世界は広いし,ノンフィクションの分野でも世の中には本当に傑出した作家がいるものだとつくづく思いました。ダグラス・マレーというイギリスのジャーナリスト,政治・社会評論家,ノンフィクション作家のことです。
「大衆の狂気-ジェンダー 人種 アイデンティティ」(ダグラス・マレー著,山田美明訳,徳間書店)という本を読んでその感を深くしました。この本の高い評価については,目次の前に掲載されている識者などからの様々な賛辞を目にすれば分かると思います。いくつかご紹介しましょうか・・・。
「本書の内容を知らないでいられるだろうか?実際、たったいま読み終えたところだ。こんな本の存在を知って、読まないでいられるわけがない」(トム・ストッパード【イギリスの劇作家】)
「マレーの最新刊は、すばらしいという言葉ではもの足りない。誰もが読むべきだし、誰もが読まなければならない。ウォーク(訳注/社会的不公正や差別に対する意識が高いこと)が流行するなかではびこっているあきれるほどあからさまな矛盾や偽善を、容赦なく暴き出している」(リチャード・ドーキンス【イギリスの動物行動学者】)
「著者は、誰もがすでに何となくわかっているが言い出しにくいことを言う術(すべ)に長(た)けている(中略)主張も、立証も、視点もいい」(ライオネル・シュライバー【イギリス在住のアメリカ人作家】)
「アイデンティティ・ポリティクスの狂気についてよくまとめられた、理路整然とした主張が展開されている。興味深い読みものだ」(タイムズ紙)
「マレーは、疑念の種をまき散らす社会的公正運動の矛盾に切り込み、大衆の九五パーセントがそう思いながらも怖くて口に出せないでいたことを雄弁に語っている。必読書だ」(ナショナル・ポスト紙(カナダ))
ざっとこんな具合です。私もこの本を読破して,ダグラス・マレーのこの労作については見事な筆致,正鵠を射た主張,十分な立証だったと思います。いわゆるLGBTや人種,そしてジェンダーをめぐる議論については,マスコミ,社会あるいは大衆の同調圧力が極めて強く,アイデンティティ・ポリティクスによる政治活動には疑問すら差し挟むことができないかのような言語空間が形成されていて,極めて窮屈だと感じておりました。正にこの作家は,「疑念の種をまき散らす社会的公正運動の矛盾に切り込み、大衆の九五パーセントがそう思いながらも怖くて口に出せないでいたことを雄弁に語って」くれたのであり,私は快哉を叫んだのです。
実はこのノンフィクション作家の凄さを知ったのは,前作と言っていいのかな,「西洋の自死-移民・アイデンティティ・イスラム」(ダグラス・マレー著,中野剛志解説,町田敦夫訳,東洋経済新報社)という大著を読んで深く感動したからです。やはりこの労作も見事な筆致,正鵠を射た主張,十分な立証に基づくものでした。私は密かにマレーの次作を期待していたのです。彼が当代一流の傑出したノンフィクション作家であることは疑いないでしょう。
皆様,新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。今年こそはこのブログの更新頻度を高めていきたいと思います(笑)。
実は年末年始にかけて,ある刑事事件の控訴趣意書を完成する必要に迫られており(提出期限は令和4年1月5日),精神的には重圧感を覚えていたのですが,それも1月4日には何とか完成し,5日には無事高等裁判所に提出完了と相成りました。期限を徒過しますと,それだけで控訴棄却になってしまうので現在の解放感は半端ではありません。
相当に目が疲れてはいたのですが,食い入るように「雲上の巨人 ジャイアント馬場」(門馬忠雄著,文藝春秋)という本を読破しました。どうしても読まなきゃと思った理由を述べれば,産経新聞の書評欄で藤井聡さん(京都大学大学院教授,評論家)が次のような熱い,熱い書評を書いておられるんだもの・・・(笑)。
「評者が青年の平成の頃、ジャイアント馬場といえばバブル崩壊以後、底が抜けたように崩れ去っていく日本社会の中にあって古き良き日本を象徴する数少ない巨大な存在だった。・・・馬場さんこそがこの戦後日本で急速に絶滅しつつある『古き良き日本人』だったのであり、戦勝国・米国に決してこびず文字通り対等に渡り合うことのできる『誇り高き日本人』だったというところにあった。・・・馬場さんを好きだった人はもちろんのことあらゆる世代の人々もまた、本書を通して馬場さんの佇(たたず)まいに触れてみてはいかがだろうか。決して損はない。馬場さんはそれだけの人物なのだ。そんな本書をぜひ、一人でも多くの日本の皆さまに手に取っていただきたい。評者はそう、切に願う。」
ねっ,とても熱いでしょ(笑)。私はすぐに購入して詠んでみました。やはり損はありません。私もこれまでのところ人生の約半分を「昭和」で過ごしてきた人間ですが,やはりジャイアント馬場という人は長嶋茂雄と並んで国民的大スターであったし,やはり昭和の古き良き人なのです。筆者(門馬忠雄さん)は,かつて東京スポーツの記者であり,プロレス担当もとても長く,プロレスの巡業先や仕事面全般,そしてプライベートでもジャイアント馬場と深い親交を続け,その期間は35年の長きにわたっているのですから,「馬場さんらしさ」全開のエピソードの一つ一つ,そして馬場さんの人となりを読者に伝えるのに最適な人です。
「なあ、モンちゃん、あんまり飲むなよな・・・・・」
これは生前,馬場さんが筆者にその体を心配してたびたびかけた言葉で,馬場さんの思いやり,やさしさが窺えるエピソードですが,そんなシーンが盛りだくさんです。高校を中退して読売巨人軍に入団したのですが,二軍暮らしが長く,その3年目に視力が急速に衰え,脳腫瘍の手術をするために入院せざるを得なくなった。その入院までの間,馬場さんは,巨人軍の合宿所近く,多摩川の土手の河原で,
〽俺は河原の 枯れすすき・・・と,「船頭小唄」ばかりを泣きながら何度も繰り返し歌っていたというエピソードなどもあります。
それでも人生どう転ぶか分かりません,力道山に見いだされてプロレスの世界に入り,その後の大活躍,国民的ヒーローぶりはみなさんご存知のとおりです。
それにしても馬場さんは,プロレスラーとしては死の直前まで現役を貫いたことになります。そのこなした試合数たるや,5758戦というから,正に鉄人であり,私はこういう「気は優しくて力持ち」という存在に憧れます。
この本の帯には次のような文句が記載されています。
「僕たちは、馬場さんが好きで好きでたまらなかった。」
勇気を与えてくれる本ですよ。是非ご一読を!
「人間臨終図鑑 第1巻~第4巻」(山田風太郎著,徳間文庫)という本がありますが,私は最近これを読み始め,昨日第3巻目に入ったところです。産経新聞の書評欄にこの本が紹介されていたので,直ぐにこの本を買い求めて読み始めたという訳です。
どの巻も440ページ前後ありますので,しめて1760ページほどになります。相当に読みごたえというものがありますよ。「○○歳で死んだ人々」・・・などと区分され,古今,洋の東西を問わず,著名人(政治家,軍人,武将,作家,俳人,音楽家,画家,俳優,僧侶,思想家(哲学者),科学者,スポーツ選手,芸能人,犯罪者などなど)の略歴や業績,エピソード,今際(いまわ)の時が描写されています。
この本の特徴を言い表すのはなかなか難しいのですが,巻の背表紙の短い文章をご紹介した方が分かりやすいかもしれません。
「戦後を代表する大衆小説の大家、山田風太郎が、歴史に名を残す著名人(英雄、武将、政治家、作家、芸術家、芸能人、犯罪者など)の死に様を切り取った稀代の名著。15歳~49歳で死んだ人々を収録」(第1巻背表紙)
「偉人であろうが、名もなき市井の人であろうが、誰も避けることができぬもの・・・・・それが死。巨匠が切り取った様々な死のかたちは、読む者を圧倒する。50歳~64歳で死んだ人々を収録。」(第2巻背表紙)
「荘厳、悲壮、凄惨、哀切、無意味。形はどうあれ、人は必ず死ぬ。本書のどの頁を開いても、そこには濃密な死と、そこにいたる濃密な生が描かれている。65歳~76歳で死んだ人々を収録。」(第3巻背表紙)
第4巻の背表紙は省略しますが,この巻には77歳~121歳で死んだ人々が収録されております。まあ,いろいろな死がありますが,著者(山田風太郎)の言葉を借りれば,「どんな臨終でも、生きながらそれは、多少ともすでに神曲地獄篇の相を帯びている。」とも言えますね・・・。ダンテの「神曲」です。
でも,地獄には行きたくないなあ(笑)。「神曲」では,地獄への入口の門には「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘文が刻まれており,怖いどころの騒ぎではありませんからね。
誰にでも平等に死は訪れますが,その死に様について自分の場合はどうだろうかと案じてしまいます。この本を読むといろいろと考えさせられます。ジタバタして見苦しく振る舞うのか,それとも従容として死出の旅につくのか。できれば後者であって欲しいと思います。
自民党総裁選も終わり,新内閣が発足しましたね。その総裁選の結果ですが,河野太郎氏が選出されなかったのは何より不幸中の幸いでした(笑)。くどいようですが,こういう人が日本国の首相になってはいけない。もっとも,実はかつては,あろうことか鳩山由紀夫や菅直人がそういう地位を占めたこともある訳ですから,連綿たる日本国の歴代宰相の歴史としてはもう失うものがないのですがね(笑)。
さて,恐るべき世論調査の結果からすれば,先の総裁選では党員・党友票で圧倒すると思われていた河野氏が第1回投票では1位になるのは確実と予想されていたのですが,ふたを開けてみたら2位に終わりました。さらに,河野氏は党所属国会議員票では高市早苗氏にも軽々と抜かれ,3位に甘んじました(86票に過ぎません)。下馬評とは大いに相違し,河野氏サイドとしては,さては投票の約束を取り付けていた人々にも一部裏切られてしまった,寝返られてしまったというのが実情かもしれません。
それにしても総裁選の投開票の翌日,9月30日付けの産経新聞「産経抄」の内容はとても面白いものでした。裏切り,寝返りという文脈で,菊池寛の「入れ札」という短編小説に言及していたのです。興味を持ったので,どんな小説なのか調べてみました。以下のとおりです。
代官を斬り殺した国定忠治は捕縛から逃れるために,上州・赤城山から榛名山を越えて,信州へ下っていくべき運命にありました。そう,「赤城の山も今宵かぎり」の国定忠治です。一行は親分の忠治を入れて12人。子分は11人ですが,全員連れて行く訳にはいかない。忠治としては,3人ほどの子分を連れ,その他の子分達にはそれなりのお金を与えて銘々思い通りに落ち延びさせてやりたかった。でも忠治としては,本当は共にしたい意中の子分(3名)はいたのだが,自分の口からはその名を言い出せない。子分達の意見を聞くうちに,忠治は「入れ札」という手段を思いついた。
その「入れ札」のルールは,本当に忠治(親分)の御供としてふさわしい子分の名1名をそれぞれ子分達に札に書かせ(自分の名を書いてはいけない),いわば自民党総裁選のように投票し(笑),札数の多い者から上位3人を連れて行くというもの。その方法を「やばいなー。いやだなー。」という気持ちで聞いていたのが,子分の中では古参,年長で第一の兄分とされていた稲荷の九郎助だった。彼は一応他の弟分からは「阿兄!(あにい)」と立てられてはいたものの,実際には人望がなく内心では軽んじられていたし,そのこと自体は九郎助も自覚していた。九郎助としては,やはり古顔の弥助からは「好意のある微笑」を投げかけられ,自分に1票投じてくれるとしたらこの弥助くらいかなと半ば諦めていた。でも自分のプライドを保つため,そして他のライバル(人望のある浅太郎)に対する嫉妬心から,思わず「くろすけ」と自分の名前を書いた(掟破りの自己投票)。
さて,いよいよ開票・・・。子分から入れられた11枚の札は,浅太郎に4枚,分別盛りの軍師・参謀格である喜蔵に4枚,怪力の嘉助に2枚,九郎助に1枚という結果だった。お供をする子分は忠治の意中どおり,浅太郎,喜蔵,嘉助に決定した。九郎助としては,「好意のある微笑」を投げかけた弥助の1票と自分で入れた1票で何とか選ばれることを期待したが,実際には弥助からも裏切られ,寝返られたのだ。その悔しさと自分で入れた後ろめたさや卑しさの気持ちでいたたまれなくなった。
忠治は3人の子分を連れて信州方面へと出発。その他の子分は銘々の方角へ。九郎助としては秩父の縁者を頼ることにしてトボトボと歩き始める。そうしたところ,あろうことか裏切った弥助が九郎助に同道を頼み,その道中,述べた言葉が九郎助を激怒させ,思わず殺意を覚えさせたが,九郎助はグッと我慢しなければならなかった。弥助は「親分があいつらを連れて行くのは納得できねえ。11人のうちでお前(九郎助)の名前を書いたのはこの弥助1人だと思うと、奴等の心根がわからねえ」と述べたのである。大嘘(笑)。
無記名投票なので(笑),九郎助としては弥助が九郎助に1票入れたと大嘘を言っていること,裏切ったことを暴くことができません。それを暴き,立証するには九郎助自身がルールを破って「くろすけ」と自分に1票を投じたことを告白するしかなく,それも自分の恥をさらすことになり,ますます惨めになってしまうからです。
菊池寛の「入れ札」はそんなお話でした。人間の弱さ,醜さを浮き彫りにしたどこか切ない作品です。
本当に桜という花は美しいですね。思わず足を止めて見惚れてしまいます。昨日の朝の徒歩通勤の途上でも,誠に見事な桜の花に見とれてしまいましたが,「ああ,これが桜吹雪というやつだな。」と独り言。強い風に吹かれて桜の花びらが本当に吹雪のように降りかかってきました。美しいやら寂しいやら。
桜という花が私たちの目を楽しませ,気分を和ませてくれる時間も本当に短く,散ってゆく花びらを目にすると寂しくなります。でも,日本人が古来桜という花を愛で,心を動かされてきたのは,その美しさだけが理由ではなくその散り際の潔さも私たちの心を打つからでしょうね。自然の呼び声に応じていつでも散ってゆく潔い覚悟があるのです。
漂泊の俳人,井上井月の俳句は本格的で正統派の部類に属し,私は本当に井月の句が好きです。井月の生涯に興味を持ち,またその句の魅力に惹かれ,家族とともに井月の終焉の地である伊那谷まで出かけたこともあります。
その井月にも当然のことながら桜を詠んだ句,例えば次のような秀句があります。
「翌日(あす)しらぬ身の楽しみや花に酒」
「翌日(あす)しらぬ日和を花の盛りかな」
井月は漂泊の俳人で自分の家がありませんし,厳寒,酷暑という季節によっては本当に生命の維持に関わるような過酷な境涯を過ごしました。ですから,本当に翌日(あす)を知らぬ身だったのです。だからこそ面前の美しい桜を楽しみながら大好きな酒をくらう。また,二つ目の句は「翌日(あす)しらぬ」が「日和」にかかっていますから,天候によっては雨風で花びらがいつ散ってもおかしくない桜の花の短い命を表現し,かつ,自分も所詮は「翌日(あす)しらぬ」存在だということだと思います。
だからせめて,面前の美しい桜を楽しみながら大好きな酒をくらうことにしよう,てなもんです。
また,俳句ではなく花(桜)を詠った和歌で私が特に好きなのが,西行法師の次の歌です。
「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの望月のころ」
さあ,今晩も一杯やるとしましょうか。3月31日(ユリウス暦では3月21日)生まれのバッハの名曲を聴きながら・・・。
私はごく最近まで,ノンフィクション作家の関岡英之さんが亡くなったことを知りませんでした。とても驚いたのと同時に,何か寂しいような,極めて大きな喪失感を覚えました。私は,著述を生業にしている方々の中で,この関岡英之さんと渡辺惣樹さんのお二人はかねてから特に注目し,「ああ,良い仕事をなさっているな。」と敬服しておりました。ジャンル的には関岡さんはノンフィクション作家,渡辺さんは歴史家という分類になるのではないかと思います。
関岡さんは昨年,虚血性心不全にてご自宅で亡くなったとのことですが,全く知りませんでした。彼の著作の内容の素晴らしさは言うまでもありませんが,特に感動し目からウロコが落ちる思いをしたのは,「拒否できない日本-アメリカの日本改造が進んでいる」(文春新書)と「帝国陸軍見果てぬ『防共回廊』-機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略」(祥伝社)の二冊です。これらは必読の書です。
まだお若く,もっともっと良い仕事をして欲しいとかねてから思っていたのに,返す返すも残念です。あるサイトの記事によりますと,2011年に奥様をガンで亡くされた後は一人でお子さんを育てられ,完璧を期する仕事のことなどもあって心労が重なったのかもしれません。
私は,小泉内閣が当時さかんに「構造改革」を連呼し,劇場型でしかも俗耳に入りやすいワンフレーズ・ポリティクスで抵抗勢力を徹底的に排除し,「構造改革」と称して郵政民営化を進め,そして会社法を次から次に改正し,弁護士を大量増員するなどの方向付けをしていました。先学菲才の私は,当時,「構造改革」の意味も目的も分からず,かと言って,置いて行かれるのはいけないので必死に改正会社法を勉強しました。
この「構造改革」なるものの背後にあったのがアメリカから一方的に突きつけられる「年次改革要望書」だったのであり,当時の政府はこれに唯々諾々と従っていた訳です(今もですが・・)。そのような背景事情を余すところなく暴いたのが,関岡さんの「拒否できない日本-アメリカの日本改造が進んでいる」(文春新書)という本でした。今,この本を読み返しております。「構造改革」なるものの本質がよくわかります。小泉内閣時代,アメリカが商売をし易くなるように,あたかもそのお先棒を担いでいたのが竹中平蔵という大臣です。関岡さんは慶應義塾大学法学部の出身ですが,仄聞するところによると,彼は生前「竹中平蔵が慶應教授でいる限り,決して慶應の校舎内に足を踏み入れない!」と宣言されていたようです。愛国心が強く,俗っぽい人を嫌悪し,潔癖な人だったのでしょう。
「帝国陸軍見果てぬ『防共回廊』-機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略」(祥伝社)という本も,誠に素晴らしい著作です。くどくなりますが,もっともっと素晴らしい仕事をして欲しかった。
心からご冥福をお祈りいたします。合掌。
日曜の産経新聞には必ず書評が載っています。先日の書評欄には,「この世の景色」(早坂暁著)という本の書評を,脚本家の小林竜雄という方が書いていました。
1966年,まだ私が小学生の頃,TBSのテレビ番組としてあの忘れもしない「真田幸村」というドラマが放送されていました。毎週月曜日の午後8時から放送されていまして,それはそれは約1年間にわたって私はこのテレビドラマに熱中しておりました。是非もう一度見たいものですが,その多くの脚本を早坂暁が書いていたのです。
早坂暁という脚本家は,お遍路道にあった商家の出で,幼い頃からお遍路さんの姿に接していたためか,ホームを持たない「さすらいの人間」に終生こだわったということです。
「咳をしても ひとり」
これはあの種田山頭火と並び称せられる非定型自由律俳句の尾崎放哉の有名な句ですが,この尾崎放哉も「さすらいの人間」でした。書評によれば,早坂暁は亡くなった渥美清との強い絆があったそうで,学生のころに浅草の銭湯で,まだ無名だった一つ上の渥美清と知り合ってからはその死に至るまで深い交友があったそうです。そして,「寅さん」シリーズで人気を博していた渥美清も,早坂暁に本当は尾崎放哉をやりたいと提案していたそうです。しかしながら,病気などの事情で実現しませんでした。そして今ではその早坂暁という脚本家も亡くなりましたが・・・。
私が普段親しくお付き合いさせていただいている元女優のTさんと,先日鮨屋でご一緒しました。カウンターで隣り合わせになったので,「早坂暁という脚本家をご存知ですか。」とTさんに尋ねました。私は何も知らず,その日の朝に読んだその書評のことを元女優のTさんに話したかったのです。
そうしたら,Tさんから意外な言葉が飛び出したのです。「もちろん知ってますよ。私の芸名の名付け親ですもの。」と仰ったのです。私はびっくりしました。確かにTさんは,かつてTBS系の「七人の刑事」というドラマに出演したことがあったと聞いておりましたが,その脚本も早坂暁が書いていたのです。脚本家の早坂暁は,Tさんの本名から一文字,またTさんの出身校の名称から一文字を取って,芸名を付けてくれたそうです。
「この世の景色」(早坂暁著)という本を二冊注文し,早速読みたいと思いますし,一冊はTさんに進呈したいと思います。
明け方にぼんやりと目を覚ました時は,雨が滴る音が聞こえたのですが,出勤の時には一面に青空が広がっておりました。真夏以外の気候の良い季節は,私は徒歩出勤をしているのですが,ここ数日の間は美しい桜を観るために徒歩経路を変えております。
自宅近くの小学校と,事務所近くの小学校にはいずれも見事な桜の木が多く植えられており,ソメイヨシノの本当に美しい姿に見惚れながら歩いております。思わず足を止めてしばし佇むこともあります。そして青空に映える桜の姿の美しいこと。日本という国に生まれて本当に良かったと痛感します。
昨日はうちのカミさんは,娘の幼稚園時代からのお友だち(母親仲間)と一緒に,長野県の高遠の方へバス旅行に出かけました。結構寒かったようで,残念ながらお目当ての高遠の桜は満開前の状況だったようです。
桜という花は,昔から日本人にとっては特別な存在だと思われます。毎年桜の美しい姿を目にしますと,しみじみと何かを感じるのではないでしょうか。
「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」
この歌は在原業平が詠んだ歌で,古今和歌集にも,そして伊勢物語第八十二段「渚の院」にも収められております。この歌ほど,日本人の桜に対する思いを率直に,そして見事に表現したものはないのではないかと思います。この歌の大意は,この世の中に全く桜というものがなかったなら,春を過ごす人々の心はどんなにかのどかであることでしょう,というものです。
確かに,冬の厳しい寒さも弛み,春という季節は徐々に暖かくなって人の心もどこかのどかになってゆくものです。でも桜のことを思うと,「もう桜は咲いたかしら。」,「本当に美しい。今年も桜を観ることができた。」,「来年もこのように桜を観ることができるだろうか。」,「ああ,この雨風で今年の桜ももう終わりかな。」,「ああよかった,まだ咲いている。でもあと数日か・・・。」,「葉桜になっちゃった。すこし寂しい。」などなど,桜というものは我々にそんな思いを抱かせるのです。
桜というものがあるために心穏やかでなく,桜というものは何か人々の心を騒ぎ立てるのです。桜という存在を思う時,やはり業平のこの歌ほど的確なものはありません。
そして西行の次の歌も誠に素晴らしく,私はとても好きなのです。
「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」
このブログでもこれまでに何度かお話ししたことがあるのですが,江戸末期から明治20年にかけて優れた俳句作品を残した井上井月という俳人がおります。私などは井月に憧れて,家族と一緒に井月の終焉の地である伊那谷まで出かけたことがあるのです。
芥川龍之介も高く評価し,あれほど優れた作品を残した井上井月も,実は下島勲という人の熱意と尽力がなければ,これほど世に知られることはなかったかもしれません。下島勲(俳号空谷)は,伊那谷出身の医師であり,幼少期には実際に井月と接したことがありました。その下島勲は,井月の書き残した句を収集しようと思い立ち,ついに大正10年に「井月の句集」を出版するに至るのです。その跋文は友人である芥川龍之介が書きました。下島勲という人物が,なぜ労力と費用を惜しまずにこのような行動をとったのか・・・。それは彼が幼少期に井月に対してなした過ちの記憶,負い目が心の奥底に横たわっていたからです。換言すれば,心にたまった澱(おり)のようなものが彼をしてそうさせたのでしょう。そのあたりの描写が,「井上井月伝説」(江宮隆之著,河出書房新社)という本の中にありますので,少し引用してみましょう。下島(俳号空谷)と芥川のやり取りです(同書10~11頁)。
つまり空谷と芥川は、隣人であり、友人であり、尊敬し合う同志であった。
「自慢で言うわけではありませんがね、龍之介さん。伊那谷には、結構風流の分かる人がいたのです。私の父親という人もそういう田舎の人間でしたが、風流を解する一人でした。ですから、井月さんに宿を貸し、酒食を与え、その代わりに書なんぞを書かせて満足するような人だったのです。井月さんはちょくちょく私の家にやってきました・・・・」
まだ尋常小学校に上がる前の空谷は、時々やってきては祖母が出してやった酒をうまそうに飲んでいる井月や、離れに宿泊しては布団に虱を撒き散らして母親を愚痴らせた井月を見て育った。
「私よりふたつみっつ年上の連中と一緒になって、井月さんをからかったり、馬鹿にしたりしたことがありました。その頃の私たちの目には、井月さんは単なるこじきとしか映りませんでしたから」
やがて悪たれ坊主どもは、井月がいつも腰にぶら下げている瓢箪(これには井月は与えられた酒を入れていた)目掛けて石を投げ付けた。
子供である。一人がやると面白がってみな同じことをする。だんだんエスカレートして、石の大きさも子供が投げるとはいえ、こぶしほどの石になった。
「私も、こじき坊主め、くらいの気持ちで仲間の悪たれと一緒に石を投げたんです。それが・・・」
誤って井月の頭に当たった。
「ぼこっというような嫌な音がしましてね、私は投げ付けておいて、あっと思ったんです」
芥川が、ほうっと言いながら腕組みをしたままで空谷を見つめた。
「やがて井月さんの後頭部から真っ赤な血が流れ出てきました・・・ところが」
芥川は身を乗り出して、空谷の次の言葉を待った。
「井月さんは振り向きもしないで、いつもと変わらない足取りで、とぼとぼ歩いていくのです。血の流れ出るに任せたまま・・・」
「それで空谷先生、どうしました?」
「どうにも出来ません。ただ」
「ただ?」
「恐ろしかった。それも非常な恐ろしさでした。身の毛がよだつ、とはあのことです。私はもう後ろも見ないで一生懸命逃げ帰りました。あの時、私は子供心にも井月さんの何かを感じたんでしょう。それが負い目にもなり、逆に井月さんへの敬愛にもつながっているのです・・・」
「空谷先生、よく分かります。分かります。井月の胆力が、目に見えるようです。そして空谷先生の心の裡も」
下島勲という人物が労力と費用を惜しまずに「井月の句集」を出版し,その後も広く井月の顕彰などに務めたのは,彼が幼少期に井月に対してなした過ちの記憶,負い目が心の奥底に澱のように横たわっていたからです。
私はたまに,井上井月の味わい深い,情趣豊かな,その句から自然にその光景を思い起こさせるような数々の秀句を味わっております(「井月句集」(復本一郎編,岩波文庫))。
話はガラッと変わりますが,私にも心の奥底に澱のように横たわっている苦い思い出があります。私は,焼きそばの上に添えられた目玉焼きを食べるのが何よりの楽しみなのですが,同業の女性弁護士に知らぬ間に食べられてしまった苦い経験があります(笑)。その日は,二次会か三次会で5,6名でそのお店に行ったのですが,席の位置からしてその女性弁護士と私で焼きそば一皿を分け合って食べるような感じでした。
ところが,話に夢中になっていた私がふと焼きそばの方に目をやると,お目当ての目玉焼きが忽然と消えていたのです。全く油断も隙もありません(笑)。執念深いと揶揄されつつも,そのことが今でも心の奥底に澱のように横たわっております(笑)。
先日の午後4時少し前でしたか,いつものかばんを持ってタクシーに乗り込もうとしましたら,もう全然鳴きもしない力のない蝉が私のかばんの先に停まったのです。じっと私の顔を見つめていました。この蝉は,おそらくは今わの際にあったのだと思います。可哀そうだとは思いましたが,蝉を車内に持ち込むわけにもいかず,そっと手で払いのけてやりました。長い長い土の中での生活の後,2週間ほど声の限りに鳴いてこの世を去るのでしょう。まだ暑い日が続きますが,夏もそろそろ終わりに近づいているのだなと感じました。
8月8日は民俗学の先駆者ともいうべき柳田國男の命日だそうですが,奇しくも昨日,「遠野物語」と「遠野物語拾遺」を読み終えました(大和書房の若緑色の装丁の本)。大変に読みごたえがありましたし,民俗学への興味も高まりました。正確に言えば,民俗学という学問そのものよりも民俗学が扱う分野,世界,特に民間伝承,伝統,年中行事,あらゆる自然に神が宿るとする昔からの日本人のものの捉え方などに興味を覚え,そして何かしらこういった世界には郷愁というものを感じるのです。
神隠し,河童,座敷童(ザシキワラシ),オシラサマやオクナイサマ,山姥伝説,いろいろな妖怪,それにいわゆる「虫の知らせ」のような不思議な現象などなど,独特の世界が展開されていますし,興味深い民間伝承にも様々なものがあります。東北と沖縄で似たような話がありますし,それはほんの一例であって,日本全国に似たような内容の民間伝承があります。こういった民間伝承や不思議な現象は,古くは「日本霊異記」の世界を思い起こさせます。
遠野物語の序文は誠に名文であり,柳田は「国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。此書の如きは陳勝呉広のみ。」と述べております。みなさんも,一度戦慄してみませんか(笑)。そして,これはウィキペディアからの受け売りですが,ヨーロッパでは1000年以上のキリスト教文明と民族大移動,そして近代以降の産業革命の進展のためフォークロア(民間伝承,民俗資料)の多くが消滅ないし散逸してしまっているのに対し,日本ではそのようなことがなく現実のいたるところに往古の痕跡が残っており,フォークロアを歴史資料として豊かに活用できる土壌があります。柳田民俗学は,このような民間伝承の歴史研究上の有効性を所与の条件として構築されたものなのです。
なお,私は宮本常一の「忘れられた日本人」(岩波文庫)を読んでいたく感動したことがあり,それ以降はこの宮本常一の民俗学にも大いに興味をもっております。柳田國男が,民俗学研究者として漂泊民や被差別民,性などの問題に対する言及を意図的に避けているのとは異なり,宮本常一はこれらの分野にも広範に研究対象を広げ,さらにフィールドワークを徹底していたため,これまた本当に素晴らしい研究,著作なのです。
柳田國男と宮本常一,一読をお勧めします。