徒歩通勤の途上でも,見事な桜の姿に見とれて思わず立ち止まる名所が数か所あります。小学校,公園,神社など・・・。私の住むこの名古屋では,残念ながらもうすっかり葉桜になってしまいました。少し寂しい感じがします。
「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂う 山桜花」(本居宣長)
宣長の詠った桜は山桜であり,ソメイヨシノとは違っておりますが,いずれにしても桜の花というのは本当に美しいですね。その姿,形の美しさや風情,そして潔さが素晴らしいだけでなく,何といいますか観る者をして思索的にさせ,何かを思わせてしまうものがあるのです。うまく表現できませんが,来し方行く末を思わせてしまうような・・・。
「さまざまの事 おもひ出す 桜かな」(松尾芭蕉)
高齢者や病気の人は来年も元気で桜の花を観ることができるかしらと思うでしょうし(私もそのひとり),就学中の若い世代は桜の季節に入学していろいろな経験をしたり友達もできたな,お別れするのはつらいけど次の新生活はどんなものかななどと,寂しさと将来への期待とが入り混じった心境で桜を見るのでしょう。そして桜の花が日本人の心情に合致するというと誤解を生ずるかもしれませんが,「武士道」を著した新渡戸稲造博士が述べているとおり,私自身も自然の呼び声(風)に応じていつでもこの世を去る潔さを桜の花に感じます。
最後に「武士道」の一節を引用しておきましょうか。西洋のバラをここまで悪しざまに言ってしまうのにはちょっと引いてしまいますが(笑),とても説得的です。
「本当に、サクラは長年にわたって私たち国民の特愛の花であり、私たちの国民性の表徴であった。・・・その美しさの洗練と優雅とは、他のどの花もできないほど、私たちの美感に訴える。ヨーロッパ人がバラをほめたたえるのを、私たちは共にすることはできない。バラには、私たちの下に隠れている刺(とげ)、バラの生命にしがみつくしつこさ、まるで時期尚早に散るよりはむしろ、茎の上に朽ちることを選び、死ぬのをひどく嫌い恐れるかの風があること、バラのケバケバしい色彩とくどい香気-これらすべてが、私たちの花と大違いの特徴である。桜はその美しさの下に、およそ刃物も毒もかくしておらず、自然の呼声に応じて、いつなんどきでも世を去る覚悟ができているし、その色彩は決して派手ではなく、そのあわい香りは決して飽きがこない。・・・太陽がめぐり昇って、まず〈極東〉の島々を照らし、桜の馥郁(ふくいく)たる香りが朝の大気をよみがえらせるとき、いわばまさにこの美わしい日の息吹きを吸い込むこと以上に、晴朗爽快な感覚はまずない。」(「武士道」新渡戸稲造著,佐藤全弘訳,教文館,219~221頁)