先週末の土曜日,日曜日は本当に良い天気でした。農業には二毛作というものがありますが,洗濯物干しの「二毛作」でもやりたいような,とても良い天気だったのです。それにしても中国は,またまた本当に愚かにも,勝手に「防空識別圏」を設定し,およそ国際的には支持を得られない威嚇的,膨張的的な行動を懲りずに繰り返しております。自国の民を幸せに出来ないような政権に正統性(レジテマシー)はなく,そんなヒマがあるのなら例えばPM2.5を何とかしろと言いたい。10~20メートル先の見通しもできないような地獄のような大気汚染,劣悪な住環境・・・。この土曜日,日曜日の素晴らしい日本の空を見て,つくづく日本人に生まれて良かったなと思いました。
月曜日の夕方から晩にかけては,名古屋は一時期雨風が強い天候でしたね。もうコートを着ている人も多くなりました。先日タクシーの運転手さんが「だんだん秋が短くなっていますね。」と言っていましたが,同感です。私は秋という季節が一年中で一番好きなのに,夏の暑さが長引き,そうこうしているうちに体感としては途端に寒くなるという感じです。大切な秋が省略されつつあります。
秋に引き続く冬も,私は嫌いではありません。でも寒風に吹かれて歩いていると,何故か種田山頭火の「うしろすがたのしぐれてゆくか」という秀句を思い出してしまうのです。種田山頭火も,そして古くは空也上人も,行乞,乞食(こつじき)の旅を続けていた人にとっては冬という季節は本当に辛かっただろうなと思います。
時雨(しぐれ)というのは,主に秋から冬にかけて起こる,一時的に降ったり止んだりする雨や雪をいい,時雨が降る天候のことを称して,時雨が動詞化して時雨れると言うようです。時雨は冬の季語ですが,これについては,残念ながら今年の6月に鬼籍に入られた村上護さんは次のように述べておられます。
「なんといっても時雨で有名なのは『後選集』にある「神無月ふりみふらずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりける」という歌だろう。これにより時雨は初冬の景物として俳句の季語に定着していく過程もあった。同時に時雨を「ふりみふらずみ定めなき」と表現したことから、人生の定めなさ、はかなさを象徴する意にも転じ、「しぐれる」の動詞形としても使われている」(「山頭火名句鑑賞」村上護著,春陽堂61頁)
山頭火の「うしろすがたのしぐれてゆくか」という句は,その標題に「自嘲」とありますように,降る雪(この句の場合は雨より雪かと思います)の中を自分の托鉢僧としての後ろ姿が次第に遠ざかっていく情景を自嘲気味に表現しています。また,彼ら漂泊の行乞者にとって冬の季節がいかに辛かったか,また,いかに内省的に自分の境涯に思い至る外的環境だったかを窺わせる句として,次のような山頭火の句もあります。
「しぐるるや 人のなさけに 涙ぐむ」
「しぐるるや 死なないでゐる」