昨年末にロータリークラブの年末家族例会という席で,余興(出し物)として,小編成の合唱団で4曲ほどを歌ったことがありました。そのうちの3曲は短い童謡・唱歌でした。にわか作り,急ごしらえの10名ほどの男女混声合唱団であり,十分な練習時間も確保できませんでしたが,なかなかの好評だったと思います(笑)。たまには童謡・唱歌もいいですね。日本の童謡・唱歌は愛らしく,いかにも日本的な文化に根差した情緒というものがあります。これからも忘れ去られることなく,ずっと歌い継がれていって欲しいものです。
ところで,産経新聞には「朝晴れエッセー」というコーナーが掲載されています。私はいつも目を通している訳ではありませんが,たまたま目に留まったエッセーの中には本当に感動的なエッセーもありますよ。さすが産経新聞!報道姿勢もそうですが,訳の分からない川柳を臆面もなく掲載する朝日新聞とは雲泥の差です(笑)。
7月29日の産経新聞に掲載された「朝晴れエッセー」を読んで,朝からしんみりとした気持ちになりました。和歌山市の方の投稿ですが,終戦の年の昭和20年7月28日に1歳半の弟を病気で亡くし,その1週間後の8月2日には過労で寝込んでいたお母さんも亡くしてしまったというのです。軍服を早く縫うように急かされていたそのお母さんは(お父さんは戦地),過労により2階で寝込んでいたところ,病気で1歳半の我が子が亡くなった事実を知り,冷たくなった我が子の顔をそっとなでて涙をふきながら,とぼとぼと2階へ上がって行った。そのとき,2階からはやさしい声で聞こえてきたのが「シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ、屋根まで飛んでこわれて消えた・・・」という歌だったそうです。結局,その1週間後にお母さんも亡くなります。
シャボン玉という童謡・唱歌はとても有名であり,私も小学生の時に音楽の授業で歌ったことがありました。長調の曲であり,シャボン玉遊びをしている場景を歌った楽しい歌だとばかり思っておりましたが,よくよく調べてみると,作詞者である野口雨情には長女みどりを生後7日目か8日目で亡くしたという辛い体験があり,その長女のことを思い出しながらこの「シャボン玉」を作詞したという説が有力です。ある日,野口雨情がシャボン玉遊びをしている子供たちに遭遇し,長女が生きていれば彼女たちと同じ年ごろだっただろうな,などと長女(みどり)のことを思い出しながら作詞したという説です。
野口雨情は,やはり終戦の年の昭和20年1月27日に亡くなっており,新聞などの彼の死亡記事の中ではこの代表作「シャボン玉」の作詞経緯などに触れられていたのかもしれません。ひょっとしたら,さきほどの「朝晴れエッセー」に出てきたお母さんも,そのようにして「シャボン玉」の作詞の背景を知っていたからこそ,2階で悲しくも優しい声で「シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ、屋根まで飛んでこわれて消えた・・・」と歌ったのでしょうか。