本当に桜という花は美しいですね。思わず足を止めて見惚れてしまいます。昨日の朝の徒歩通勤の途上でも,誠に見事な桜の花に見とれてしまいましたが,「ああ,これが桜吹雪というやつだな。」と独り言。強い風に吹かれて桜の花びらが本当に吹雪のように降りかかってきました。美しいやら寂しいやら。
桜という花が私たちの目を楽しませ,気分を和ませてくれる時間も本当に短く,散ってゆく花びらを目にすると寂しくなります。でも,日本人が古来桜という花を愛で,心を動かされてきたのは,その美しさだけが理由ではなくその散り際の潔さも私たちの心を打つからでしょうね。自然の呼び声に応じていつでも散ってゆく潔い覚悟があるのです。
漂泊の俳人,井上井月の俳句は本格的で正統派の部類に属し,私は本当に井月の句が好きです。井月の生涯に興味を持ち,またその句の魅力に惹かれ,家族とともに井月の終焉の地である伊那谷まで出かけたこともあります。
その井月にも当然のことながら桜を詠んだ句,例えば次のような秀句があります。
「翌日(あす)しらぬ身の楽しみや花に酒」
「翌日(あす)しらぬ日和を花の盛りかな」
井月は漂泊の俳人で自分の家がありませんし,厳寒,酷暑という季節によっては本当に生命の維持に関わるような過酷な境涯を過ごしました。ですから,本当に翌日(あす)を知らぬ身だったのです。だからこそ面前の美しい桜を楽しみながら大好きな酒をくらう。また,二つ目の句は「翌日(あす)しらぬ」が「日和」にかかっていますから,天候によっては雨風で花びらがいつ散ってもおかしくない桜の花の短い命を表現し,かつ,自分も所詮は「翌日(あす)しらぬ」存在だということだと思います。
だからせめて,面前の美しい桜を楽しみながら大好きな酒をくらうことにしよう,てなもんです。
また,俳句ではなく花(桜)を詠った和歌で私が特に好きなのが,西行法師の次の歌です。
「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの望月のころ」
さあ,今晩も一杯やるとしましょうか。3月31日(ユリウス暦では3月21日)生まれのバッハの名曲を聴きながら・・・。