先日,マイカーで出張先に移動している途中で,ラジオ(NHK-FM)を聴いていましたら,チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」が流れてきました。実に佳い曲です。
この曲が名曲であることは間違いありませんし,チャイコフスキーの最後の作品であり,やはり傑作です。ただ,不遜にも以前から思っていたのですが,まとまりという点で言いますと,少しまとまりはないかなと(笑)。
「悲愴」という標題が付いているからといって,全楽章に必ずしも悲愴感が漂う必要はないのですが,第2楽章の4分の5拍子という独特のリズムをもった民族舞踊的な明るい楽章,そして第3楽章のスケルツォと行進曲の爆発的な高揚感,これらは悲愴感漂うその他の楽章とは全く異質で,特に第3楽章の爆発的な高揚感は異次元です。この楽章が終わった途端,本当は全曲が終了していないのに思わず聴衆が拍手をしてしまうほどです。
繰り返しますが,佳い曲であることは間違いないのですよ。
まとまりという点で言いますと,ショパンのピアノ・ソナタ第2番もどうかな・・・(笑)。これも傑作中の傑作であることは間違いないのですが,同時代人の作曲家にして評論家のシューマンがこの曲を評して,「ショパンは乱暴な4人の子供をソナタの名で無理やりくくりつけた」と言いました。もちろんこれは批判,酷評ということではなくて斬新さを指摘したものでした。特にこのソナタの第3楽章「葬送行進曲」は人口に膾炙したあまりにも有名な曲です。
一方,まとまりという点で私はあると思っているのに,そうでない評価がなされている曲があります。バッハのマタイ受難曲の第42曲目のアリア(「私のイエスを返してくれ!」)のことです。シュピッタはこの曲について,「全アリア中唯一の批判すべき楽曲」であるとしており,マタイ受難曲の新しい解説書を出版しているエーミール・プラーテンもこの曲には否定的な見解を示し,このアリアは先立つペトロのアリアとの対比を生かす以上の存在価値はもたないといった見解を示しているのです(「マタイ受難曲」礒山雅著,322~323頁,東京書籍)。
この点については,私は意外に思いますし,この第42曲目のアリア「私のイエスを返してくれ!」は大好きなのです。礒山雅さんも「このアリアは《マタイ受難曲》のもっとも重要な楽曲のひとつであり、一見流れを乱すかのように思える明るさ自体が、大きなメッセージであると確信している。」と評されております(同著322頁)。
本日はそれこそまとまりのない話で恐縮ですが,曲のまとまりという点についてはいろんな意見があるものですね。