金曜日といえば,楽しい週末前である一方,この暑さですし疲れもピークに達していて,皆さんの生命力もかなり低下しているのではないですか(笑)。そんな時に民俗学の話など読みたくもないですよね。そりゃそうだと思います。もっともです。でも今日は民俗学の話を書きます(笑)。
民俗学といっても,私はその分野を本格的に勉強したこともなく,ほとんど知識はないのですが,以前から柳田國男や宮本常一の世界に興味をもっていました。時間のあるときに彼らの民俗学に関する著作に触れたいと思っていたのです。そこで先日読み終えたのが,「忘れられた日本人」(宮本常一著,岩波文庫)という本です。
これは本当に名著だと思います。その世界に引き込まれるように,あっという間に読み終えてしまったのです。この本の解説は歴史学者網野善彦さんが書いておられるのですが,この本について「本書『忘れられた日本人』はそうした野心的な宮本氏の歩みの中で書かれ、一九六〇年、一書にまとめて世に問われた。それは心のこもった庶民の『生活誌』であるとともに、強烈な個性を持つ宮本氏の民俗学の、最も密度の高い結晶であった。」と高く評価しておられます。各章いずれも珠玉の聞き書きですが,特に「土佐源氏」,「梶田富五郎翁」が面白かったし,宮本常一の幼少時代の実体験が描かれている「私の祖父」という章も読み応えがありました。「亀には亀の世間がある」という表現には思わず笑ってしまいました。
「逝きし世の面影」(渡辺京二著,平凡社ライブラリー)もこれまた名著の中の名著ですが,その中で触れられているように,確かに江戸末期には訪れた外国人が称賛したような日本の愛すべき文明が厳然とありました。しかしその後も,時間と共に変容していったとはいうものの,全国津々浦々,宮本常一さんが訪れた場所には,相変わらず愛すべき文明,民俗が連綿と生きていたのです。これぞ日本,そして日本人という愛すべき文明,民俗です。
その愛すべき日本の文明,民俗が徐々に変容していく過程を,宮本常一は憂えてもいました。その宮本常一がその死の3年前である1978年,自叙伝「民俗学の旅」の中でその憂いとして表現している部分を,この「忘れられた日本人」という本の解説者の網野善彦さんは次のように引用しています(333頁~334頁)。
「私は長い間歩きつづけてきた。そして多くの人にあい、多くのものを見てきた。(中略)その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか。発展とは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。(中略)進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけではなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向わしめつつあるのではないかと思うことがある。(中略)進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ、われわれに課されている、もっとも重要な課題ではないかと思う。」