仕事で疲れたり,精神的に落ち着きたいなと思うような時には,私は迷わずバッハの音楽の深い森の中に入っていきます。「神曲」でダンテが深い深い森の中にいた自分に気付いたようにです(笑)。
バッハの教会カンタータは約200曲もあるのですが,その中には特に好きな曲がいくつかあります。教会カンタータというのは,どの曲も合唱(コラール),レチタティーヴォ,アリアなど数曲から構成されているのですが,とりわけそれらのどの曲も素晴らしく,特に充実しているな,完成度が高いなと感心するのが第140番の「目覚めよと呼ぶ声あり」です。これはバッハ作品の中でもあまりに有名な曲なのですが,先日お酒に酔ってではありますが,改めて聴いてみますとその感を深くしました。
この曲は本当に素晴らしい。それらの歌詞は,マタイ福音書中の「花婿を迎える10人の乙女のたとえ」がベースになっており,花婿イエスが真夜中にエルサレムに到着し,魂との結婚にいたる情景を描写したものです(第6曲の魂とイエスの愛の二重唱がその最高潮の部分でしょう)。
第1曲の弦楽器とオーボエで奏される付点リズムの導入部の重厚なカッコよさと,印象的な合唱(コラール),そしてこれはバッハ作品の中でもとりわけ有名な第4番目のテノール(コラール)による旋律の素晴らしさ。そして第6曲の魂(ソプラノ)とイエス(バス)による愛の二重唱は一度聴いたら忘れられないメロディーです。第7曲(終曲)は相当に短いのですが,4声で力強く結ばれ,あたかも一陣の風が通り過ぎていくように終わります。くどいようですが,この「目覚めよと呼ぶ声あり」(第140番)はバッハの数ある教会カンタータの中でもとりわけ充実していると思います。
なお,お酒によってその日にこの曲を聴いた盤は,トン・コープマン指揮のアムステルダム・バロック管弦楽団・合唱団の演奏によるものですが,第6曲の愛の二重唱は魂(ソプラノ)はリサ・ラーソン,イエス(バス)はクラウス・メルテンスが唱っております。リサ・ラーソンはスウェーデンのソプラノ歌手です。彼女はもうそれほど若くはないでしょうが,すごく美人です。
ここ数日の民主党の野田代表と自由民主党の安倍総裁の言動に接してつくづく思いましたのは,政治家としての見識と覚悟という面で,野田代表と安倍総裁とでは大人と子どもほどの差があるなということです。痛感したといってもよいくらいです。どちらが大人でどちらが子どもですって?そんなこと,言うまでもなく安倍総裁が大人で,野田代表が子どもです。とりわけ経済問題(財政・金融政策)については両者の見識の差は歴然としております。
例えば,野田代表は,最近の安倍総裁の経済問題に関する発言について,デフレ脱却を目指した2%程度のインフレ目標政策や国債の買いオペを非難し,さらには「日銀の独立性」を死守すべきであるかのようなことを言っております。野田代表は得意満面に「ハイパーインフレのおそれ」などとも述べております(爆笑)。彼は本当に何も分かってはおりません。デフレ容認の財務官僚の走狗といわれるゆえんです(笑)。ハイパーインフレーションという現象は,フィリップ・ケーガンの定義によると,インフレ率が毎月50%を超えることとです。インフレ率が毎月50%も上昇し続けると1年後には物価が130倍になる,インフレ率が13000%になるという超異常現象ですよ(笑)。リヤカーいっぱいのお札でバター1個を買うような・・・。終戦直後の日本でもハイパーインフレの水準にははるか遠く及びません。野田という人は一体全体何を言っているんでしょうか。バカな取り巻きに耳打ちされ,「あっ,このフレーズは使える!」てなもんでしょう。
それに「日銀の独立性」といっても,中央銀行の独立性には「目標の独立性」と「手段の独立性」の2つの意味があります。中央銀行には「手段の独立性」はあっても「目標の独立性」まではないのだ,というのが世界の常識です(高橋洋一著「官愚の国」199頁以下,祥伝社)。手段だけでなく目標まで自由に決められる,宿題の量を自分で決められるとなったら,誰だって楽な目標,宿題を決めたがるじゃないですか。特にぬるま湯体質の日銀ではなおさらです。のび太似の白川総裁なんて,いつも景気や雇用や国民の暮らし向きなんか所詮他人事みたいな顔をして,何もしないままです。世界の中央銀行のトップは政府が決めた目標あるいは自らが決めてコミットした目標を達成できなかったら,確実に責任を取らされます。アメリカのFRB(連邦準備制度理事会)の議長だってしかりです。でも日銀総裁はそのような責任は取りません。だてに3000万円を優に超す報酬が保障されている訳ではないのというのに。
この「目標の独立性」と「手段の独立性」の関係などについて,心ある経済学者の一人である岩田規久男教授は次のように述べております。
「・・・私たちがまずしなければならないことは、インフレ目標政策を導入することである。具体的には、日銀法を改正して、政府が物価安定目標を決定し、日銀にその目標を中期的に(1年半から2年程度の期間)達成することを義務付ける、ということである。ただし、物価安定目標の達成手段の選択は日銀に任せ、政府は口を出さない。このように、日銀法を改正すれば、世界標準の中央銀行と同じように、日銀の政府からの独立と役割が定まる。」(岩田規久男著「日本銀行デフレの番人」195頁,日経プレミアシリーズ)
ですから,安倍総裁が日銀法の改正に言及したのは極めてまっとうなことなのです。それに安倍総裁が言及した2%程度のインフレ目標政策や建設国債の買いオペについても,この20年近くも続くデフレ脱却のためには極めてまっとうな処方箋であり,御用学者以外の,しかも心ある経済学者はみんなそのように述べております。
安倍総裁は自分のホームページでもテレビ番組でも公開しておりましたが,経済学(国際金融論)の泰斗,イェール大学の浜田宏一教授から安倍総裁のもとに激励のファックスが送られてきたということです。そのファックスの一部を引用しておきましょう。
「日銀法改正以来、日本経済が世界諸国のほぼテールエンドの足跡を示していることから、そこでの金融政策が不十分であったことは明らかです。日本経済の好ましくない症状として、デフレ、円高という貨幣的な症状が出ているのですから、それに対するのは金融拡張が当たり前の処方箋です。野田首相は、金融に訴えるのは世界の非常識といわれますが、〈Wall Street Journal〉金融に訴えないという議論こそ、現在の世界の経済学から見れば非常識です。野田首相は、地動説の世界で天動説〈日銀流金融理論〉を信奉しているようなものです。このことは、最近私がマンキュー、ハバード,ノードハウスなど超一流学者とインタビューして確認しました。政策手段としてはインフレ目標が望ましいと思います。(中略)これだけ長いデフレが続いて、人々のデフレ期待が定着している日本経済に活を入れるのは、安倍総裁の2~3%がまさに適当といえると思います。(中略)言い換えれば日本経済の奇跡的成長は穏やかなインフレと共存していたのです。そして日銀はインフレが昂進しそうになればいつでも制御した実績があります。このような歴史から見れば、デフレを克服するとハイパーインフレになるというのは非現実的な脅しに過ぎないのです。ゴルフにたとえれば、今の日銀は雇用改善、景気回復という目標のホールを目指さずに、ホールの向こう側には〈ありもしない〉崖があると称して、バンカーに入ったボールをホールの方向に打たない、あるいはパターでしか打たないゴルファーのようなものです。」
安倍総裁のインフレ目標等の発言で,見事に市場は反応しました。デフレを脱却するには,穏やかな「インフレ予想」を醸成していくことと,しかるべき人や機関がコミット(説明をして当該説明内容に責任を持つこと)することが極めて重要です。これに反応した市場では,株価は9300円を超えましたし,円安基調となりました。政治家は経済問題(財政・金融政策)も十分に勉強していなければならないでしょう。このように安倍総裁と野田代表とでは,その見識や覚悟という面で,両者間に明らかに大人と子どもほどの差があると言わざるを得ません。
私は朝刊は産経新聞と讀賣新聞を購読しております。対局する棋士によっては将棋欄も読むことがあり,産経新聞は棋聖戦,讀賣新聞は竜王戦の棋譜を掲載しております。
加藤一二三という棋士は私は昔から関心がありました。居飛車一辺倒の攻め将棋という棋風は昔から好きで,私が高校生や大学生の時はよく加藤一二三さんの棋譜を並べたりしていたものです。「加藤一二三名局集」という本も持っています(笑)。
さて,先日の棋聖戦(産経新聞)では,加藤一二三さんとしては本当に惜しい局を落としてしまいました。「トン死」というやつです。「トン死」というのは,将棋で,自分の王将の詰みを見落として詰まされて負けてしまうことを意味します。この局では,加藤さんは終局の5手前までは圧倒的な優勢だった,そして勝勢といってもいい状況だったのに,自玉の即詰みを見落としてあっという間に負けてしまったのです。加藤さんのような超ベテラン(72歳)で1308勝という史上第2位の実績のある棋士でも,「トン死」を喰らうことがあるのですね。本当に勝負というものは下駄を履くまで分かりません。
それにしてもその局の観戦記者の記事が本当に面白い。ちょっと引用してみましょう(この時点では加藤先生が絶好調で,圧倒的な優勢の場面です)。
「この一連の好手順の間、加藤はまるでディスコのDJみたいにノリノリだった。体を揺らして踊るようなしぐさ。朗らかな声で、得意の『あと何分ですか』にはじまり、『これはカキクケコですね』『こうする、すると相手がこうする。そしてビシッ』としゃべり続ける。ビシッと言う時には右手で指すポーズまでしていた。」
『カキクケコ』というのが私にはよく分かりません(爆笑)。それに対局の相手に聞こえるようにしゃべるのですから(笑)。でも私は,加藤一二三という棋士の将棋が昔から好きで,求道者のようなその姿勢を尊敬しておりました。ただ,対局マナーは揶揄の対象になったりして,その点ではファンとしても苦笑いなのです。でも憎めないところがあるのです。加藤先生のエピソードとして有名なのは,次のようなものです。
・カルピスを魔法瓶に2本作ってきて,あっという間に飲み干した。
・板チョコを10枚ほど対局中に用意して,バリバリ食べ始める(それも2枚重ねて)
・王位戦の昼食休憩には「すしにトマトジュース,オレンジジュースにホットミルク,さらには天ざるを注文する」
・対局中に両膝で立ってズボンをずり上げる。
・結んでいるネクタイが畳に付くくらい異常に長い。
・対局中に相手棋士の背後に回り,盤面を眺める。
・名人戦で詰みを発見し,「ウヒョー!」と言って喜ぶ。
・対局中に10数本のバナナを,房から取らないまま全部平らげる。 などなど
憎めないでしょう(笑)。でもね。棋士としては魅力的なんですよ。もう現役最年長になられましたが,ますます頑張っていただきたいと思います。というのも,私が将棋に熱中していた高校時代に大活躍され,棋譜を並べていた棋士としては,例えば升田幸三,大山康晴,加藤一二三,有吉道夫,内藤國雄,米長邦雄,中原誠など錚々たる棋士が名を連ねておりましたが,もう現役は加藤先生だけですもの。
元東京都知事の石原慎太郎さんが,とうとう日本維新の会の代表になりましたね。
前にもこのブログで書きましたが,この人が橋下徹という人物をなぜあのように無批判かつ無邪気に買いかぶっているのか,本当に理解できないでいます。人を見る目がないにもほどがある。石原慎太郎さんは,自分はワンポイントだ,あとは橋下さんに譲るというようなことも言っておりますが,石原さんは何とか「第三極」として大同団結して今回の総選挙を戦い,橋下という人物の好きな「ふわっとした民意」に支持されて相当数の議席を獲得した上で,たとえわずかな期間でもいいから悲願の内閣総理大臣としての地位を手に入れたいのでしょうか。要するに最後の賭けに出たのでしょう。そんな穿った見方をしてみたくもなりますよ,ホントにね。
「晩節」という言葉は,晩年という意味だけでなく,晩年の節操という意味も含んでおります。そういう意味では,傘寿(80歳)となった最近の石原さんの行動を見ておりますと,節操というものがありません。突然の都知事の辞任,たちあがれ日本の平沼赳夫さんらを強引に説得した上での「太陽の党」の設立,減税日本の河村代表との記者会見,ほぼ全面降伏的な「日本維新の会」への合流(あっという間の「太陽の党」の解消)などなど・・・。結局は晩年の節操というものがないのですから,晩節を汚したと評価されても仕方ないでしょう。
橋下徹という人物はいずれ馬脚が表れると思っていますし,その取り巻き連中は所詮は有象無象の集まりで,全く信用しておりません。橋下という人物は,その「まっとう勝負!」(小学館)なる本の中で,実際に次のような発言をしております(なお,これは名著「維新・改革の正体」(藤井聡著,産経新聞出版)の204頁からの引用)
「政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。その後に、国民のため、お国のためがついてくる。自分の権力欲、名誉欲を達成する手段として、嫌々国民のため、お国のために奉仕しなければならないわけよ。(略)別に政治家を志す動機付けが権力欲や名誉欲でもいいじゃないか!(略)ウソをつけない奴は政治家と弁護士にはなれないよ!ウソつきは政治家と弁護士の始まりなのっ!」
国民や国のために奉仕するのは「嫌々(いやいや)」なんですと。政治家を志すのは自分の権力欲と名誉欲を満たすためなんですと・・・。こんな人物が「第三極」の核になっているのですし,バカなマスコミはやたらに自由民主党をけなし,「第三極」の存在をはやし立てております。それに「日本維新の会」は,小異(実は「小異」どころの騒ぎではないんですけどね)を捨てて大同に付いたなどといって,いろんな威勢のいい約束をしております。でも私は絶対に騙されたりはしません。少なくとも私だけはっ!(笑)。
「偽善者は素晴らしい約束をする、約束を守る気がないからである。それには費用も掛からず、想像力以外の何の苦労も要らない。」(イギリスの哲学者エドマンド・バークの『フランス革命の省察』より)
もう皆さんお分かりだと思いますが,沈みゆく船とは民主党のことです。11月16日衆議院解散,12月4日告示,12月16日投票ということに相成りました。
思い起こせば,平成21年の8月末,308議席という空前の数を民主党という政党に与えてしまう過ちを有権者は犯しました。私はその直後のこのブログで,絶体絶命となった織田信長が潔く発した「是非に及ばず」という表現をして,次の総選挙までは完全に諦め,この売国的な民主党政権を呪いました(笑)。その後,国士ともいうべき中川昭一という立派な元代議士の訃報に涙しました。
でもようやくです,民主党政権というどうしようもない存在が瓦解するのは(爆笑)。私が陰ながら応援する政治勢力の先生方,頑張ってくださいね。天国の岸信介先生も激励してくれていますよ。
それにしても,「沈む船から逃げることネズミの如し」という言葉がありますが,正にこの言葉がピッタリといった行動をとっている誠に見苦しい民主党議員がおりますし,これからも続々と出て来るでしょう。日本維新の会に既に合流した議員もおりますし,元環境相の小沢鋭仁という民主党議員も,日本維新の会への合流が取りざたされております。見苦しいですね。彼らは何故今の今まで民主党みたいな政党に籍を置いていたのでしょうか。良いと思っていたからでしょうに。なぜ次の総選挙ではそれまで良いと思っていた「民主党」の看板では出ないのですか。
「沈む船から逃げることネズミの如し」という言葉は,船底で生活しているネズミも,どうやらこの船は沈みそうだなと直感すると,本能的にその船から逃げていくということです。船から逃げるっていったって,それじゃあ海に落ちてしまうですって?そうではありません。その船が桟橋や波止場に停留している間に,ロープなどを伝って出航前に陸地に逃げるのです(笑)。民主党内からはそういう議員が後を絶たなくなるのではないでしょうか。
ただ,マスゴミ,いやマスコミは,今度はさかんに「既成政党vs第三極」などといった表現をして,煽っておりますが,「第三極」という言葉に騙されはしません。少なくともこの私だけは(笑)。既成政党の中にも,少なくとも今までの民主党とは完全にレベルの違う,ちゃんとした存在はあるのです。それに,「第三極」といったって,「大同団結」などをしなければならないようなバラバラ状態ではありませんか。皆さんにもご経験があると思いますが,私は以前,すごく先を急いでいて,駅のプラットホームまで大急ぎで走り込み,出発の鐘が鳴る中でそこに到着していた列車にその行き先も確認せずに「とにかく乗っちゃえ!」と言う感じで飛び乗ったことがありました。やはり行き先が違う列車で,途中で乗り換えたりして難儀したことがありました。「第三極」の行き先は現在明確なのでしょうか。ひょっとしたら「民主党駅」よりももっと悲惨な目的地かもしれないじゃありませんか。
本当に紅葉の美しい季節となりました。改めて思いますのは,一年というのは本当に短いな,早いなということです。
そして,これまた改めて思いますのは,自分が太ってしまったなと実感するのは,季節の変わり目に一年ぶりに身につけるズボンが窮屈になった際です。もういい歳なんだから,年々太っている場合ではないのです。育ち盛りじゃないんですから(笑)。
何だかとりとめのない話ですが,とりとめのなさついでに,産経新聞社が出している「正論」という月刊誌は,本当に素晴らしい本だと思っております。わずか740円であれだけの充実した内容に接することができるんですもの,ホントに安いです。ランチ一食分(例えば,白身魚フライ定食)と同じくらいです。秋の夜長,もうすぐ冬ですが,くだらないテレビ番組(芸能人の内輪話やマンネリ化したクイズ番組,よそ様の家庭内を野次馬根性で覗くような番組,飲食店のメニューをムダに食い尽くすような番組,バイアスのかかった反日番組,いわゆる韓流のごり押しなどなど)を見ているヒマがあったら,「正論」を読むべきです。素晴らしいコンテンツです。
さて,その「正論」の中のコーナーの一つに「根源へ-草舟立言」というインタビュー記事があり,執行草舟氏の発言が掲載されております。今回は「老いについて 前篇」というもので,大変興味深く読みました。私のような年齢になりますと,「老い」というものをどのように受け入れ,どのように老いていくべきか,死というものにどのように向き合うのかということにも関心がありますが,こういった記事は大変参考になります。
この記事の中には,辞世という言葉が出てきました。ちょっと引用してみます。「常に死を意識して生きろということですね。それによって生き方の根本が固まっていく。・・・キリスト教も武士道も、崇高なるものを目指す非日常を、日常生活の中にもたらしていたのです。その非日常を、形に現しているもののひとつが辞世の慣習なのです。自己の生き方と、その帰結としての死に様を歌や句として残しておくのです。武士だけでなく、格式のある商家や農家の人も辞世を詠んでいます。辞世を詠まないで死ぬことは恥だったのです。だからあらかじめ用意していました。」(月刊「正論12月号」184頁)
なるほどね。それで辞世には名句,名歌が多いのですね。
「願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」(西行)
「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」(良寛)
いずれも素晴らしい。良寛の句は,葉の裏も表も全てをさらけ出して,人生を全うしてこの世を去っていくということでしょうか。なお良寛は,辞世として次のような歌も残しております。
「形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」(良寛)
やはり紅葉(もみじ)ですよ。秋はね・・・。
本当ならば,日本国の首相というのは凄いんですよね。歴史と伝統があり,世界最大の債権国,まだまだ民度も高い,名目GDPで世界第3位(実質GDPでは世界第2位)という立派な国の行政の最高責任者なのですから。
それにしてもこの反日売国の民主党政権が始まって3年を超えてしまい,この期間はまるで「異民族に支配されてきたかのような」(産経新聞の阿比留記者の表現),悪夢のような期間でした。やはり日本国の首相たる者,ちゃんとした人でなければなりません。
日本国の首相に相応しいかどうかという点について,最近読んだ雑誌「WiLL 12月号」の中に,思わず「なるほど!」と膝を叩いてしまったジャーナリスト久保紘之さんの発言がありましたのでご紹介します(同所108頁)。
編集部「しかし不思議なのは、自民党総裁選の石原伸晃氏にしろ、民主党代表選の赤松広隆氏、原口一博氏にしろ、自分に総理が務まると本気で思っているんでしょうかね?」
久 保「それは、国家と向き合って自分が首相に相応しいかと自問自答するのではなく、前の人間と比較するからですよ。野田ができるなら、菅ができるなら、鳩山のアホができるなら、俺にもできるはずだ、と。国家の重大事ではなく、前の人間との比較でしか見ていない。だからできると錯覚しちまうんだ。」
素晴らしいご意見ですね。正にそのとおりです。自分が日本国の首相に相応しいかどうかを自問自答できる誠実さを有している者でなければね。そしてその上で,その自問自答をクリアし,確固たる国家観と「覚悟」をもった人こそが就任すべきですね。鳩山,菅,野田の面々でも務まったのならば,俺も(前原)とか,私も(細野)とかといった乗りで延々とやってもらっては本当に困ります(笑)。
もう一つ,最近「なるほど!」と思った一節がありました。
「ウォーレン・バフェットが来日したときに、『新聞に正しいことが書いてあるのは唯一、前の日の野球の結果だけだよ・・・・』と独特のいい方で皮肉っていました。彼は常日頃から、『新聞には役に立つものも書いてあるかもしれないが『事実』が書かれることはない・・・・新聞社の人間のある一定のバイアスがかかっていると考えて読みなさいよ』といっています。」(「なぜ日本経済は世界最強といわれるのか」(山口正洋著,東邦出版177頁)
メディアリテラシーのことです。当然私を含め,有権者,読者も情報を賢く選択,選別できるだけの能力を高めなければなりませんね。朝日新聞などは自由民主党の安倍晋三のような立派な代議士を葬り去ることが「社是」のようですから,こういった新聞社らによるネガティブキャンペーンに騙されてはならないと思っております。
元東京都知事でこのたび新党を立ち上げようとしている石原慎太郎という人については,さまざまな評価がありますが,私自身としては基本的には国を憂えている人であり,国家観もしっかりしていてそれなりに評価してきました。それに作家でもあり,何より日本語が正確です。
でも石原慎太郎さんが日本維新の会の橋下徹という人物をなぜあのように無批判かつ無邪気に買いかぶっているのか,本当に理解できないでいるのです。小異を捨てて大同につくなどということを言っていますが,日本のエネルギー政策の根幹にかかわる原発をめぐる議論や消費税の地方税化,永住外国人に対する地方参政権付与などの問題が果たして「小異」なのでしょうか。
私は橋下徹という人物はいずれ馬脚が表れると思っていますし,「日本維新の会」などは有象無象の集まりだと思っており,全く信用しておりません。橋下という人は,石原慎太郎さん個人とだったら合流してもいいけど,たちあがれ日本のその他のメンバーは要らないなどと,平沼赳夫さんらのような立派で実績のある代議士をコケにしています。敬意も何もあったものではありません。そういう気質にそもそも違和感を覚えるのです。
橋下という人は,例の大飯原発の再稼働の問題についても全く定見というものがありませんでしたし,消費税の地方税化ですって?これは,地方交付税を廃止した上で消費税を地方の代替財源にするという日本維新の会の政策です。一笑に付されるべき政策ですし,識者らからは笑われております。地方交付税の総額と消費税の税収総額との差額が約13兆円になるというのに,どうするのですか。各地方自治体は総額約13兆円分の緊縮財政で乗り切るのか,それともこれでもかこれでもかと消費税率を上げ続けるかしかありません(笑)。
彼らの主張は,要するに道州制の導入を前提に,各地方で好きにやらせろというもので,日本という国を緩い連邦制みたいな状態にしたいのでしょう。中国の各地に割拠する軍閥みたいな・・・(笑)。しかも根底にある発想は新自由主義です。
石原慎太郎さんも人を見る目がないなと思います。産経新聞に,自民党の森喜朗という長老が,かつて東京都知事選に再度立候補するように石原さんに強く促した際に,石原さんはようやく重い腰を上げ,「(長男の)伸晃をよろしく頼む。」と言ってこれに応じた。そしてその時の約束があったからこそ森氏ら長老も9月末の自民党総裁選では石原伸晃を応援したという,一種の暴露記事が掲載されておりました。親ばかとはいえ,石原伸晃などとは・・・。やはり人を見る目がない(笑)。
昨晩はBSで「プライムニュース」という番組に平沼赳夫さんが出演されていました。尊敬する政治家だけに,日本維新の会との今後の関係について質問を受けて苦笑いで誤魔化すしかなかった平沼さんの姿を見ていて,とても痛々しかった。どう考えてもたちあがれ日本のスタンスは自由民主党の中の真正保守派と同じでしょう。合従連衡のあり方を間違わないで欲しいと思います。
人を見る目という言葉ですぐに思い起こすのは,豊臣秀吉が見いだして活用した竹中半兵衛と黒田官兵衛の二人,そして日露戦争の直前,参謀総長だった大山巌が当時内務大臣で降格人事に当たるにもかかわらず参謀本部次長に抜擢した児玉源太郎のことです。児玉源太郎はその後満州軍参謀総長に就任し,戦争の遂行と的確な収束時期の見極めを含め,最大の功労者の一人でした。
人を見る目が大事です。
その日というのは昨日の日曜日なのですが,その日はもう,散々なゴルフでした。自分が嫌になるような・・・(笑)。
約2か月ぶりにゴルフに出かけました。お天気もよく,同伴者も気が置けないメンバーばかりで,楽しみにしていたのですが,近来まれに見る悪いスコアだったのです。いつも口に出すだけで実行に移せなかった「練習」というものを,いよいよ本格的にやっていく時期が来たようです。
日曜日の晩は,家族で鍋をつつきながら楽しく過ごせたのですが,布団の中に入ってさあこれから寝ようとする時に,その日のゴルフのことが脳裏をよぎりました。このままだと悲しくて枕を涙でぬらすことになると思い,自分のゴルフの将来を明るいものにするために,寝つく前に反省というものをしてみました(笑)。
その結果,ボールの捉え方が特にひどかったことに思い至りました。簡単に言うと,その日の自分はボールを強く速くひっぱたくようなスイングだったのです。これではダメです。バックスイングとリリース後のスイングの速さが同じくらいで,力まず,ゆっくりと,しかもボールをクラブのフェイス面で「しっとり」と捉えるような感じて打てばよいと思いました。それができている時は良いショットが出ているのですから。強く速くひっぱたいてはいけないのです。強く速くひっぱたくようなスイングですと,ドライバーもアイアンも,そしてサンドウェッジによるアプローチも予測不可能な方法へボールが飛んでしまうのです。いわゆるシャンクともまた違うような・・・。ちょっと練習場で自分のこの「反省」が正しいのか検証してみたいと思います。
でもこの日のラウンドは救いというものがありました。若いキャディーさんの仕事ぶりがとても良かったのです。スタートまでに時間があったので,さてこれからゴルフ場内の練習場で軽く練習しようと思っていましたら,意を察してか,すかさず「練習場までお送りしましょうか。」と言って,カートで送ってくれたのです。まことに感じの良い対応でした。
そしてラウンド中に付いてくれたキャディーさんは,仙台出身。この春に地元の高校を出て4月からこの仕事を始めたとのこと。キャリアが短い割りには,ベテランと遜色がないような見事な仕事ぶりでした。東北の人は我慢強いといいますが,一生懸命に仕事をし,運動量も豊富で,気立てが優しそうでした。ラウンド後の礼儀正しさも素晴らしい。この日の自分のスコアは惨憺たるものでしたが,キャディーさんたちの良い仕事ぶりに救われました。もう一つ救われた思いがしたショットがございました(笑)。ホールの位置も見えない深いバンカーからのショットがうまくいき,ピンそば40センチまで寄せることができたのです。
数少ない会心のショットを自画自賛している間があったら,一生懸命仕事をして,暇を見つけて本格的な練習をしなければなりません。
実はですね,私はですね,本当に珍しいことに月曜日から水曜日までの3日間,全くお酒を飲んでおりません(笑)。これは最近では快挙といってもよいくらいです。それくらいここ数日は忙しかったのです。特に弁護士として裁判所に提出するいろいろな書面の作成ラッシュが続いていたのです。
年を取りますとね,長い書面の作成は辛いときがあるのですよ。それに書面の作成だけではなく,電話連絡,打合せ,交渉などなど・・・。忙しさやストレスは職業人である以上避けられませんので,バッハの音楽やゴルフ,ジャイアンツの応援,家族との団らん,読書(このたび「今昔物語」を読み始めました。),友人との楽しいお酒などで気を紛らわしながら乗り切っていくしかありません。
9月のある日,同業の弁護士さんで私とそれほど年齢の違わない先生が急逝されました。本当に驚きました。全く突然のことでした。その先生は,私の知るところ,本当に包容力があり,優秀で,淡々としていて,正に「人物だな」と思える人でした。心からご冥福をお祈りいたします。
このようなこともあり,人生の無常を改めて痛感した次第です。日常業務に埋没している昨今,「死」というものをどのように捉えるべきなのか・・・。日々の業務には辛い面もあるけれども,どんなふうに生きていけばよいのか。最近読んだ本の中に,とても印象に残る一節がありました。その本は「日本破滅論」(藤井聡,中野剛志共著,文春新書)という本で,藤井聡さんの発言の中の一節です。ちょっと引用してみましょうね。
「・・・・・ハイデガーの『存在と時間』は一つのヒントになります。この本の重要なモチーフは、最終的に人間は、本来的な人間と非本来的な人間の2種類に分かれるということです。そのあり方を時間性について言えば、本来的な時間性と非本来的な時間性です。本来的な時間性に生きる人間とは何なのか。死を十二分に理解している人、死に対して先駆的に覚悟する人だと彼は言います。自分が死ぬことを、そこにコップがあり水があるように、当たり前のように認識している人です。一方、非本来的な人間は、死を予期できません。自分が死ぬと理屈ではわかっていても、肝ではわからない人は、非本来的な時間性のうちに生きているんです。ハイデガーは次のように議論を展開します。人間の道徳的な退廃は、自らの死を認識することができないことに起因する。この現実の中で、この大地の上でしっかり生きていこうという覚悟は、自らの死の認識から芽生えてくる。自分が死ぬとわかっているからこそ、今のこの時間を一生懸命に生きることができる。逆に、死を考えていないと、昨日のことが今日も続き、今日のことが明日も続くというように、無限にのんべんだらりと生きる人間になってしまう、と。」(同書21~22頁)
弁護士として,何とか人の助けになることのできるやりがいのある仕事に携われているのですから,「死」に対して先駆的に覚悟し,本来的自己,本来的時間性の中で生きていくしかありません。本日は,柄にもなく真面目にまとめてみました(笑)。