スーツを着て歩いていても,もうそれほど汗ばむこともない季節になりました。事務所内で起案をしていても,エアコンを付けなければ少し肌寒いほどです。あれほど暑かった夏・・・,季節の移り変わりがとても早く感じられます。
さて,少し前のことになりますが,元横綱輪島大士さんが亡くなられましたね。まだお若いのに,残念です。現役時代は「黄金の左」などと言われ,私も割と好きな力士でした。幕内最高優勝14回です。本当に立派なものです。「昭和の大横綱」と言われた北の湖関との対戦成績は,23勝21敗というものです。すごい!
輪島さんは相撲の現役を引退し,親方時代を経て,プロレスの世界に身を転じました。このように格闘技の世界からプロレスに転身するという例はよくあるのですが,その昔は日本柔道史上最強の柔道家(全日本選手権13連覇)といわれた木村政彦さんもプロレスラーになりました。
でも,プロレスに携わっている人,プロレスファンの人には申し訳ないのですが,私は子供のころからどうもプロレスはあまり好きにはなれませんでした。これは結局は興行,ショウビジネスだというイメージがあるのです。
輪島さんでも,木村政彦さんでも,相撲や柔道という世界で名を成した人ですから,そのまま相撲や柔道の世界で後進の指導,育成に当たられればよかったのに,彼らのプロレスラー姿を見ると,何となく悲哀というものを感じてしまうのです(彼らは本当はやりたくてやってはいないのではないかと)。ただ,木村政彦さんの場合,プロレスラーとして国内は勿論,アメリカでも活躍されたのですが,例の力道山との屈辱的な対戦(敗戦)の後,裏切った力道山と和解した理由は,最愛の妻のためだったようです。「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也著,新潮社)という本の記述によりますと,木村政彦さんとしては,当時肺結核に冒されていた最愛の妻のために,高額であったストレプトマイシンという薬を手に入れるためにやむなく力道山との和解を受け入れたということです。その辺りの記述を読んだ時には感動しましたし,尊敬もしました。
さてさて,それにしても名古屋グランパスはやはり弱い(笑)。それに風間監督には学習能力,修正能力というものがないと言わざるを得ません。このチームは相変わらずダメな形で失点を繰り返しております。現時点で,失点は52点に達し,J1の全18チーム中,最多なのです(笑)。
失点の多さ,そして守備の意識の重要性という点は,グランパスがJ2にいた時から指摘されていたのに,相変わらず寄せ,チェックが甘く,相手選手に好きなようにクロスを上げられたり,有効なパスを出されたりしているのです。このままですと,再びJ2に逆戻りするリスクがあります。一体全体,風間監督には「守備」という概念そのものがないのでしょうか。いい加減にして欲しいものです。そろそろこの辺りで,チコちゃんにご登場願いましょう!
「ボーっと生きてんじゃねえよ!」
あれほど楽しみにしていたマウリツィオ・ポリーニのピアノ・リサイタルが延期となってしまいました。10月11日(木)午後7時開演予定だったのが,同月21日(日)に順延となってしまったのです。
11日(木)の当日は,東京で一人暮らしをしている娘と午後2時に上野の鈴本演芸場前で待ち合わせになっておりましたので,私は午前11時12分名古屋発の新幹線のぞみ号に乗車したのですが,その車中にあった11時40分ころ,ピアノ・リサイタル延期の報に接したのです(笑)。
主催者側の説明では,10月7日のリサイタルの後,「腕の疲労が回復しない」状態であるのがその理由だそうです。私としてはとても楽しみにしていたので少し残念ですが,やむを得ないと思います。二〇世紀のピアニストの巨匠の中でも10本の指に入るであろうポリーニ。そのポリーニももう既に76歳なのです。それにただでさえ芸術に対して極めて誠実で,しかも完全主義的なところがあるのですから,やむを得ません。私が学生時代に出されたポリーニ演奏のショパンの練習曲集(作品10,作品25)のレコードジャケットには「これ以上何をお望みですか」と書かれているくらい,その演奏は完璧なものでした。
ただ,私の仕事の日程がタイトになってしまうこともあり,順延後の10月21日(日)には再び東京まで行くのは困難であることなどから,今回はチケット代金の払い戻しを受ける途を選択しました。今後再びポリーニの生の演奏を聴く機会があるのかどうか心配ではありますが,今後に期待したいと思います。私は相変わらずポリーニをとてもリスペクトしております。
このように順延になってしまったことについて,ポリーニのお詫びのメッセージが主催者側のサイトに掲載されておりました。その最終行には,もちろんポリーニの直筆で次のように書かれておりました。
「数十年にわたり愛情と尊敬の念をもって続いてきた日本の聴衆の皆様との関係は、私の宝です。」
さて,11日(木)は予定どおり娘と鈴本演芸場で落語などを楽しみ,そして例の旭川ラーメン・番外地でお目当てのラーメンを味わいました。そのラーメン店の接客のあの女性は,相変わらず優しくテキパキしていて,お美しかった。
東京駅で娘とお別れする時は少し寂しかったですけど,その日はその日で結構楽しい一日でした。
このブログでもこれまでに何度かお話ししたことがあるのですが,江戸末期から明治20年にかけて優れた俳句作品を残した井上井月という俳人がおります。私などは井月に憧れて,家族と一緒に井月の終焉の地である伊那谷まで出かけたことがあるのです。
芥川龍之介も高く評価し,あれほど優れた作品を残した井上井月も,実は下島勲という人の熱意と尽力がなければ,これほど世に知られることはなかったかもしれません。下島勲(俳号空谷)は,伊那谷出身の医師であり,幼少期には実際に井月と接したことがありました。その下島勲は,井月の書き残した句を収集しようと思い立ち,ついに大正10年に「井月の句集」を出版するに至るのです。その跋文は友人である芥川龍之介が書きました。下島勲という人物が,なぜ労力と費用を惜しまずにこのような行動をとったのか・・・。それは彼が幼少期に井月に対してなした過ちの記憶,負い目が心の奥底に横たわっていたからです。換言すれば,心にたまった澱(おり)のようなものが彼をしてそうさせたのでしょう。そのあたりの描写が,「井上井月伝説」(江宮隆之著,河出書房新社)という本の中にありますので,少し引用してみましょう。下島(俳号空谷)と芥川のやり取りです(同書10~11頁)。
つまり空谷と芥川は、隣人であり、友人であり、尊敬し合う同志であった。
「自慢で言うわけではありませんがね、龍之介さん。伊那谷には、結構風流の分かる人がいたのです。私の父親という人もそういう田舎の人間でしたが、風流を解する一人でした。ですから、井月さんに宿を貸し、酒食を与え、その代わりに書なんぞを書かせて満足するような人だったのです。井月さんはちょくちょく私の家にやってきました・・・・」
まだ尋常小学校に上がる前の空谷は、時々やってきては祖母が出してやった酒をうまそうに飲んでいる井月や、離れに宿泊しては布団に虱を撒き散らして母親を愚痴らせた井月を見て育った。
「私よりふたつみっつ年上の連中と一緒になって、井月さんをからかったり、馬鹿にしたりしたことがありました。その頃の私たちの目には、井月さんは単なるこじきとしか映りませんでしたから」
やがて悪たれ坊主どもは、井月がいつも腰にぶら下げている瓢箪(これには井月は与えられた酒を入れていた)目掛けて石を投げ付けた。
子供である。一人がやると面白がってみな同じことをする。だんだんエスカレートして、石の大きさも子供が投げるとはいえ、こぶしほどの石になった。
「私も、こじき坊主め、くらいの気持ちで仲間の悪たれと一緒に石を投げたんです。それが・・・」
誤って井月の頭に当たった。
「ぼこっというような嫌な音がしましてね、私は投げ付けておいて、あっと思ったんです」
芥川が、ほうっと言いながら腕組みをしたままで空谷を見つめた。
「やがて井月さんの後頭部から真っ赤な血が流れ出てきました・・・ところが」
芥川は身を乗り出して、空谷の次の言葉を待った。
「井月さんは振り向きもしないで、いつもと変わらない足取りで、とぼとぼ歩いていくのです。血の流れ出るに任せたまま・・・」
「それで空谷先生、どうしました?」
「どうにも出来ません。ただ」
「ただ?」
「恐ろしかった。それも非常な恐ろしさでした。身の毛がよだつ、とはあのことです。私はもう後ろも見ないで一生懸命逃げ帰りました。あの時、私は子供心にも井月さんの何かを感じたんでしょう。それが負い目にもなり、逆に井月さんへの敬愛にもつながっているのです・・・」
「空谷先生、よく分かります。分かります。井月の胆力が、目に見えるようです。そして空谷先生の心の裡も」
下島勲という人物が労力と費用を惜しまずに「井月の句集」を出版し,その後も広く井月の顕彰などに務めたのは,彼が幼少期に井月に対してなした過ちの記憶,負い目が心の奥底に澱のように横たわっていたからです。
私はたまに,井上井月の味わい深い,情趣豊かな,その句から自然にその光景を思い起こさせるような数々の秀句を味わっております(「井月句集」(復本一郎編,岩波文庫))。
話はガラッと変わりますが,私にも心の奥底に澱のように横たわっている苦い思い出があります。私は,焼きそばの上に添えられた目玉焼きを食べるのが何よりの楽しみなのですが,同業の女性弁護士に知らぬ間に食べられてしまった苦い経験があります(笑)。その日は,二次会か三次会で5,6名でそのお店に行ったのですが,席の位置からしてその女性弁護士と私で焼きそば一皿を分け合って食べるような感じでした。
ところが,話に夢中になっていた私がふと焼きそばの方に目をやると,お目当ての目玉焼きが忽然と消えていたのです。全く油断も隙もありません(笑)。執念深いと揶揄されつつも,そのことが今でも心の奥底に澱のように横たわっております(笑)。
私がジャイアンツのファンになった時期は,小学校に上がる前の5歳頃だったのではないかと思います。その当時は約2年間,熊本県の片田舎で過ごし,叔母さんなどから「長嶋のマネをしてよ。」と囃し立てられては調子に乗って長嶋茂雄選手の顔やスイングのマネをして,好評を博していましたからね。そのことは今でもよく覚えております。私としては,現役時代の長嶋選手の勇姿に憧れてジャイアンツのファンになったのでした。
そうすると,私のジャイアンツファンの歴史もべらぼうに長い訳です。でも,その長い歴史の中で,ここ数試合,内心でジャイアンツの敗北を期待するかのような異常な心理が生じていることを告白せざるを得ません。このようなことは今までに一度もなかったことです。巨人が負けた翌日には少し不機嫌になるほどの私ですから,これは異常事態であると言わざるを得ません。
今年は,確か高橋由伸監督の3年契約の最終年でしょうから,栄光の読売巨人軍の監督を勇退させるには絶好のチャンスだと思っておりました。はっきり申し上げて,監督の彼や村田ヘッドをはじめとしたコーチ陣では優勝は絶対と言ってよいほど無理なのです。それなのに,先日,巨人軍の現オーナーがあろうことか高橋監督の続投宣言をしたというではありませんか。我が耳を疑いました。初年度こそ2位でしたが,昨年度は4位(Bクラス),そして今年度も3位か4位(Bクラス)でしょう。私としては,下手に3位(Aクラス)になるよりも,昨年と同様Bクラスになって,いよいよ能力と意欲不足の高橋監督以下の現首脳陣を完全に一新して,有能な監督,コーチ陣を招聘し,来シーズンこそは優勝できるチームになって欲しかったのです。中途半端にAクラスになどなるなよと・・・(笑)。
昨日の東京ドームでの広島戦をテレビで観ておりました。広島というチームは勝つために各人が有機的に結合している良いチームだと思いました。例えば,緒方監督は,ベンチ内で,投球数が130球近くになった大瀬良投手に交代を告げる際,彼に握手を求めて労を労うような言葉をかけておりました。完全に選手の心を掴もうとしているのです。また,他の選手が凡退してベンチに帰ってくれば,その選手は他の選手に何やら有効な情報を伝達しております。また,緒方監督とヘッドコーチはいつも近くにいて,何か勝利のため,あるいはチームのために有効な,意味ありげな会話をしております。チーム全員が勝利に向かって合目的的に行動している様子がテレビ画面を通じて窺えるのです。
こういうチームだからこそ,たとえ年俸総額約21億円でも,年棒総額約39億円のジャイアンツに15ゲーム差ほど引き離してぶっちぎりの優勝ができるのです。我が栄光の読売巨人軍も,川上監督や牧野ヘッドコーチとまではいかないまでも,これに準ずるような有能な監督,コーチ陣を招聘して是非とも球界の盟主に返り咲いて欲しいものです。
さてさて,それにしてもやはり巨人が負けるのも辛いです。昨日のゲームは9回裏のジャイアンツの攻撃が始まる前の時点で3-4とリードされ,来季に向けてのチーム刷新のためむしろ敗北の方が良いという気持ちがありました。でも,やはり負けというのは嫌だな,長嶋さんも悲しむだろうなという気持ちもあり,私の心も相当に揺れるのでありました・・・(笑)。そうしたら,結局5-4の劇的なサヨナラ勝ちを収めたのです。それはそれで痛快ではありました。一方,この勝利によっても今シーズンの対広島戦の戦績は6勝17敗1分という悲惨なものです。同じプロとして恥を知れとも思いました。
あくまでも私の心は揺れております。