭世的となり,寺男などをして一箇所に留まりがちでした。動の山頭火,静の放哉と言われる所以です。
でも,それぞれの多くの句の中でも,いわゆる境涯句と呼ばれるものを比較しますと,情感としては何となく共通する面が多々あります。放哉の句は特にもの悲しさを伴う諧謔性があります。ちょっと比較してみましょう。
「ついてくる犬よおまへも宿なしか」 山頭火
「堤(どて)の上ふと顔出せし犬ありけり」 放哉
「けふもいちにち風をあるいてきた」 山頭火
「今日一日の終りの鐘をききつつあるく」 放哉
「悔いるこころに日が照り小鳥来て啼くか」 山頭火
「雀のあたたかさを握るはなしてやる」 放哉
「雲がいそいでよい月にする」 山頭火
「こんなよい月を一人で見て寝る」 放哉
「閉めて一人の障子を虫が来てたたく」 山頭火
「障子しめきつて淋しさをみたす」 放哉
「咳がやまない背中をたたく手がない」 山頭火
「咳をしても一人」 放哉
「おちついてしねさうな草枯るる」 山頭火
「これでもう外に動かないでも死なれる」 放哉
さて,明日は尾崎放哉の命日です。彼の句にはもの悲しさを伴う諧謔性があると申しましたが,私は次の句は特に好きですし,この句にはそういった諧謔性があると思いませんか。
「ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる」 放哉