私は東京出張の際にはよほどのことがない限り,上野の鈴本演芸場へ足を運んで落語を聴きます。機会があればいつでも,落語という素晴らしい日本の話芸に接したいのですよ。それにしても世代的に無理だったとはいえ,本当は5代目古今亭志ん生という名人の高座を,聴き手として体験したかった。5代目古今亭志ん生が亡くなったのが昭和48年9月21日ですが,最後の寄席出演が昭和43年のことであり(上野鈴本演芸場),その当時私はまだ名古屋市在住の小学生ですから,やはり無理だったのです。
5代目古今亭志ん生の評伝などを読むに付けても,落語家としては凄い存在だったようです。つい最近,「志ん生のいる風景」(矢野誠一著,河出書房新社)という文庫本を読んだのですが,ますますその感を深くします。著者である矢野誠一の文章が味わい深くて素晴らしく,やはりこの稀代の落語家に間近で接していなければ書けない内容です。この落語家に対する矢野誠一の憧憬,尊敬,情といったものはこの本の序章を読めばすぐに理解できます。序章はたったの2行で,次のようなものです。
「古今亭志ん生。五代目。本名、美濃部孝蔵。僕の、いちばん好きな落語家である。」
志ん生の破天荒な人生は,とても真似できるものでもマネしたいとも思いませんが(笑),生き様そのものが落語みたいなもんです。志ん生を名乗るまでの間,全部で16回にわたって改名しているのですが,そのように頻繁に改名した理由の多くは借金取りから逃れるためだったようですし(笑),若い時分の放蕩無頼の暮らしぶり,一升酒,二日酔いや気分が乗らない時などは平気で高座に穴をあけ,高座に上っても途中で寝てしまうこともあったのです(笑)。
しかしそれでも,落語家としての芸そのものは超一流で,これまた名人と言われた8代目桂文楽とはライバル(好敵手)であり,私生活でも互いに尊敬し合っていました。昭和46年12月9日には妻のおりんさんが逝去,葬儀が12月11日で,その翌日に8代目桂文楽が逝去しました。志ん生は妻の葬儀でさえ涙を見せなかったのですが,文楽の訃報に接した時は「皆、いなくなっちまった。」と言って号泣したと伝えられています。
志ん生としては落語家として生涯現役を目指していたと思われますが,残念ながら昭和36年12月15日(71歳の時),高輪プリンスホテルで開かれた巨人軍の優勝祝賀会の余興に招かれた際に脳溢血で倒れてしまいました。以後は右半身が不随になり,その後は落語家としては十分な活躍ができなかった。この余興の時の志ん生の気持ちは察するに余りあり,彼は立場上自分を押し殺して我慢をして高座に上がったに違いありません。その辺りの事情は,この本の「7 冬の夜に」の箇所で詳細に描写されております(194~198頁)。この箇所を読みますと,ちょっと切なくなります。
私の同業者で10歳上のS先生という人が,この5代目古今亭志ん生の大のファンであり,彼と一献傾けますと志ん生のことも話題に上ります。彼は,「なめくじ艦隊」や「びんぼう自慢」などといった本も所蔵しているとのこと。今度これらの本をお借りする約束ができております。
うちのカミさんが外出し,私がひとりぼっちで夕食をとるような時もありますが,そんな時は無聊を慰めるため5代目古今亭志ん生の落語をCDで聴いてみようと思っております。