このたび,天皇皇后両陛下のパラオ共和国への御行幸啓が実現しました。何よりです。パラオがとても親日的なのは有名ですね。
パラオがとても親日的なのは何故なのでしょうか。いろいろな理由があるのだと思います。1919年のパリ講話会議でパラオは日本の委任統治領になったのですが,日本人もその最盛期にはパラオに約2万5000人が住んでおり,約25年間にわたって日本人と島民との暖かいふれあいがあったのです。日本の統治時代,パラオでは,ドイツの植民地時代にはほとんど行われなかった学校,病院,道路などのインフラ整備が重点的に行われ,首都コロールは近代的な都市に変貌していきました。今でも日本時代の建物が遺されており,そのいくつかは今でも使用されています。PHPビジネスオンラインというサイトの記載によれば,「ダイジョウブ」(大丈夫),「オカネ」(お金),「コイビト」(恋人)などの多くの日本語がパラオ語になって日常に飛び交っているようですし,パラオ人の名前にジローさんとかタローさんとかが使われているようです(笑)。日本人の礼儀正しさ,節度,道徳心,他民族を思いやる心などが認められ,日本人はパラオの現地住民から愛されていたのです。テレビのインタビューでも,現地の人が「日本が好きです。日本人も大好きです。日本人は、とても正直な国民だからです。」などと答えていました。
東日本大震災の時も,パラオ16州の大酋長・酋長が日本大使館を訪れ,全員分の署名が入った弔意文が日本大使館に渡されております。そして,このたびの御行幸啓に際し,ペリリュー州知事の話によれば,ご訪問のあった4月9日を「天皇皇后両陛下ご訪問の日」として今後も州の祝日とする法案が可決したそうです。
何よりも忘れてならないのが,パラオ諸島のペリリュー島などでかつて強大な米軍と勇敢に戦った日本軍将兵を,パラオの人々が讃え,その武勇を語り継いでくれていることです。
昭和19年9月15日,日本の統治領であったパラオ諸島のペリリュー島に侵攻してきた米軍を迎え撃ったのは,中川州男大佐率いる日本軍守備隊でした。ただひたすら国難を救わんと,至純の愛国心に燃える日本軍将兵は,その数的劣勢をものともせず,敢然と米軍の前に立ちはだかり,米軍は未曾有の損害を被ることになったのです。
ペリリュー島沖合い10キロの外洋に浮かぶアンガウル島でも,日本軍守備隊は強靱な精神力で戦い抜き,こうした日本軍守備隊の不撓不屈の精神と勇猛さに米軍はいたく感銘し,パラオの人々も日本への尊敬と畏敬の念を強めたのです。
パラオの島民にとって,ふだんから優しく接してくれた日本の兵隊さんは,優しいだけでなく強かったのです。このたびの天皇皇后両陛下の御行幸啓によって,国のために尊い命を捧げられ,散華された御霊もさぞ慰められていることだと存じます。
日本軍が島民を守り,何とか戦闘に巻き込まないために,わざと島民に嫌われ口を言いながら島民を守ったエピソードをご存じですか。この当時の様子を知るペリリュー島民の老人のコラムが毎日新聞に掲載されたことがありますが,その中から引用しておきましょう。
「遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。『あそこでみんな死んでいったんだ・・・』沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。『自分達も一緒に戦わせて欲しい』と。それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。『帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!』日本人は仲間だと思っていたのに・・・。みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した・・・。船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。」