とうとう日本維新の会は分裂いたしました。むしろ遅きに失した感もありますし,私自身は石原慎太郎さんが橋下という人物を高く評価してきたこと自体,どうしても解せないのです。この両者では所詮,国家観,歴史観,もっと広く言えば見識という点で全く異なります。橋下という人物はよく自己の歴史認識めいたことを口にしますが,浅薄であり,歴史というものを本当にどの程度勉強したことがあるのか疑問に思うこともあるのです。せいぜいが「ふわっとした民意」頼みの人であり,もう既にメッキがはげているというか,馬脚が現れています。
約1年半後の分裂ですが,今日の産経新聞のコラム「産経抄」には面白いことが書いてありました。橋下氏が率いる日本維新の会と,石原慎太郎氏が率いる太陽の党との合体から軋轢,呻吟,忍耐,そして最終的な分裂の過程について,そして今後の「再婚」の可否について,次のような表現がなされておりました。
「結婚については、フランスの劇作家、アルマン・サラクルーがこんな名言を残している。『人は判断力の欠如で結婚し、忍耐力の欠如で離婚し、記憶力の欠如で再婚する』。基本政策が一致しないまま、『数の論理』で結びついても、早晩瓦解(がかい)に追い込まれる。その記憶を大切にして、再婚に臨んでほしい。」
うまいことを言うものです。ただ私は,「再婚」などはあり得ないと思いますし,すべきでもないと思います。理由は先に述べたとおり,石原さんと橋下氏の両者では所詮,国家観,歴史観,もっと広く言えば見識という点で全く異なるからです。それに何より,石原さんに付いていくと思われる議員の方々には,誠に素晴らしい見識を有しておられる方々が多いのです。中山成彬,中山恭子,平沼赳夫,三宅博,山田宏などなど,錚々たるメンバーです。いずれにしても中山恭子さんのような方がアントニオ猪木さんと同じ党の参議院議員団を構成していたというのは何とも違和感があったのです(笑)。
もうあまり時間もありません。石原慎太郎さんの最後の仕事として,自由民主党の政策のうちで何としても喫緊の課題として成し遂げなければならない部分について,協働関係を形成していき,達成すべきでしょうね。またこれは余談ですが,私が尊敬する政治家は,いずれも共通点があります。それは確固たる国家観と歴史観を持っているということだけでなく,いずれも正しく,美しい日本語を話され,記される方々であるという点です。
南シナ海や東シナ海での中国の傍若無人ぶり,傲岸不遜ぶり,厚顔無恥ぶりは止まるところを知りません。中国は国際社会においては事実上孤立し,完全に国際社会における「こまったちゃん」になっております。「こまったちゃん」というような可愛らしい表現は不相当かもしれず,「ならず者」というべきでしょう。中国の「ならず者」ぶりは今に始まったことではなく昔からです。
さて,「こまったちゃん」(悪い子)と「にこちゃん」(良い子)というのは,その昔に日本テレビ系列で放送されていた「ロンパールーム」という幼児向け番組で出ていたキャラクター人形のことです(ミツバチを擬人化したもの)。私も小学生のころ,この番組をよく観ておりました。「にこちゃんの歌」は今でも歌えます(笑)。
みなさん,この「ロンパールーム」という番組でちょっとした放送事故が起こったことは知っていますか。これは歴代の先生役のうち,第2代目のうつみ宮土理さんの時に起こったことのようです。先生がゲームの時間に,幼児のみんなに「『き』で始まるものの名前を言ってください」と質問したところ,少しやんちゃな男の子が「きんたまー」と答えたのです(笑)。みどり先生はこれにひるむことなく,「もっときれいなもので答えてね」と言ったところ,少しやんちゃなその男の子は今度は「きれいなきんたまー」と答えたのです(爆笑)。その直後に「しばらくお待ちください」というテロップが出た後に(CMの後という説もあります),テレビ画面でそのゲームの場面が再開された際には,その少しやんちゃな男の子が座っていた椅子にはクマのぬいぐるみが置かれていたというのが,その放送事故の顛末です(笑)。なおこれは都市伝説ではなく,うつみ宮土理さんがずっと後になってその事実をテレビで認めていたのですから,伝説ではなく「史実」だったのではないでしょうか(笑)。
残念なことにその少しやんちゃな男の子はその日は退場になってしまったのでしょうね(笑)。その子の椅子だけクマのぬいぐるみが置かれていた訳ですから(笑)。でもよく考えてみれば,その男の子が言い直した言葉だって『き』がちゃんと付いていたのですから,題意に従っており決して間違ったことはしていません(爆笑)。まあ,番組制作現場のスタッフとしては,この子をこのまま出演させていたのでは,もっとエスカレートして取り返しのつかない放送事故に発展しかねないと得体の知れない恐怖を感じたのでしょう(笑)。彼らにとってはそのすこしやんちゃな男の子は「こまったちゃん」だったのでしょうね。この男の子はおそらく私より少し若い年齢だと思いますが,今頃はどこかで「にこちゃん」として元気に活躍されていることでしょう。
最近変なのですよ,私の嗜好が。おやつに甘い物が食べたくなっているのです。昔はおやつと言えばせんべいのようなお菓子が好きだったのですが,最近は甘い物がやたら欲しくなっています。チョコレートとか大福とかフルーツケーキとか・・・。ガンになると食べ物の嗜好が変わることがあると誰かが言っておりましたが,ひょっとしたらガンになっちゃったのかしらん(-_-)。
日曜日の午前中はNHK杯将棋トーナメントをテレビで観ているのですが,そんな時もコーヒーと一緒に甘い物をいただいております(笑)。最近将棋というものが面白くなってきました。それにしてもつい先日終了した第72期名人戦は意外な結果に終わりました。あれほど強いと評判だった森内俊之名人・竜王が羽生善治三冠に0-4のストレート負けを喫し,名人位を明け渡してしまったのです。昨期(第71期)は同じ羽生三冠を4-1で圧倒していたのに・・・。
タイトル戦の場合,将棋の対局中も午後3時ころにはおやつが出るそうです(笑)。おやつの目的は「対局の息抜きやエネルギー補給・栄養補給」なんだそうで,確かに将棋の対局というのは先の先まで,そして何通りもの手順を読むのですからそれこそ頭脳の勝負です。そういう知的営為には相当のエネルギーを消耗します。
今回の将棋名人戦の第2局の第1日目のおやつですが,羽生三冠が注文したのは「みたらし団子と塩豆大福」だったそうです。穏当といいますか,当然といいますか,極めて妥当だと思います(笑)。でも,森内名人が注文したのは「喜多方ラーメンプリン」だったそうです(爆笑)。これが後々まで影響したのか・・・(笑)。
まあ,森内竜王はおやつに「喜多方ラーメンプリン」という冒険をしましたが,今度の棋聖戦(第85期)では挑戦者として羽生棋聖に挑みます。6月2日からのようです。雪辱を期待したいと思います。
将棋指し(棋士)とおやつと言えば,「神武以来の天才」と言われたあの加藤一二三さんが対局中に板チョコを10枚も食べたり(しかも数枚重ねて),バナナを一房(しかも一本一本房から取ることなく)食べたりしたという伝説が残っております(笑)。また,これは定説のようですが加藤一二三さんは基本的には明治の板チョコしかダメなんだそうです(笑)。
久しぶりに上野の鈴本演芸場に行って参りました。「何しに!」ですって?もちろん客としてですよ(笑)。本当に,落語てぇものは日本の話芸の精華と言ってもいいですねぇ。たまに無性に落語が聴きたくなる時があるんですよ。本当に。
ところが,ところがだ・・・。「昼の部」に少し遅れて行ったのですが,客席はほぼ満席に近いんですよ。びっくりしました。最初は立ち見で,演目の変わり目(合間)に係員が「お席までご案内します」ですと・・・。見たところおじいさんとおばあさん,せいぜいおじさんとおばさんばっかりでした(笑)。どこにこんなに大勢の年配者がいたのかと思えるほどに・・・(笑)。どこかの町内会か団体のご一行様なのだと思いました。
鈴本演芸場の「昼の部」でこんなに大勢のお客さんを見たのは初めてです。やっとのことで席に座ることができ,ちょっと窮屈ではあるものの缶ビールを飲みながら落語を楽しもうと思ったのですが,直ぐ右隣の壮年男性客がいけません。彼は不必要に大声で笑いすぎるのです(笑)。館内,満座の中で彼ほど不必要に大声で笑いすぎる客もいなかったでしょう。はなはだ迷惑なことでした。私としては,落語を楽しむというよりも彼のあまりにも不必要に大きな笑い声が気になって仕方ありませんでした。これでは平静な気持ちで落語を鑑賞するどころではなかったのです。それほどの大音声でした(笑)。
その客に「笑うな!」と言う訳にも参りません。みんなお金を払ってまで笑うためにやって来ているのですから(笑)。席を変えようにも適当な席も見当たらず,私はというと「中入り」の時にほろ酔いかげんで演芸場を後にしたのでありました。
ただし,春風亭正朝さんの「七段目」は非常に良かった。面白かった。私も大いに笑わせていただきました(直ぐ右隣の件の男性はもちろん大音声で笑っておりましたが・・)。芝居狂いの息子(若旦那)が父親から小言を言われているにもかかわらず何でも歌舞伎(芝居)の台詞で返してしまうというおふざけ・・・。何度聴いても腹の底から笑えます。
これはもう,巨人は相当に厳しいんじゃないでしょうか。何と言っても投手陣が脆弱です。もう菅野投手しかいない状況です(笑)。
日曜日の対広島戦。セドンは相変わらずボールが多いし,球速もとても遅く,球威というものがありません。それに中継ぎ陣の不甲斐なさたるや,何と形容してよいのやら・・・。出て来る投手が次々に,そしてあたかも貯金でもするかのように着々と失点を重ねております(笑)。昨日の試合は3回までに先発のセドンが0-5にした段階である意味では試合が壊れてしまっているのですが,2番手の田原(誠)の時に0-6,4番手の笠原の時には何と0-10になっちゃってます(苦笑)。笠原が0-10にした時というのは,ボールを2つ連続して投げてカウントを悪くし,ストライクを取りにいった球を4番エルドレッドに満塁ホームランを打たれています。まるで漫画のようです。
昨日の試合を中継で観ていて改めて思いましたのは,ほとんどが巨人側が守っているという場面の多さです。巨人側の攻撃は極めて淡泊で,野手はようやく守りからベンチに引き上げてきたと思ったら,アッという間にまた守備という感じ・・・。
きょうはこの辺でやめておきます。この人は巨人の試合の出来不出来が翌日の仕事の能率や士気に影響する弁護士だと思われてもいけませんので。少しそういう傾向がある点は否めませんが(笑)。
この1か月ほど,巨人は日曜日の試合に全く勝っておりません(負けております)。昨日は暗い日曜日でした。そういえば,シャンソンで「暗い日曜日」という曲がありましたね。名歌手ダミアが歌っておりました。私も学生時代によく聴きました。ダミアの歌では「人の気も知らないで」という曲も好きでした。そうそう,エディット・ピアフやジュリエット・グレコの歌の中に「日曜日は嫌い」という曲もありました。懐かしいです。
もうそろそろ巨人も日曜日に勝ってくださいな。
こういった「雑感」というタイトルの時は,ブログネタに困ったような日で,しかも概して社会に対する不満(笑)めいた内容になってしまいます。朝っぱらから「不満たらたら」なんか聞きたくないわ,という向きにはこの段階でチャンネルを変えていただいた方がいいと思います(笑)。
巨人の投手陣には不安がありますね。開幕前のスポーツ紙のセ・リーグ順位予想では,巨人の優勝を予想するものがほとんどでしたが,昨夜の対ヤクルト戦の試合内容なんかを見ていますと,ホントかな(?)という気がします。
今村という投手は4回3分の2の段階でもう100球近く投げ,ボール先行でカウントを悪くし,ストライクを取りにいったボールを痛打されるという悪循環・・。当然投手にも要求される賢さというものを感じさせません。4回表のヤクルトの攻撃,1-2というスコアの時,ランナーを着々とためてしまい,しかも4番のバレンティンが控えているというのにその前の打者(川端)に四球を出して満塁としています(笑)。いかにも「満塁ホームランを打ってください」とでも言わんばかりに・・・。小心者の私はこの段階でテレビのチャンネルを変えてしまいました。他の番組を見ている間,「・・・・ああ,今頃スコアは1-6になっているんだろうな・・・。」と独りごちておりました(笑)。その後,恐る恐るチャンネルを元に戻しましたところ,案の定バレンティンに満塁ホームランを打たれ,「1-6」のスコアになってしまっておりました(爆笑)。
その後に投げた高木(京)も香月も土田も,着々と失点を重ねておりました。実際のところは巨人は投手陣がいまいちですね(内海も杉内もセドンも球速が遅く,キレも感じられません)。一昨日の試合では,杉内は相手ピッチャーにもタイムリーヒットを打たれていたのを思い出しました。「あっ,今日は期待できるな。」と思えるのは,菅野と大竹くらいなのです。
プロ野球を観ていますと,「試合を作る」とか「試合を壊す」というような言葉がよく出てきます。チームプレーである以上は,作るのも壊すのも選手全員がその主体なのでしょうが,この言葉は特に投手に関して表現されるのではないでしょうか。それほど調子は良くないにしても,何とか抑えながら僅少差で持ちこたえて味方打線の援護を待つというのであれば,それは何とか「試合を作った」ということになるのでしょうが,先ほど述べた昨夜の試合,まだ4回なのに愚かとも言える投球をして,挙げ句に満塁ホームランを打たれ,早々に1-6にしてしまっては「試合を壊した」と言われても仕方ないでしょうね。
すみません。今日は「不満たらたら」でした(笑)。
どうでしょうか,今からもう10年も前になるでしょうか。私がある高級な飲み屋で飲んでいた時,見ず知らずの若い女性との会話で,私が何に見えるかという話題になりました。そうしたらその女性,「ベトナムか何かのお金持ちに見える。」と宣ったのです(爆笑)。私は思わず「がくっ」ときました(笑)。確かに私の顔は,北方系というよりは南方系なのかもしれませんが,その時の無念の気持ちをどういう訳か今でも覚えております。
でも,このたびの南シナ海での中国とベトナムの巡視船同士の衝突事件については,ベトナムの毅然とした態度は誠に立派です。島嶼部といえども自国領土の一部なのですから,領土,領海を護るべきことは当然です。
それにしても,中国当局の報道官は相も変わらず嘘ばかり言っています。ベトナム船が中国船に故意に衝突してきたですと・・・。息を吐くように嘘を言います。ベトナムはこのたびその時の模様を撮影した動画を証拠として公開しましたが,どこをどう見ても中国船が故意にベトナム船に体当たりをし,挙げ句にベトナム船に放水までしております。嘘はいけません。
先日の産経新聞の産経抄には,柳田國男の幼い末弟の嘘にまつわるエピソードのことが記載されており,思わず心が和みました。一部を引用してみましょう。
「柳田國男は、『うそと子供』という随筆のなかで、末弟の3歳の頃のエピソードを紹介している。ある日自分から言い出して、豆腐屋にお使いに出た。ところが、買って帰った油揚げの端が少し欠けていた。途中で鼠(ねずみ)が走って来て、かじって行ったというのだ。弟の説明を聞いた母親は、おかしそうに笑っていた。『嘘(うそ)つきは泥棒の始まり』などど、頭ごなしに叱りつけるだけが、しつけではない。『快くこの幼児にだまされて、彼のいたいけな最初の智慧(ちえ)の冒険を、成功させてやった』。そんな母親の振るまいを、柳田は諒(りょう)とした。確かに子供は、3歳くらいから嘘をつくようになる。親に叱られるようなことをしでかして、自分の身を守るために必死に知恵をしぼる。これもひとつの成長の表れなんだそうだ。年齢が上がるにつれて、嘘もうまくなっていく。やがて、ついていい嘘と悪い嘘の区別がついて、晴れて大人になる・・・。」
本当にそうですよね。大人になったら,ついていい嘘と悪い嘘はちゃんと区別しなければなりません。
ある刑事事件で郊外にある警察署まで車で接見に行く際,本当に久しぶりにグレン・グールドの演奏によるバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻を聴きました。大学生の頃から持っているCDですが,グールドの演奏の凄さを改めて感じました。このCDの録音は,1962年から65年にかけてなされたものです。昭和の東京オリンピックが64年ですからその頃の録音ですが,全然古さを感じませんし,相変わらずバッハ演奏としては鮮烈な印象さえ抱きます。
特にフーガなどは4声にも5声にもなるのに,グールドの演奏にかかると各声部がはっきりと弾き分けられていて,グールドのこのような才能と言いますか,テクニックには驚嘆します。私が平均律の中でも比較的容易な曲にチャレンジしたとしても,音として間違えないようにキー(鍵)を何とか押していくことに精一杯で,各声部を独立して上手く弾き分けるなどといった芸当はとてもできないのです。
バッハの「インヴェンション」や「平均律クラヴィーア曲集」のように複数の線が独立的にからみあって作られる音楽をポリフォニー(複旋律音楽)というのですが,各声部の独立した旋律を上手く弾き分けることの難しさを感じます。
グールドの演奏についてですが,音楽評論家の礒山雅さんは次のように述べています。
「ところで、私が最高のバッハ演奏家として傾倒しているのは、カール・リヒター(一九二六~八一)と、グレン・グールド(一九三二~八二)の二人である。(中略)五〇歳そこそこで亡くなったこの二人の天才によるバッハは、今後も不滅だと、私は信じている。そこには、現代人のこの上なく鋭敏な魂が、密度高く注ぎ込まれているからである。(中略)グールドがバッハのポリフォニーに運動をもちこんだことは、第一章で述べた。彼がポリフォニーの各声部を生き物のように弾き分ける能力は信じられないほどだが、彼はそうした能力によってフーガを、嬉々とした競走のように躍動させる。一方これに先立つプレリュードでは、表現の多様性が思い切り拡大される。あるときはゆったりした瞑想に沈み、あるときは踊りのように快活に、またあるときは・・・・・。」(「J・S・バッハ」193~196頁,礒山雅著,講談社現代新書)
私が久しぶりに車の中で聴いたそのCDのパッケージの裏面には「一部ノイズ等はオリジナル・マスター・テープに存在するため、ご了承下さい。(又、グールド自身の歌い声も一部ございます。)」という記載がありました(笑)。そうなんです,録音中であるにもかかわらず,グールドは演奏の途中で感極まるのか,それとも無意識なのか,小さな声で歌ってしまうことで有名でした(笑)。それにしても,平均律クラヴィーア曲集第1巻の第22番(変ロ短調)のプレリュードは本当に素晴らしい。はっきりとは聞こえませんが,この曲の時もグールドは小さい声で歌ってしまっていると思いますよ(笑)。
5月の連休中に,ある親しい方々と2日連続ゴルフをするという計画はもう恒例になっています。毎年楽しみにしておりますし,今年も5月3日と4日,知多半島のその美しい同じコースでゴルフを楽しみました。
スコアの方は相変わらず満足のいくものではありませんでしたが,ドライバーもアイアンも自分のスイング上の問題点(なかなか直らないクセのようなもの)を改めて認識することができましたし,次こそはとてつもないスコアでラウンドしたいと思います(笑い)。若い頃ならば2日連続なんてへっちゃらだったのですが,この年齢になるとそうでもありません。特に2日目の朝は「大丈夫かな」と不安になるくらいです。しかし,しかしですよ,2日目のラウンド後半になると,不思議ですがもっとやりたいという体になっているのに気づくのです。ヘタなくせにゴルフが好きなんでしょうね。
さて,うちの法律事務所は今年はカレンダーどおりに仕事をしていますので,5日(月)は自宅でゆっくりと過ごしました。普段は平日に朝や昼のワイドショーの類をテレビで見ることはないのですが,この日は疲れていたこともありボサーッとこういう番組を見ていました。それにしても,こういう番組には「コメンテーター」や「文化人」と言われる人たちが次々に出てきます。日曜日の朝の陰気くさい反日番組にも出てきますが(笑)。国際的な問題や社会事象などに対し,もっともらしいことをそつなくコメントしてくれますが,私はあまり信用してはおりません。特に番組のレギュラーにまでなっている「コメンテーター」や「文化人」については,専門分野に関する知見,知識を有している人に対するリスペクトというものがあるのかなと疑問に思います。彼らは毎週,何でも「知っている」からです。また,「コメンテーター」や「文化人」の中には芸能プロダクションに所属している人もいるのです。
テレビ画面でこういう人たちが訳知り顔でコメントしているのを見聞きしますと,評論家の福田恆存先生が述べられた次のような言葉をいつも思い浮かべるのです。
「ところで、『文化人』とは、かういふばあひに意見をきかれる資格ありと見なされてゐる人種であり、また當の本人もいつのまにか何事につけてもつねに意見を用意してゐて、問はれるままに、ときには問はれぬうちに、うかうかといい氣になつてそれを口にする人種である-かう定義していいやうにおもひます。(中略)だが、『文化人』はなんでもかんでも、あらゆることに原因や理由を指摘でき、意見を開陳できなければならないのでせうか。どうもさうらしい。いはゆる『文化人』と称されてゐるひとたちは、無言のうちに日本中から押しよせてくるさまざまな問ひにたいして、古代ギリシァの巫女のやうに、たえず身がまへし、足をすくはれないやうにしてゐなければならないらしい。笑はれないためには適切な答へをしなくてはならない。だが、あらゆることにたいして適切な答へなどできません。(中略)それにしても、かれらは『自分にはよくわからない』とか「その問題には興味がない」とか『いままで考へたこともないことだから、にはかに答へられない』とか、さういつた返事をなぜしないのでせう。(中略)人間はさうなににでも関心をもつはずのものではなし、さうなにもかも始終こころにかけてゐるものではないのに、なにかが起ると、まるでその問題を半生かかつて考へぬいてきたやうな返事をする。そんなばかな話はない。」(「平和論にたいする疑問」)
中国の国家主席をしている習近平という人は,年の割には額が狭いこともあり,全体的にどう見ても賢そうには思えません。この人は3月下旬にはベルリンで行った講演で,「日本は南京大虐殺で30万人以上を虐殺した」などと嘘八百を並べてドイツに行ってまで日本を貶めたのですが,さらには4月下旬に新疆ウイグル自治区のカシュガル地区の視察で警察を訪れた際にも,「和冦との戦いに学べ」として,和冦と戦った先人に学んで反テロ闘争に備えるように指示したばかりです。ここでも日本を貶めており,この人は反日的言動をすることも自己への求心力を維持する手段だと思っているのでしょう。中国共産党全体もそうですが,求心力はそんなものでは維持できません。もっと真剣に民の生活を考え,真摯な気持ちに立ち返り,いわゆる「経世済民」の観点に立たなければ政権の正当性(レジテマシー)が失われてしまうのです。
この習という人が「和冦」うんぬんと言った直後に,新疆ウイグル自治区のウルムチで爆弾テロが発生しました。もちろん一般市民を無差別に巻き込むテロは正当化できませんし,許せません。なお,これは中国共産党によるさらなるウイグル族弾圧の口実を作るための陰謀だとする説もありますが,当局はウイグル族による爆弾テロと発表しています。ただいずれにしても,僧侶の焼身自殺が後を絶たないチベット,そしてウイグルなどなど,少数民族の不満,そして当局によるさらなる苛烈な弾圧の悪循環という現実は否定できないでしょう。
昨日の産経新聞には,評論家の石平さんの評論記事が掲載されていました。それによると,新設された中国中央国家安全委員会の初会合で,委員会トップの習近平が講話をし,「総体的国家安全観」という耳新しい概念を持ち出したそうです。その講話では「政治安全,国土安全,軍事安全,経済安全,文化安全,社会安全,科学安全,生態安全,資源安全」などの11項目を羅列し,それらの「安全」全てを守っていくのが「総体的安全観」の趣旨だというのです。
この11項目のうち習という人が特に強調しているのが「政治,経済,軍事,文化,社会」の5つだそうで,実はこの5項目のうちで外国からの軍事的脅威に対する「軍事安全」以外は全て国内問題としての「安全」を意味し,石平さんは今の中国は「内なる脅威」に怯えていると指摘しています。確かにそうだと思います。政治面では一党独裁,汚職に対する不信感と不満。経済面ではバブル崩壊,シャドーバンキングがらみのデフォルト危機,景気減速。文化面では「イデオロギー」中心の重しが利かず,娯楽やセックスを追い求める大衆文化の蔓延。社会面では年間20万件を超える暴動。
実はそれだけでなく,これは習という人が指摘した「生態安全」,「資源安全」の範疇に入るのでしょうが,PM2.5などの大気汚染,水質汚濁(特に重金属汚染),砂漠化などの問題も看過できません。尖閣諸島沖で領海侵犯を繰り返している場合ではないのです。
習という人も最近さかんに日本を貶めていますが,実際にはもういっぱいいっぱいなんでしょうね。