8月15日,終戦の日は,多くの人々が靖国神社に出かけ,先の大戦で国のために殉じた人たちに哀悼の誠をささげます。私も昨年の今頃は家族とともに東京に行っておりましたので,妻と一緒に靖国神社に参拝いたしましたが,今年は近くの護国神社へ参ろうかと思っております。
日本国の首相をはじめ閣僚などが靖国神社を参拝すれば,中国や韓国は相も変わらず不当で的外れな非難を繰り返しますが,このようなものは完全に無視すればよい。これに不必要に反応したりするから「外交カード」になってしまうのです。完全無視で結構なのです。もう「外交カード」にはならないのだということを分からせなければなりません。そして何よりも「死者との対話」は心静かには行われるべきです。
また,自由民主党の中にだって靖国神社に代わる新たな追悼施設を設置すべきことを主張している者もおりますが,馬鹿者としか言いようがありません。国のために散華された方々は,共に「靖国で会おう」と言って出撃されたのですし,例えば,植村真久少尉(戦死後,大尉)が当時6か月であった愛娘にあてた遺書にも「大きくなって父に会いたいときは、九段へいらっしゃい」と記されておりました。中国や韓国などに阿って新たな追悼施設なるものをこしらえたとしても,そんなものが靖国神社に代替できる筋合いのものではないのです。
「別冊正論」という雑誌の編集長だった上島嘉郎さんの言説にはかねてから共感を覚えていたのですが,ある号の前書きで述べられた文章が誠に素晴らしく,今日はその一部を引用して終わることにします。
「・・・後生の日本人を信じて命を捧げてくれた人たち、その献身が今の日本をつくっている。日本は、現在生きている私たちだけのものではない。過去と未来の日本人のものでもある。現在の私たちの過怠や不作為によって、先祖の名誉を不当に損なわれたままでよいか。子孫に要らざる負い目を負わせてもよいか。故江藤淳氏の次の言葉を、日本人として噛みしめたい。『死者の魂と生者の魂との行き交いがあって、初めてこの日本という国土、文化、伝統が成立している。それこそ日本のConstitutionである。つまり、死者のことを考えなくなってしまえば、日本の文化は滅びてしまう』、『ソポクレース以来、自国の戦死者を、威儀を正して最高の儀礼を以って追悼することを禁じられた国民が、この地上のどこにあっただろうか。国人よ、誰に謝罪するより前にこのことを嘆け。そして、決して屈するな』」