この日曜日は「母の日」でした。私も今年83歳になった母に赤いカーネーションをプレゼントしました。また,うちのカミさんに対しても,日頃の労をねぎらって夜はお寿司を取り,家族三人で美味しくいただきました。カミさんの労をねぎらうといっても,私と娘は茶碗蒸しの底に沈んでいた苦手のぎんなんをカミさんに食べてもらいましたが(笑)。
先日,歌手の田端義夫さんが亡くなりましたが,日曜日(母の日)の産経新聞の「産経抄」に書かれていたコラム記事には感動し,思わず涙ぐんでしまいました。朝食後,娘にこの記事の存在を知らせたら,娘もこの記事を読み,泣いておりました。その後カミさんもこの記事を読んだのですが,彼女もまた泣いておりました。
そのコラム記事を変に要約してしまうと感動が薄れてしまうのですが,全部引用することもできませんので,やむなく以下に要約することにします。
「田端義夫さんは,ある曲を歌う前は『この曲を歌うとおっ母さんが恋しくて仕方ないんです。』と述べていた。その曲の2番にある『なつかしき 父のまた母の 膝はゆりかご』の部分にさしかかると,田端さんのほおに涙が光って見えた。田端さんは3歳で父を亡くした。その後は,ひよこの人形作りの内職をする母に育てられた。といっても貧乏なため,9番目の子であった田端さんは,小学校に弁当を持っていけず,遠足の経験もなかった。小学校に通ったのも3年半だけで,13歳で奉公に上がった。普通なら恨みごとのひとつも言いたくなるが,田端さんは逆だった。その著書には,『(奉公のため別れたおっ母さんの)顔が,目が,涙が,それからのわたしの人生の支えになっているのです』と書いた。田端さんは母親に感謝し続け,慕い続けた生涯だった。今日は『母の日』である。かつての日本には貧しくとも,懸命に子供を育てる田端さんの母親のような人がたくさんいた。それがまた,国を支える原動力にもなった。そんな母親たちの歴史を考えることも,この日の過ごし方に思える。」
本当にそのとおりであります。先日の母の日には,私も,娘も,カミさんも,朝っぱらからこのコラム記事を読んで居間で涙を流しておったのであります(笑)。それにしても,娘の涙を見て,この子も成長したなと思いました。少なくとも共感力は人一倍だ,などと親ばか丸出しの評価をしてしまいました。