実はですね,私はですね,本当に珍しいことに月曜日から水曜日までの3日間,全くお酒を飲んでおりません(笑)。これは最近では快挙といってもよいくらいです。それくらいここ数日は忙しかったのです。特に弁護士として裁判所に提出するいろいろな書面の作成ラッシュが続いていたのです。
年を取りますとね,長い書面の作成は辛いときがあるのですよ。それに書面の作成だけではなく,電話連絡,打合せ,交渉などなど・・・。忙しさやストレスは職業人である以上避けられませんので,バッハの音楽やゴルフ,ジャイアンツの応援,家族との団らん,読書(このたび「今昔物語」を読み始めました。),友人との楽しいお酒などで気を紛らわしながら乗り切っていくしかありません。
9月のある日,同業の弁護士さんで私とそれほど年齢の違わない先生が急逝されました。本当に驚きました。全く突然のことでした。その先生は,私の知るところ,本当に包容力があり,優秀で,淡々としていて,正に「人物だな」と思える人でした。心からご冥福をお祈りいたします。
このようなこともあり,人生の無常を改めて痛感した次第です。日常業務に埋没している昨今,「死」というものをどのように捉えるべきなのか・・・。日々の業務には辛い面もあるけれども,どんなふうに生きていけばよいのか。最近読んだ本の中に,とても印象に残る一節がありました。その本は「日本破滅論」(藤井聡,中野剛志共著,文春新書)という本で,藤井聡さんの発言の中の一節です。ちょっと引用してみましょうね。
「・・・・・ハイデガーの『存在と時間』は一つのヒントになります。この本の重要なモチーフは、最終的に人間は、本来的な人間と非本来的な人間の2種類に分かれるということです。そのあり方を時間性について言えば、本来的な時間性と非本来的な時間性です。本来的な時間性に生きる人間とは何なのか。死を十二分に理解している人、死に対して先駆的に覚悟する人だと彼は言います。自分が死ぬことを、そこにコップがあり水があるように、当たり前のように認識している人です。一方、非本来的な人間は、死を予期できません。自分が死ぬと理屈ではわかっていても、肝ではわからない人は、非本来的な時間性のうちに生きているんです。ハイデガーは次のように議論を展開します。人間の道徳的な退廃は、自らの死を認識することができないことに起因する。この現実の中で、この大地の上でしっかり生きていこうという覚悟は、自らの死の認識から芽生えてくる。自分が死ぬとわかっているからこそ、今のこの時間を一生懸命に生きることができる。逆に、死を考えていないと、昨日のことが今日も続き、今日のことが明日も続くというように、無限にのんべんだらりと生きる人間になってしまう、と。」(同書21~22頁)
弁護士として,何とか人の助けになることのできるやりがいのある仕事に携われているのですから,「死」に対して先駆的に覚悟し,本来的自己,本来的時間性の中で生きていくしかありません。本日は,柄にもなく真面目にまとめてみました(笑)。