いやー,びっくりしました。将棋の藤井聡太六冠の異次元の強さには本当に驚愕です。私もたまに将棋を指しますし,将棋ファンの端くれなのですが,6月28日の日曜日に叡王戦第4局の対局があり,気になってスマホでチェックしていたのですが,藤井六冠はやはり並みの棋士ではありませんね。車で言えば,他の棋士とは載せているエンジンが違います(笑)。
この第4局は千日手が2局続く熱戦でしたが,決着局で何よりびっくりした手が2つありました。まずは68手目の1五角です。先手が1五歩と端歩にちょっかいを出した時,後手の藤井六冠は同歩ではなく,何と同角としたのです。これですと最後尾に控えている香車で角を取られてしまいます。要するに角香交換という一見損な手を断行したのです。これにはびっくりしましたが,その後の展開を見ても分かるように,藤井六冠は,確かに駒損だけど相手が歩切れだから,自分の歩を相手の玉頭に進出させ,と金を作って殺到すれば相手の堅固な穴熊囲いを粉砕できるという大局観だったのです。正に恐るべし・・・。
そして,次に腰を抜かすほどびっくりしたのは,80手目の2九龍です。強力な攻め駒である龍をズバッと切って捨て,勝負を決めに出たのです。それまでAIの評価値が藤井優勢(勝勢)を示していたのに,一瞬の間,評価値が逆転してしまったくらいAIも一瞬混乱して詰みを読むことができなかったのでしょう。将棋ソフト,AI(人工知能)というのは何億手も読むというのに・・。要するに,23手詰を時間に追われていた藤井六冠の方が先に読み切って龍切りを断行したという訳です。異次元,そしてAI超えの強さです。くどいようですが,本当にびっくりしました。即詰で相手玉を打ち取り,藤井六冠は叡王位を防衛し(弱冠20歳),六冠を維持したのです。
ハードスケジュールの中,5月31日と6月1日の両日,今度は名人戦第5局の対局があります。現在挑戦者の藤井六冠が3勝1敗と初の名人位に王手をかけておりますが,恐らくは名人位を奪取するのではないかと強く期待しております。そうなれば,20歳で七冠に輝くという訳です。凄いですね。
藤井六冠の幼少の頃のエピソードが谷川浩司九段の発言とともに「デイリー新潮」に掲載されていましたので,そのまま引用いたします(谷川九段は,21歳で名人位を獲得し,タイトル獲得数は27で歴代5位,永世称号として第十七世名人保持者)。
「今から10年程前になりますかね。名古屋で行われた『将棋の日』のイベントに出たことがありました。何人かの方にハンディを付けて指導対局をしていたのですが、飛角を落とした一人の小学生とは、終了予定時間が近づいても対局が終わりそうになかった。で、私が優勢だったので、引き分けにしようと提案したのですが」
すると、少年は、将棋盤に覆いかぶさるように突っ伏し、大声で泣き出した。
「負けると泣く子はよくいるんです。でも静かに涙をこぼすといった程度。あそこまで悔しがる子は見たことがありませんでした。・・・ですから、私の藤井二冠の第一印象は”強い子”ではなく、”大泣きをした子”なんです」
結局、藤井少年(当時8歳,小学2年生)は、母親に抱きかかえられてその場から引き離されたそうだ。
天才性はもちろんのこと,これくらい負けず嫌いでなければ六冠にはなれません(笑)。
もうかれこれ3年ほど前になりますかね,私が仕事の関係で鹿児島に出張に行ったのは・・。どうやら今年も仕事の関係で再び鹿児島出張となりそうです。前回出張時は,仕事と夜の飲み会だけで観光などはできなかったのですが,今回は時間があれば少しだけでも観光がしたいものです。
「翔ぶが如く(1)~(10)」(司馬遼太郎著,文春文庫)を貪るように読んだときの感動もあり,今度はせめて城山(西郷隆盛終焉の地)は観てみたいですし,東郷平八郎誕生碑くらいは観てみたい。
日露戦争における日本海海戦を勝利に導いた大元帥東郷平八郎は,昭和9年(1934年)5月30日に87歳で亡くなりました。ちょうど今頃の季節です。「人間臨終図鑑(4)」(山田風太郎著,徳間文庫)などの記載によりますと,東郷平八郎という人物そのものに惹かれますし,その死に際や愛妻との麗しい夫婦関係などはやはり羨ましいほどですし,夫婦というものはこうありたいと切に思います。
死の直前,東郷元帥と妻のテツ子さんは同じ病院で療養していたのですが,元帥の診察が終わった後は,医師に必ず「ありがとう。」と丁寧にお礼を述べ,「ついでに、お鉄も診てやってください。」と必ず言う。毎日午後2時頃になると,天皇陛下から御下賜のスープをいただく時は,必ず床の上で合掌し,お礼を言上し,このありがたいスープを必ず隣室の妻に分け与えていた。いよいよ元帥の死の前日午後11時頃,元帥の容体が絶望の重態となった時,妻はベッドごと元帥の病室の敷居の所まで運ばれ,最後の対面となる。妻の顔を見た元帥は,意識不明瞭のはずだったのに妻の顔をみるや,右手をしきりに振り,二三度頷いた。妻は元帥の顔をじっと見守って,両の眼に熱い涙を浮かべていた。最後の対面を果たした妻は,ベッドごと自室(病室)に運ばれながら,「乃木さんの奥さまが羨ましい。」と涙を流して言った。
明治天皇が崩御したときに,乃木希典と妻の静子は夫婦で自決したのですが,この東郷元帥の妻の言葉には夫の平八郎と共に死を迎えたかったという思いが込められております。結局,妻もその年の12月28日に亡くなり,元帥とあの世で再会を果たしたのです。
こう言っては何ですが,同じ薩摩藩出身でも黒田清隆(元内閣総理大臣)の自分の妻に対する傍若無人ぶりとは極端に違います。酒乱だった彼の自分の妻に対する振る舞いは,書くだけでも気分が悪くなりますので,ここでは触れません。素面の時には穏やかだったそうですがね。
いずれにしても,東郷元帥,もとより軍功抜群の出色の軍人だったことは間違いありませんが,良き父であり,また良き夫だったのでしょう。
この連休中に,「東京物語」という映画を観ました。小津安二郎監督作品で,主演は笠智衆と原節子です。この作品は昭和28年(1953年)に公開された古い映画ですが,国内外でとても高い評価を得ています。
私は以前,この作品を断片的にしか観ておりませんでしたが,今回初めて通して観てみました。いろいろと考えさせられる,しんみりとした,切ない映画でしたね。笠智衆の枯淡の境地,原節子が醸し出す誠意と優しさと美しさ・・・。
ウィキペディアの記載を引用すれば,上京した年老いた両親とその家族たちの姿を通して,家族の絆,親と子,老いと死,人間の一生,それらを冷徹な視線で描いた作品であり,家族という共同体が年を経るとともにバラバラになっていく現実を,独特の落ち着いた雰囲気でつづっている秀逸な作品です。観ていて切なくなりますけどね。何やら自分の死生観にも影響を及ぼすような。
先にも述べましたが,この作品は国内はもちろんのこと,海外でも高い評価を得ております。海外での公開は昭和32年(1957年)にロンドンで上映されたのが最初で,翌年に第1回サザーランド杯を受賞し,海外での小津作品の評価が高まるきっかけになりましたし,1972年にはニューヨークでも公開され,アメリカの批評家たちからも賞賛を受けました。2012年に英国映画協会の映画雑誌『Sight&Sound』が発表した史上最高の映画ベストテンの映画監督が選ぶランキングでは第1位に選ばれてもいます。
それにしても原節子という女優の何と美しいこと。1963年に小津安二郎監督が亡くなり,彼女は43歳ころに突如として事実上の引退状態になり,その後は公の場に姿を現すこともなくその潔い引き際も際立っています。美貌,独身,潔い早い引退,その後の隠遁生活など,スウェーデンの女優グレタ・ガルボと共通した面があります(グレタ・ガルボのことはこのブログでも触れたことがありますので,ブログ内検索で「ガルボ」とキーワードを入れて検索してみてください)。記事によれば原節子は,たばことビールと麻雀が好きだったようで,親近感がわきます。私もビールと麻雀は好きですので(笑)。彼女は鎌倉でヴェールに包まれた隠遁生活を送り,95歳で亡くなりました。