前回のブログで3月26日はベートーヴェンの命日だったことに触れました。だったら,同じ3月に誕生したヨハン・セバスティアン・バッハに触れない訳にはまいりません(バッハの誕生日は3月21日)。
相変わらずバッハの音楽は私の心の支えと申しますか,癒しの源泉になっております。バッハへの思い入れは,もう理屈抜きの世界です。その音楽の魅力については,もう何かに例えることなどできません。例えようもないのです。
さて,バッハは音楽の面でもその他の面でも決して安易な妥協はしなかった人物だったと伝えられております。1705年といえばバッハがまだ20歳であり,精神的にはまだ未熟だったのかもしれませんが,決闘未遂事件の当事者になっているのです。その当時バッハは,アルンシュタットの新教会(現バッハ教会)のオルガニスト兼カントールだったのですが,妥協のない厳しい指導が原因である生徒(ファゴット担当)の恨みを買い,路上で殴りかかられ,バッハは剣を抜いてこれに応戦したことがあったのです。いや,すごいことになっておりますね(笑)。バッハとしてはいい加減な態度で音楽をする者を許せなかったのでしょうね。それが音楽家としての良心だったのでしょう。でも,まさか剣を抜くとは・・・。
また,安易な妥協を許さない点で思い浮かぶのは,ブクステフーデの娘さんとの縁談を断ったことです。同じ1705年の10月,バッハは勤務先のアルンシュタットから約400キロも離れたリューベックまで徒歩で旅をし,当代一流の音楽家・オルガニストであったブクステフーデの下に学びに行きます。ブクステフーデもバッハの才能を高く評価し,リューベックの聖マリア教会オルガニストの地位を後任として承継するように勧められました。若いバッハにとってはこのような地位はすごく光栄なことで身に余るものだったでしょう。栄達そのものです。
ただし,これには条件がありました。ブクステフーデの娘(当時30歳)と結婚することでした(笑)。10歳も年上の女性との結婚です。実はその2年前には,あのヘンデルも,またこのブログでも取り上げたことのある調性格論で有名なヨハン・マッテゾンも同じ条件を持ちかけられて断っております。・・・さて,バッハはどうしたか。彼は当然安易な妥協はいたしません。ブクステフーデからは音楽的な影響を受けつつも,その話を断り,アルンシュタットへの帰路についたのです。妥協しませんでした。
その昔,もう遠い遠い昔のことですが,私が独身だった頃,職場の偉い人からの縁談話があり,お見合い写真を見せられそうになったことがありました(笑)。同じ職場の方の娘さんですし,写真を見てしまってからお断りなどできるはずはなく(笑),またお会いしてからでもその後の成り行き次第では職場で気まずくもなります。小心者の私は,好きな人や交際している人などいなかったのに,「実は交際している人がおりまして。」などと真っ赤な嘘を言い,写真をいただく前の段階で丁重にお断りしたことがありました。
さてさて,明日はバッハの誕生日でもありますから,さしずめ今晩は,あの途方もない喜びと祝祭的な気分に満ち満ちた「マニフィカト」を聴いてみたいと思います。