僕の自宅の近くには,この地域では毎年よそよりも数週間早く満開になる桜並木がある。個々の桜の木はそれほど大きくはないが,一足早く桜を満喫できるという意味でちょっとした名所にもなっている。でも,そこも,もう桜が散ってしまい,葉桜になってしまった。
それにしても桜ほど魅力的は花はない。桜というのは,見た目も本当に美しいのだが,それ以上に,それを見る者をして内省的にさせる何かがある。何とも説明し難いが,うーん,自分の人生とか,生命とか,来し方行く末のこととか,何かそんなことを自然に感じさせてくれるのである。
日本人がこれほどまでに桜を愛しているのは,僅か4,5日の短い間に精一杯咲いて人の目を楽しませ,そしてその後の散り際の潔さ,いわば「もののあはれ」を感じさせるからであろう。さきほど僕は,桜が,「自分の人生とか,生命とか,来し方行く末のこととか,何かそんなことを自然に感じさせてくれる」と述べたが,例えば自分のような年齢になると,若さに嫉妬を覚える側面がないとはいえない。でも,桜の散り際を見ていると,良寛の辞世の句とも伝えられる「散る桜 残る桜も 散る桜」の心境にもなり,嫉妬が的外れであることに思い至る。
本居宣長は,「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂う 山桜花」と詠じた。また,以前,五千円札の顔にもなった新渡戸稲造先生は,「桜はその美しさの下に、およそ刃物も毒もかくしておらず、自然の呼声に応じて、いつなんどきでも世を去る覚悟ができているし、その色彩は決して派手ではなく、そのあはい香りは決して飽きがこない。・・・・・・・桜花の咲きかおる季節には、全国民がその小さな住居から呼び出されたとして、何のふしぎがあろうか。しばし彼らの手足がその労苦を忘れ、彼らの心がその痛苦悲哀を忘れるとしても、彼らをとがめてはいけない。その短い楽しみが終わると、彼らは、力も新たに、決心も新しく、日々の仕事にもどるのである。こうして、桜が国民の花である理由は一つにとどまらない。」と桜を讃えている(「武士道」新渡戸稲造著,佐藤全弘訳(教文館)220~222頁)。
日本人にとって,桜という花が特別な存在であることは間違いないだろう。