今の事務所に移転したのが去年の4月。移転前の事務所はそこから100メートルもない場所であった。前の事務所のあったビルでは,朝,割と早い時間帯からおばさんがマメに清掃してくれていて,僕がエントランスから入ってエレベーターを使う際には,毎朝きちんとした挨拶を交わしていた。
そのおばさんは,失礼ながら年齢的にはもう,おばあさんと呼んでもよい年頃で,どういう訳か僕を気にかけてくれ,挨拶の他に「先生,今日はお早いですね!」などと気軽に声までかけてくれていた。寒い時期にも半袖に近い薄若草色の作業服で,本当に一生懸命に働いている様子がわかり,大変だなあ,真面目な人なんだなあ,こういう表現が良いのかどうか知らないが,そこに昭和の残像を見ていた。
去年4月,事務所を移転する際には,残念ながらそのおばさんとはちゃんとした別れの挨拶をする機会もなく移転してしまい,割と近い距離にいながらそのままになっていた。ところが,先日,ひょんなことからそのおばさんと以前のビル付近で再会した。その日は,僕は同行する証人の車に乗せてもらって裁判所まで行くことになっており,近くのコインパークから出されたその車に乗り込むところであった。ちょうどその時,以前のビルのエントランスのガラスを向こう側から拭いている薄若草色の作業服のおばさんの姿が目に入った。銀縁のメガネからその後黒縁メガネに替えてしまい,約11か月も経ってしまっていたのだが,そのおばさんは僕を目ざとく見つけ,駆け寄って丁寧な挨拶と深々としたお辞儀をしてくれたのだ。僕も駆け寄ってお辞儀をし,咄嗟に「元気でねぇーっ。」という言葉が出てしまった。そのときはそういう言葉になってしまったのだ。
僕の顔は,これといった特徴があるとも思えないのに,そのおばさんはよく覚えていてくれて,直ぐに目ざとく見つけてくれて丁寧な挨拶をしてくれた。何のことはないのかもしれないが,少し嬉しく感じた。前のビルにいた頃は挨拶程度で,袖が擦れ合ったということはないのだが(それも袖が擦れ合ったというのか),袖擦れ合うも多生の縁。そのおばさんとは前世でもなにがしかの縁があったのだろうか。