久しぶりの雨のようですが,雨に濡れた深緑もまた格別です。緑がますます濃くなり,目に鮮やかに映ります。本当によい季節になりました。
何度も同じことを言うようになると,老いた証拠だなどと言いますが,敢えてそして改めて私は言います。私は雀(すずめ)が大好きです(笑)。
通勤でも,そして仕事で移動する時も可愛らしい雀の姿を目にすることがありますが,そういう時は足を止め,どこかに腰掛けてずっと雀の様子を見ていたい衝動に駆られます。雀というのは,どうしてあんなに可愛いのでしょうか。
「舌切り雀」という日本のおとぎ話に出て来るような冷酷な婆さんは例外として,日本人は昔から雀を可愛がってきたし,その姿に癒やされてきたのではないでしょうか。後に述べる尾崎放哉の句にも出てきますように,そこにいる人間の姿に慣れてくると,雀は警戒心を解き,人間に近づいてきたりもします。雀はたびたび俳句にも登場し,小林一茶の「われと来て遊べや親のない雀」などはとても有名です。
自由律(非定型)俳句の尾崎放哉も雀を登場させた俳句を作っております。
「雀がさわぐお堂で朝の粥 腹をへらして居る」
「雀のあたたかさを握る はなしてやる」
どうです?放哉の二番目の句は・・・。私はこの句が特に好きなのです。種田山頭火も放哉も,とても寂しがりやである一方,孤高の人であったことでは共通ですが,兵庫県西須磨の須磨大師堂の堂守をしていた当時の放哉は,やはりとても寂しかったのでしょう。「雀のあたたかさを握る はなしてやる」という句は何とも味わいがありますね。満たされない心と寂しさで,思わず近くに来た可愛いすずめを手でそっと握り,その温かさを感じ,ふっと我に返って手を離してやるのです。
山頭火も次のような句を作っております。
「風ふく身のまはりおほぜい雀がきてあそぶ」
「夕雀にぎやかなり、雀と仲よし」
いいですね。実は,その山頭火が「心友」と表現していた,木村緑平という句友がおりました。緑平は長崎医学専門学校(現・長崎大学医学部)を卒業した後,九州で医師をしていたのですが,何かと山頭火を支えておりました。山頭火にとっては,ともすると自暴自棄になりがちな自分が心から甘えられる存在が緑平だったのです。行乞の旅先で山頭火からお金の無心をされても責めることなく,その行乞の旅を支えた人物でした。「種田山頭火-うしろすがたのしぐれてゆくか」((村上護著,ミネルヴァ書房)という本にも,緑平がいかに山頭火にとって心の支えになっていたかが分かります。
その木村緑平こそ,大の雀好きだったのであります(笑)。何と緑平には,雀の句だけで3000句を超える作品があるのです(笑)。最後に緑平の雀の句を一つだけご紹介しておきます。
「かくれん坊の 雀(すずめ)の尻が 草から出てゐる」