もう3月も半ばとなりました。3月とか春はよくお別れの季節とも言われますが,この春,私にも一つか二つお別れがありました。私達日本人はお別れの際に「さようなら」という言葉を口にしますが,今朝の読売新聞の「編集手帳」というコラムには「さようなら」という言葉の語源のことなどが記されており,日本語の美しさを改めて思いました。
「さようなら」の語源については諸説あるようですが,有力なものは接続詞の「さらば(そうであるならば)」から「左様ならば」にまで遡り,「(別れることについて)そうならなければならないならば」という意味を有し,どうしても別れなければならないのならば残念だけど(名残惜しいけれど)お別れですねと,別れを惜しむ心情が表されているというのです。
大西洋単独無着陸飛行(1927年)を成し遂げたのはチャールズ・リンドバーグで,その夫人はアン・モロウ・リンドバーグです。実はこのリンドバーグ夫妻は1931年に調査飛行で日本に来ています。離日の際,多くの日本人が横浜埠頭まで見送りに来て,口々に「さようなら」と言って別れを告げました。リンドバーグ夫人はその時のこと,そして「さようなら」という言葉について「これほど美しい別れの言葉を私は知らない。」と述べ,次のように記しています。
「さようなら、とこの国の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと『そうならねばならぬのなら』という意味だとそのとき私は教えられた。『そうならねばならぬのなら』。なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、フランス語のアディユも、神のもとでの再会を期している。それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ」(「翼よ、北に」アン・モロウ・リンドバーグ著)