昨日のブログでも書いたが,真夏の連続ゴルフに疲れ果てて日曜日は寝たきりになっていた。最近ではあまりテレビを見ることは少なくなったが,日曜日に日本テレビ系列で放送される「たかじんのそこまで言って委員会」という番組は楽しみにしている。取り上げられるテーマは比較的興味深いものが多く,かつ勉強にもなるし,時には出演者が普段の僕の意見を代弁してくれるところがあってすっきりすることも多い。
本当にくだらない企画の多い,しかもくだらない出演者の多い番組の中で,「たかじんのそこまで言って委員会」という番組は好きである。ある意味では,反日マスコミが嫌がるテーマ,意見がどんどん取り上げられ,本音で語られる特異な番組である。こういう番組が特異であるということが嘆かわしい。
寝たきりになっていた先日の日曜日には,この番組の最初の方で日本の近現代の歴史認識に関するテーマなどが取り上げられた。文学者・評論家の西尾幹二さん,歴史学者の所功さん,政治評論家の三宅久之さんらが,それぞれの歴史認識,識見に基づいて比較的深い議論をマナーよく行っていた。歴史をよく勉強していなければできないような議論だった。いわゆる「東京裁判史観」に歪められていない歴史に対する正確な理解と認識は必要不可欠である。
それにしてもこれらの出演者の方々と対極をなしていたのが田嶋陽子という人だ。哀れにもこの人は歴史を深く理解,勉強していないために,さきほど挙げた方々の議論には参加することができず,ヤジまがいの茶々を入れたり,あとは高音域の声でヒステリックに説得力の全くないことをまくし立てるのみである。同じ出演者の中でも歴史に対する理解の深さの違いが如実に出た時間帯であった。あとは,この番組は好きなのだが,辛坊治郎という司会者はでしゃばり過ぎであり,出演者に対する敬意,礼節を欠くことが多く,好感がもてない。
この日は晩酌はしないと心に決めていた。しかし,そのままテレビを見ていたら,竹内結子という女優さんが冷たくしたグラスにビールを注ぎ込み,美味しそうに飲むコマーシャルを目の当たりにしてしまった。よほどの下戸でない限り,こういうコマーシャルを見せられてビールを飲みたいと思わない男性は皆無であろう。つくづく罪作りなコマーシャルではある。その晩は結局はビールで晩酌と相成った。
日本人が海外に留学などをした際,自分が属する日本という国の歴史や文化について,割りと正確にしかも自信をもって説明できているだろうか。残念ながらこれについては僕は悲観している。というのも,今の日本の学校教育では,歴史を学ぶ時間が絶対的に不足しているし,仮に歴史を学ぶ時間が少しばかり割り振られていたとしても,その内容は「東京裁判史観」に基づく戦勝国から押しつけられた歪んだ歴史観であったり,「近隣諸国条項」に配慮した卑屈なものであったりする内容だからである。さらに,ご家庭で父親などが子に日本の歴史や文化などについて話すなどといったことも果たしてなされているのかという疑問もあるし・・・。残念なことだけど。
以前にもこのブログで紹介したことがあったが,若狭和朋という人が書いた「日本人が知ってはならない歴史」,「続・日本人が知ってはならない歴史」,「日本人が知ってはならない歴史・戦後編」という三部作を読み返している。大変参考になる。日本人の大人なら,一度は読んでもバチは当たらないと思う。本当に。
WGIPという言葉をご存知だろうか。これは,ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの略で,大東亜戦争は日本が仕掛けた人類に対する犯罪行為であったという原罪感を頭脳に植え付け,日本古来の精神文化(よい面)を奪ってしまうというプログラムである。現状では,今でもこのプログラムを施した結果は成功という形で残存しており,日本は精神的には立ち上がれないでいる。日本がまともな国になっていくには,何よりもこれを構成する日本人の認識自体が極めて重要な意味を有している。「歴史力」という言葉は評論家の櫻井よしこさんの造語だが,歴史力を磨く必要があるのではないだろうか。小・中・高校生にそれを磨く機会を与えるような良いテレビ番組がないかなと思う。
そして,その正しい歴史を学ぶことを前提とした番組にプラスして,時には小・中・高校生も「息抜き」の機会が欲しいのだろうと思う。そういう時には,テレビ東京系列の「ピラメキーノ」という番組がお勧めである。何となくであるが企画が面白い。「ダルい時に使おうだるだるEnglish」とか「おんなごころ!おかあさんといっしょ」などはどことなく面白い。「ダルい時・・・」のダルさんは若いのにあの体型。何とか食生活などを改善しないと成人病になってしまうだろう。このままだと成人病の「当選確実」というやつである(笑)。あとは,「・・・明日のピラメキーノ占い」も,星座ごとに幸運度のランキングが出るが,それぞれの星座にも男子と女子がいるにもかかわらず,男女いっしょくたで同じ順位であるところが面白い(笑)。
ただ,こういう面白い番組も,あくまでもこどもたちは正しい歴史観を持っているということが前提であるべきである。
恐らく雑誌だったと思うけど,そこに掲載されていた書評を読んで「日韓がタブーにする半島の歴史」(室谷克実著,新潮新書)という本を買った。これはとても説得力のある本だった。せいぜい200ページくらいの本だったが,古書の研究に立脚した論述であり,ある意味では目からウロコが落ちた。具体的にどんな内容の本なのかを紹介するには,この本の表紙カバー内側の次のような記載が最も端的であろう。
「古代日本は朝鮮半島から稲作などの先進文化を学び、国を発展させてきた-という〈定説〉は大嘘である。半島最古の正史『三国史記』には、新羅の基礎を造ったのは倭人・倭種、中国の『隋書』には、新羅も百済も倭国を文化大国として敬仰していたと明記されているのだ。日韓古代史の「常識」に異議を唱え、韓国の偏狭な対日ナショナリズムと、日本のあまりに自虐的な歴史観に歪められた、半島史の新常識を提示する。」
この本の意義と内容を要約すると以上のようなことになろう。実はこの本の元原稿の段階では本で掲載されたものの2倍ほどの量に及んでいたということだ。そこにはもっと古書の原典からの引用が豊富で,説得的な論述が展開されていたのだろう。
昨年の12月,当時民主党の幹事長だった小沢一郎は,中国の胡錦涛主席と会談した際には「こちらのお国(中国)に例えれば、解放の戦いはまだ済んでいない。来年7月に最終の決戦がある。人民解放軍でいえば、野戦の軍司令官として頑張っている。」などと恥ずかしくなるような迎合をしているし,その直後に訪れた韓国では,ある大学で江上波夫という学者の騎馬民族征服説を韓国人に披露してここでも迎合をしている。情けないというか,恥ずかしいというか,その容貌どおり醜悪である。
本来歴史学ないし歴史というものは,遺跡や古書などに基づいて史実そのものを客観的に研究する学問分野だと思うのだが,中国では特に近現代史,韓国では全般にわたって,史実そのものというよりも,政治や願望になってしまっている。そうしなければもたないような体制や民族意識なのかもしれない。さきほど紹介した本は,朝鮮半島の歴史を学ぶに当たっては,一読に値すると思う。古書の研究に立脚し,論述が説得的だからである。
あの薩長連合の立役者である坂本龍馬の命日がいつだかご存知だろうか。そう,11月15日である。では,かつて新撰組の参謀として活躍し,その後これと袂を分かって御陵衛士となった伊東甲子太郎の命日がいつだかご存知だろうか。そう,11月18日である。いずれも慶応3年(1867年)のことであり,龍馬と共に近江屋で襲撃された中岡慎太郎も結局は11月17日に死亡しているから,11月15日から18日にかけての僅か4日間で3名もの有為な人材が相次いで暗殺により落命しているのである。惜しまれる。
坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺したのが誰なのかについては,最も有力な説は,佐幕派の急先鋒であった京都見廻組の佐々木只三郎らというものである。そのほかには,薩摩藩説も有力である。結局,龍馬は佐幕派からも倒幕派からも恨まれる立場にあったからなのか。でも,言い換えれば,龍馬はそれだけ動乱の幕末にあって大きな仕事をしたからだとも評価できる。さらには,漫画家の黒鉄ヒロシさんは,龍馬暗殺について,何とその3日後に暗殺される伊東甲子太郎率いる高台寺党犯人説を主張する。新撰組を犯人に仕立て上げるための証言などの出所が高台寺党から出されていることなどが根拠になっているようだ。龍馬らを暗殺した真犯人の確定については,決定的な証拠の不存在,当時の様々な人間関係,政治力学が複雑に絡み合っていて,決め手がない。
伊東甲子太郎という人は,神道無念流をおさめた後,さらに北辰一刀流もおさめたほどの相当の使い手で,知的でもあり,尊王攘夷論では相当の理論家だったらしい。彼を七条油小路付近(近藤勇の妾宅のすぐ近く)で暗殺したのは新撰組隊士であることは間違いない。その理由は,伊東らが薩摩藩と気脈を通じ,新撰組の近藤らを暗殺して新撰組を勤皇倒幕へ向かわせようと画策していたからだそうだ。でも,伊東甲子太郎がこのような形で落命するのも,坂本龍馬や中岡慎太郎らの有為な人材と同じく,惜しい。伊東は,僕が何かしら親近感をもつ新撰組の山南敬助の切腹後,これを悼んで次のような歌を詠んでいる。
「春風に 吹きさそわれて山桜 ちりてぞ人に おしまるるかな」
いやー・・・,幕末あたりの歴史,人間関係,志士の思惑などはとても複雑だな。でも,その当時の歴史の流れや人物像について興味を持つ人が多いのも分かるような気がする。
粛清,何となくいやな言葉である。結構長いことかけて「マオ 誰も知らなかった毛沢東(上・下)」(ユン・チアン,ジョン・ハリディ著,土屋京子訳,講談社)という本を読んでいるが,この本の中にも至る所に粛清という言葉が出てくる。この本で記述されている個々の粛清は身の毛もよだつものである。粛清といえば,1863年(文久3年)の9月16日,季節的にはちょうど今頃であるが,新選組の芹沢鴨が内部で粛清されている。
数年前に京都旅行に行った時には,その現場となった八木邸に入り,割と生々しい柱などの刀傷を見た。芹沢鴨という人間は,その当時の新選組では近藤勇と双璧の筆頭局長であり,体躯もたくましく,弁も立ち,誰と張り合っても位負けしないような雰囲気をもっていたという。出自も,水戸藩の郷士の出であり,近藤等からは一目置かれていた存在だが,何せ素行が悪かった。大和屋焼き討ち事件はその最たるもので,直接はこれがきっかけで会津藩から粛清の命令が出たという。
その9月16日の夜は土砂降りの雨のだったようだが,芹沢鴨は配下の平山五郎とともに,土方歳三,沖田総司,山南敬助,原田左之助らに粛清されたのである。芹沢は,酒に酔ってもいたが,置いてあった机に躓いて体勢を崩した時に沖田から一太刀浴びた。芹沢とは倫ならぬ仲であった愛人お梅もこの時に命を奪われている。この粛清劇には,あの山南敬助も加わっているのだから,新選組が組織を盤石にして,脱皮を図るためにはどうしてもこの粛清が必要だったということであろう。
芹沢にとってみれば,無念の死であったろうが,その後の新選組の行く末を考えると,むしろその方が幸せだったという側面もあるだろう。芹沢鴨があの甲陽鎮撫隊の一員として少し間抜けな戦に加わっている姿は想像できないし,哀れだからである。
今回の総選挙では,自由民主党が国民から粛清された感じでもある。僕は,二日酔いしながらこのまとまりのないブログを何とか書いているが,あまり支離滅裂なことばかり書いていると,読者から粛清されてしまうかもしれない(笑)。でも,粛清が必要な時もあるのであろうけど,粛清って何度聞いてもいやな言葉だなあ(笑)。
5月30日の土曜日は,久しぶりにゆっくりと過ごすことができた。最近仕事では忙しいし,火曜日と金曜日はマタイ受難曲のための合唱練習。そして,先週は特に夜は飲む機会が多かった。そんな訳で土曜日はようやく自宅で骨休め。ぜんまいざむらいのDVDをゆっくりと堪能することもできた(笑)。
5月30日は,新撰組の沖田総司の命日である。享年27歳。慶応4年(1868年)のことだから,今から141年前のこと。天才剣士の名をほしいままにし,新撰組では一番組長を務め,撃剣師範で突きが得意だったようである。剣の腕前では,永倉新八(神道無念流免許皆伝),斎藤一(一刀流),吉村貫一郎(北辰一刀流免許皆伝),服部武雄(二刀流)らと並び称された。
数年前の大河ドラマ「新選組!」では藤原竜也が沖田総司役を好演していたし,そのほかの映画等でも,どちらかというと色白で美剣士のイメージになっている。でも,実際の沖田は,「新選組遺聞」(子母澤寛著)などによると,背が高く,いかり肩で,ほお骨が出て口が大きく,色黒だったと伝えられている。陽気で近所の子供たちともよく遊んでやっていたらしい。
確かに,27歳で病死するのは酷な運命ではあったが,僕はどちらかというとその後の新撰組隊士の行く末を考えると,結果的には良かった面もあったのではないかと思う。甲陽鎮撫隊の戦い方のように無様な経験をしなくて済んだし,何よりも戊辰戦争で分かるように,戦(いくさ)の質が違ってきており,もはや沖田の得意とする刀や槍による戦(いくさ)の時代ではなくなっていたのである。火力(鉄砲や大砲)の勝負の時代に突入していた。天才剣士であった沖田も,圧倒的な鉄砲等の武器の前では悲哀を感じざるを得なかったのだ。沖田の短い人生で最も輝いていた時代が,疾風のように現れ,疾風のように活躍し,疾風のように去っていった新撰組の最も輝いていた時代に一致する。
今日,2月23日は,新撰組の前身となった浪士組が初めて京都に到着した日であるし,奇しくもその2年後の同じ日に新撰組総長となっていた山南敬助が京都前川邸の西の出窓のある部屋で切腹した日でもある。
近藤勇の道場である江戸の試衛館時代から,近藤,土方,沖田らと行動を共にし,芹沢鴨一派の粛正にも重要な役割を果たした彼が,何故切腹する羽目になったのだろうか。その心の内は・・・。これまで何回かこのブログでも新撰組のことに触れてきた。新撰組や個々の隊士は非常に魅力的で好きなのだが,仮に僕が新撰組にいたとするなら,その組織内での立場などからすると,僕はやはり山南敬助タイプだとも思っているので,山南敬助の脱走,切腹の際の山南の心情が思いやられる。
仙台藩脱藩,学問もあり,北辰一刀流免許皆伝,温厚で人当たりがよく,組織内でもある時期までは近藤局長らに頼られるまでの存在だったのに・・・。思うに,山南敬助としては,尊皇攘夷思想が強く,自分が身を置いている新撰組に次第に違和感を抱いたか,あるいは身の置き所がなくなったと感じていたのだろう。というのも,池田屋事件にみられるように(既に病気だったのかもしれないが,山南敬助は参加していない),反幕的な動きをしていた長州藩士らをやたら取り締まっていた新撰組の活動が幕府の走狗のように山南には感じられたのだろう。伊東甲子太郎が参謀として迎え入れられた後には,その尊皇攘夷思想にさらに触発された面もあるし,ますます「総長」職がお飾りのように感じられ,身の置き所がなくなりつつあったと思う。
そして,決定的だったのは,新撰組の西本願寺への屯所移転問題だろう。これは長州藩ら反幕府勢力に好意的だった西本願寺を自己の監視下に置こうという土方らの意図があったが,山南はこれに明確に反対するも全く受け入れられず,「もはやこれまで」と感じて脱走に至ったのであろう。そこで,新撰組の局中法度に触れたとの理由で切腹を命じられた。山南は切腹して果てたが,その最後は非常に立派なものだったという。
ところで,山南敬助の考えていた尊皇攘夷とはどんな内容のものだったのだろう。これは全く根拠などはないし,想像に過ぎないが,恐らく坂本龍馬(「船中八策」)のような考え方,もはや完全攘夷というものではなく,薩摩や長州などの雄藩が結束し,西洋の文物をまずは取り入れ(魂まで洋化するものではない),国としての基盤を確立していくというようなものだったのではないか。いずれにしても,山南敬助は,新撰組隊士の中でも僕が興味深く感じる存在で,数年前の旅行では,京都の光縁寺にある彼の墓にもお参りをしてきた。そして,祇園でお気に入りの一銭洋食をちゃっかり2枚も食べてきた。
昨日,つまり2月8日は,新撰組の前身である浪士組が結成され,江戸から京都に向けて出発した日である。文久3年(1863年)というから,今から実に146年も前のことである。僕の場合は,数年前のNHK大河ドラマ「新選組!」をきっかけに新撰組に興味を持ったのだから,新撰組歴はそれほど古くはない。新撰組の歴史的な位置づけについてはいろいろな見方があるが(佐幕派としての活動がかえって倒幕・維新を早める結果となったなど),それぞれの志を立て,必死で白刃の下をかいくぐって奮闘した彼らには魅力を感じる部分も多々あるのだ。僕は好きだな。
さて,新撰組に関する本は数多く読んだが,やはり,子母澤寛の,いわゆる新選組三部作,「新選組始末記」,「新選組遺聞」,「新選組物語」は必読であろう。作者の子母澤寛の祖父も彰義隊の一員として上野戦争を戦い,転戦して函館五稜郭まで行ったのだし,子母澤自身,全国を歩き回って新選組隊士の生き残りや関係者に直接会って取材したという。三部作のうち,「新選組始末記」,「新選組遺聞」の2つは,全国で取材した内容に基づく「聞き書き」で比較的史実に近い内容だと思われるし,「新選組物語」はその名が示すように物語,創作であろう。
ところで僕は,新撰組に関する本を多数読んではみたものの,局長の近藤勇は副長の土方歳三をどのような存在として受け止めていたのだろうかという興味,関心もあった。でも,僕にはなかなかその辺りのことは解らなかった。ただ,土方歳三ファンには悪いが,仮に僕が新撰組隊士だったら,土方にはちょっと「引いてしまう」部分を感じただろう。前にもブログに書いたが,あえてタイプ分類をすると,僕は山南敬助タイプなのだ。
前置きが長くなったが,「新撰組物語」の最後の章である「流山の朝」の中に,さきほどの僕の疑問を解いてくれるような,ドキッとする箇所があった。この章は,もう官軍(直接の折衝役は薩摩藩の有馬藤太)に捕縛される直前の様子を描写したものだが,近藤が,身の回りの世話をしてくれる若い娘お秋に対し,土方に対する思いや心情を吐露する場面があった。その核心部分のみ引用すると(343項以下),
「わしは、京にあって、局長として如何なる我儘でも通る絶対の立場にありながら、何んとなく不自由な、何んとなく狭ッ苦しい、何んとなく息苦しい、言わば圧迫を感じていたのです。わしは、時々、そんな妙な窮屈を感じたので、何んの為だろうと、深く考えては見たけれども、どうしてもわからなかった。それが今朝、本当に、はっきりとわしにはわかったのだ。わしは、下の土方に事毎に敗ける、土方以下の人物だったのです。だから、ゆうべ、ああして土方と別れ別れになった。三十年の盟友と袂をわかって、わしは泣かねばならぬ筈でしょう。泣くのが本当です。それをわしはほっとした。そして、泣くべきわしが、はじめて、そこに己を見出し、自由なうれしさを味わい、何にかこう小鳥が籠を放されたような心地がして、本当に安心して、こんなに眠って終わったのです。わしは、心の中の敵、親しければ親しいだけに、深く食い込んでいた敵と離れたという事をはっきり知ったうれしさに、外の敵などはもう眼中にない。どうでもいいのだ。近藤が全く自由な一人の近藤をして、生きる事も死ぬ事も出来るうれしさ・・・」
これはあくまでも物語であって,近藤勇自身が語ったことではないが,全国を取材した上での「聞き書き」の名手である子母澤寛の深い洞察力に基づく描写であるだけに,説得力もある。僕のもやもやした疑問がある程度解け,我が意を得た瞬間でもあった。
新撰組は何しろ武闘集団だから,個々の隊士の評価に当たっては,「強さ」すなわち剣の腕も一つの基準になるだろう。そうしたときに,剣の腕の凄さという観点から強いて5人だけ挙げろとなると,次のような面々じゃないかと思う(これは強さの順ではなく五十音順)。沖田総司,斎藤一,永倉新八,服部武雄,吉村貫一郎。
ただ,局長の近藤勇の天然理心流は,刀術だけでなく,棒術,柔術,気合術などを総合した極めて実践的な剣法だったようで,彼は先に挙げたようなそうそうたる面々を統率していたのだから,彼が一番強かったという論も成り立つ。でも,ここではその論はひとまずおくことにする。さてさて,沖田,永倉,斎藤は新撰組の各組の組長を務め,剣術師範だったのだからその実力の凄さは言うまでもない。戊辰戦争が勃発した初期の段階で,薩摩藩が圧倒的な火力(鉄砲など)を駆使している中,永倉などは,副長の土方に要請されて弾丸が雨あられのように降る中に,果敢に斬り込みにいったというのだからその気の強さも凄い(また,永倉の曲がったことの嫌いな謹厳実直な性格も好き)。
ところで,服部武雄は結局は新撰組と袂を分かち,伊東甲子太郞率いる御陵衛士(いわゆる高台寺党)に属したが,その強さは半端じゃなかったらしい(二刀流で勇猛果敢)。
沖田より強かったという説もあるくらいだ。
また,吉村貫一郎は,浅田次郎の「壬生義士伝」の主人公であり,創作の部分が相当あるらしいのだが,この人物も相当に腕が立ったように描かれている(映画では「新選組で一番強かった男」というふれ込みまである)。僕は,この「壬生義士伝」という小説を読んでいて不覚にも泣いたことがある(同じ著者の「輪違屋糸里」を読んだ時はアッケラカンとしていたのに・・。)「壬生義士伝」にはそれくらい感動的な部分がいくつかあり,吉村貫一郎の生き様に大いに感動した。腕は立つし,学問もできる。かげで「守銭奴」と誹られながらも,なりふり構わず故郷(南部藩)に置いてきた妻子を必死で守ろうとするのである。いいなぁ,こういう人は・・・。
何気なく新聞の雑誌広告欄を見ていたら,「月刊現代」(最終号と書いてある)の対談企画として「男たちの魅力『新選組』最高の隊士は誰だ」とあった。
そうだなぁ,いつどんな時でもこの企画は成立するよなと思った。何しろ,激動の時代が生んだ新撰組の華々しさと悲劇性,隊士の面々の途方もない魅力と謎,どれをとっても興味深いからである。
さて,「最高の隊士は誰だ」となると,大方の人は土方歳三をまず挙げるのだろうし,近藤勇,沖田総司なども有力なんだろう。でも僕は,このあまりにも魅力的過ぎる存在(団体)の中で,「最高」は決められないのではないかと思う。不遜な言い方だけど,知れば知るほど決められなくなってくるのが普通だ。
ただ,自分だったらどのタイプに近いのかなということからすると,僕は山南敬助か伊東甲子太郎に近い存在だったのではないかと思う(ビジュアル面は別として。)。数年前の大河ドラマ「新選組」は毎週楽しみに見ていたが,山南敬助の「決断」に至るまでのいきさつや切腹場面は,自分の姿を投影させてみていた。その後に家族と京都旅行に行った時は,当然のように光縁寺の山南敬助の墓参りまでしちゃったのである。
墓参りで思い出したが,僕は2年前の家族旅行で,会津若松などに行き,同市内の阿弥陀寺にある斎藤一の墓参りもぬかりなくやった(墓碑銘は「藤田五郎之墓」だったと思う。)。そう,僕は隊士の追っかけなのである。この斎藤一という人物も極めて謎めいていて興味がある。相当の手練れであり,多くの修羅場をくぐり,その後西南戦争にも従軍している。大河ドラマではオダギリジョーが格好良く斎藤一役をやっていたが,写真を見る限り,実物はフランケンシュタインを少し細くしたような感じである。(続く)