明け方にぼんやりと目を覚ました時は,雨が滴る音が聞こえたのですが,出勤の時には一面に青空が広がっておりました。真夏以外の気候の良い季節は,私は徒歩出勤をしているのですが,ここ数日の間は美しい桜を観るために徒歩経路を変えております。
自宅近くの小学校と,事務所近くの小学校にはいずれも見事な桜の木が多く植えられており,ソメイヨシノの本当に美しい姿に見惚れながら歩いております。思わず足を止めてしばし佇むこともあります。そして青空に映える桜の姿の美しいこと。日本という国に生まれて本当に良かったと痛感します。
昨日はうちのカミさんは,娘の幼稚園時代からのお友だち(母親仲間)と一緒に,長野県の高遠の方へバス旅行に出かけました。結構寒かったようで,残念ながらお目当ての高遠の桜は満開前の状況だったようです。
桜という花は,昔から日本人にとっては特別な存在だと思われます。毎年桜の美しい姿を目にしますと,しみじみと何かを感じるのではないでしょうか。
「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」
この歌は在原業平が詠んだ歌で,古今和歌集にも,そして伊勢物語第八十二段「渚の院」にも収められております。この歌ほど,日本人の桜に対する思いを率直に,そして見事に表現したものはないのではないかと思います。この歌の大意は,この世の中に全く桜というものがなかったなら,春を過ごす人々の心はどんなにかのどかであることでしょう,というものです。
確かに,冬の厳しい寒さも弛み,春という季節は徐々に暖かくなって人の心もどこかのどかになってゆくものです。でも桜のことを思うと,「もう桜は咲いたかしら。」,「本当に美しい。今年も桜を観ることができた。」,「来年もこのように桜を観ることができるだろうか。」,「ああ,この雨風で今年の桜ももう終わりかな。」,「ああよかった,まだ咲いている。でもあと数日か・・・。」,「葉桜になっちゃった。すこし寂しい。」などなど,桜というものは我々にそんな思いを抱かせるのです。
桜というものがあるために心穏やかでなく,桜というものは何か人々の心を騒ぎ立てるのです。桜という存在を思う時,やはり業平のこの歌ほど的確なものはありません。
そして西行の次の歌も誠に素晴らしく,私はとても好きなのです。
「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」