昨夜は,少しの間ついにエアコンをつけて寝ました。5月なのに日中は32,3度まで気温が上昇したそうです。いやだなー。やはり今年の夏も暑くなりそうで・・・。今年の夏,ちゃんと越せるでしょうか(笑)。
さて,昨日の朝刊に作家の西村滋さんの訃報記事が載っておりました。91歳。心からご冥福をお祈りいたします。このお名前を見て,すぐに思い出しました。あの「お菓子放浪記」の作者なのです。私は大学生の時にこの作品に接し,いたく感動したことを今でもはっきりと覚えております。
私の記憶に間違いがなければ,確か家庭教師先のお母様からこの本をお贈り頂いたと思います。そのお母様もこの「お菓子放浪記」という作品に感動され,私に勧めてくださったのです。本当に素晴らしい作品でした。その当時私も,新たにこの「お菓子放浪記」を書店で別に買い求め,他の人に勧めた記憶もあります。この作品は6歳で母と,9歳で父と死別して孤児になった西村滋さんの自伝的作品です。
もう一度読んでみたいと思います。この本は1976年の全国青少年読書感想文コンクールの課題図書に指定されたほどの作品ですから,当時の教育も捨てたものではないなと思います。みなさん,ぜひ一度読んでみてください。そして,お子様がいらっしゃるなら読ませてあげてください。読後の深い感動は保証されています。
この「お菓子放浪記」という名作で思い出しましたのは,もう7,8年前になりますか,新聞の書評で読んでみたいなと思い,実際に読んでこれまた深い感動を覚えた「10歳の放浪記」(講談社)という本のことです。上條さなえさんという児童文学作家の作品ですが,これも自伝的小説なのです。著者は,10歳の時に家庭の事情で1年間学校に行かずにホームレスとして暮らし,その後に親から離れて児童養護施設で暮らしたというものです。その記述の一つ一つがとても切なくて,そして人の温かさが感じられて,これまた本当に素晴らしい感動的な作品なのです。泣けて来ますよ。これもぜひ一読を。
飽食の時代となって久しく,子供たちもスマホを持ったり,暇さえあればゲームをしたりしておりますが(笑),こういった放浪記を読んで今の境遇の有り難さを感じて欲しいものです。私も含めてのことですが。
秋雨です。春雨もそうですけど,私は雨はそんなに嫌いではありません。雨だと何かホッとする感じもします。雨ですと,闘争的な気分が少し和らいで,精神的にもしっとりしてくるのですよ。
自律神経は交感神経と副交感神経とのバランスで成り立っていますが,雨の時は闘争的な交感神経優位の状態から,リラックスした副交感神経優位の状態になっているのではないでしょうか。少なくとも私はそう感じます。そんな観点からの研究結果,実験結果はないのでしょうか(笑)。
先日,栗ご飯をいただきました。栗の季節です。俳句の世界では栗は晩秋の季語だそうです。栗と言えば,いつも思いつくのが井上井月の次の句です。
「落栗の 座を定むるや 窪溜り」
本当に佳い句だと思います。接した時,すぐに頭にその情景が自然に浮かぶような句が秀句なのでしょうね。木から栗がぽとんと落ち,ころころ転がりながら最後は土の少し窪んだ場所に落ち着いて止まる光景です。ただこの句は,井上井月にとっては境涯句でもありそうです。井月の出自は定かではないところもありますが,越後の長岡藩の出ではないかと言われています。全国を放浪し,30代後半に長野の伊那谷に来て,残り約30年間の余生をそこで送ったのです。栗がその窪だまりに落ちついたように・・・。その井上井月の作品をとりわけ高く評価していたのが,かの芥川龍之介です。
ところで,私はもう2年前になりますが,上田秋成の「雨月物語」を読んでいたく感動しました。改めて日本文学の素晴らしさを感じたものです。その上田秋成には「春雨物語」という作品もあります。これもいつか読んでみたいと思っておりましたが,最近「春雨物語」(上田秋成,井上泰至訳註,角川ソフィア文庫)を手に入れました。この本は原文だけでなく,現代語訳も付いています。予定では2週間後くらいには読み始めることができそうです(笑)。
上田秋成の作品としては,その「春雨物語」よりは「雨月物語」の方が有名だと思いますが,さきほどの本の解説によれば,大正期には芥川龍之介,谷崎潤一郎,佐藤春夫によって,秋成小説の価値について鼎談が行われ(「あさましや漫筆」),それによれば「雨月物語」をまねることはできても,「春雨物語」はとても及ばないという,「雨月物語」以上の評価がこの作品集(春雨物語)になされたそうです。
予定を早めて一刻も早く読みたくなりました。
カラスは童謡の歌詞にも出てきますが,昔からどうにも好きになれません。特に朝の徒歩出勤をしている際に,カラスが生ゴミの袋を突いて破り,集配車が来る前に道歩道いっぱいにゴミを散乱させたりしている光景を見るとなおさらです。しかも,人間を恐れることはなく,私が普通に歩いて近寄ってもほんの少しゴミ袋から離れるだけで再び集まって袋の中をあさっています。時には私を威嚇するかのように顔の近くを飛び過ぎたりもします。今後彼らが振る舞いを改めない限りは,どうにも好感が持てません(笑)。
それにひきかえ,すずめは可愛い。くどいようですが私はすずめが大好きなのです(笑)。
前にもこのブログで書いたことがありますが,漂泊そして行乞の俳人種田山頭火を物心両面で支えた木村緑平という人もすずめが大好きだったことで有名です。共に自由律俳句の荻原井泉水の門下であり,「層雲」の同人です。
木村緑平という人は,明治豊国鉱業所病院に勤務していた医師でした。種田山頭火が旅先で無銭飲食をしてしまった際に郵便小為替で送金してあげたり,身元引受人になってあげたりもしましたし,山頭火も当時筑豊(炭坑町)の糸田にあった緑平宅を15回も訪ね,互いに酒を酌み交わした仲です。山頭火は緑平のことを「心友」と表現していました。
その木村緑平,大のすずめ好きです(笑)。私もそう(笑)。だって,これは理屈抜きですし,可愛いんですもの。緑平はすずめの句を得意にしており,「すずめの緑平」と言われていました。緑平のすずめに関する代表的な句をご紹介しておきましょう。
「かくれん坊の雀の尻が草から出てゐる」
「今日はお留守というやうな顔の雀が日南に」
「香春へ日が出る雀の子みんな東に向く」
「雀生まれてゐる花の下を掃く」
「世と合わず行春の雀に米をまく」
2番目の句は,山頭火が亡くなった後にその住み処であった一草庵を訪れた際に詠んだ句です。本当に味わいのある句です。また,最後の句は緑平の境涯句とも言うべきもので,確かに緑平は医師でしたが世渡りは下手で貧乏でした。しかし心優しく老後は脳溢血で倒れた妻の介護をしていました。緑平は雀になりたかったのかもしれません。緑平の雀の句は何と3000句を超えます。
さて,雀ついでに申しますと,前にこのブログでも紹介した尾崎放哉の次の句も,私は大変好きなのです。
「雀のあたたかさを握る はなしてやる」
特に朝晩は冷えてきましたね。秋の深まり,しかも急速な深まりを体感しています。秋はこんなに足早だったでしょうか。くれぐれもお風邪を召されませんように。
産経新聞はいつも第1面に「朝の詩(うた)」というコーナーを設けています。読者から寄せられた詩が掲載されているのです。この「朝の詩(うた)」というコーナーでは,たまに私の心にとまる詩に出会います。昨日の産経新聞に掲載された次の詩は,「緑亀」という標題が付けられ,奈良県桜井市の中嶋隆男という83歳の男性の作品です。
「緑亀が庭の水槽から 消えて半年 ようとして行方不明 堅い甲羅をかじる猫や鼬(いたち)はいない と近くの川底を覗くが 真鯉やハヤばかり 孫と飼いはじめて八年 孫と同様に大人びて 餌を控えていたが・・・ 孫も来なくなり 緑亀も消えて 秋」
最後の「秋」で止められているのが効果的で,何か心に残ります。秋という季節は,上手く表現できませんが何かしらもの悲しい季節でもあります。
それにしてもこの詩は奈良県桜井市の男性の作品ですが,この辺りはまだ豊かな自然が残されているようですね。この詩の中に豊かな自然を感じます。この辺り(奈良県桜井市)は万葉集揺籃の地なのです。奈良県桜井町出身の保田與重郎の「わが萬葉集」(文春学藝ライブラリー)という本を読んだ時にはとてつもなく感動したものです。この本には奈良県桜井町が頻繁に出てきます。万葉集の時代に思いをはせながら一度はこの地方を旅したいものです。
日傘をさしております(笑)。こんないい物はございません。真夏にはもう欠かせないのではないでしょうか。日傘さえあれば,昼食の際,遠出するのも苦になりません。
今,「放哉と山頭火 死を生きる」という本を読み始めたところです。これは渡辺利夫さんが書いた本で,ついこの間,ちくま文庫から出版されたばかりです。やっとこういう本が出ました。尾崎放哉と種田山頭火という,同時代に生きた自由律俳句の俳人二人・・・。一冊の本でこの二人の主要な作品とともに生涯を描いたものを待望していたのです。巻末にはそれぞれの年譜(主要作品付き)も掲げられています。
もしもこういう本を書くことができるとしたら,村上護さんではないかと思っていたのですが,村上護さんは数年前に惜しくも鬼籍に入られました。それにしても渡辺利夫さんも素晴らしい本を書くものです。この方は本来はアジア経済が専門の学者(拓殖大学総長)ですが,この本では完全に作家です。素晴らしい内容です。以前この渡辺さんの「種田山頭火の死生-ほろほろほろびゆく」(文春新書)という本を読んで感銘を受けたことを覚えております。それにこの渡辺さんの歴史認識や国家観は私にすごく近いものもあります(笑)。
さて,この「放哉と山頭火 死を生きる」という本の内容は,私などが拙い紹介をするよりも,裏表紙に書かれているフレーズをご紹介した方が良いと思います。
「学歴エリートの道を転げ落ち、業病を抱えて朝鮮、満州、京都、神戸、若狭、小豆島を転々、引きずる死の影を清澄に詩(うた)いあげる放哉。自裁せる母への哀切の思いを抱き、ひたひた、ただひたひたと各地を歩いて、生きて在ることの孤独と寂寥を詩う山頭火。二人が残した厖大な自由律句の中に、人生の真実を読み解く、アジア研究の碩学による省察の旅。」
この本の前半は放哉の生涯と句,後半は山頭火の生涯と句が内容となっております。まだ放哉の前半部分までしか読み至ってはおりませんが,読んでいて何かしら切なくなってしまいます。
本当に梅雨空ですね。
漂泊の俳人,種田山頭火は肉体的にはタフな人間だったとは思いますが,さすがに梅雨時の行乞は辛かったのではないでしょうか。シトシト降ったり,ザーザー降ったり,梅雨時の雨にもいろいろありますが,頭陀袋と鉄鉢を持っての雨の中の行乞はやはり大変でしたでしょう。でもその一方で,雨はそれほど嫌いでもなかったようです。
山頭火の「行乞記」の中の「伊佐行乞」には,梅雨時の行乞に関して,次のような記載があります。
「六月廿八日 ・・・雨、雨の音はいいな、その音に聴き入る、身心なごやかになる。・・・梅雨らしく降ったり晴れたりする、やむなく行乞は見合わせる、明日の米がないけれど、明日は明日の事だ、明日の事は明日に任しておけ!・・・」
米があるかないかという境涯ですが,それでも何か人生を楽しんでいる風でもあります(笑)。
この梅雨時の山頭火の俳句作品をいくつか挙げておきましょう。
「禿山しみじみ雨がふるよ」
「梅雨あかり私があるく蝶がとぶ」
「梅雨空へ伸びたいだけ伸びてゐる筍」
「日照雨、ぴよんぴよん赤蛙」
「降つたり照つたり何事もなくて暮れ」
この暑さ,皆さんは気は確かにもっていらっしゃいますか(笑)。「殺人的な」という,あまり耳にしたくない形容動詞がありますが,この暑さは殺人的な暑さです。不幸にも熱中症で命を落とされる方も出ており,この表現は強ち誇張ではありません。今日も裁判所へ参りますが,日傘を差して参ります。
そんな暑さの中で,私のブログネタは「暑苦しいなあ」と思われるかもしれませんが,今日は短めにお話しします。
実は今,「小林秀雄 学生との対話」(新潮社)という本を興味深く読んでおります。今は亡き「知の巨人」の一人とも言うべき文芸評論家の小林秀雄は,昭和36年から昭和53年にかけて,真夏の九州の「学生合宿」に5回にわたって出かけ,そこで火の出るような講義と真摯極まる学生との対話を行ったのです。その内容をまとめたのがこの本です。
本居宣長のこと,「もののあはれ」のこと,民俗学者柳田國男のことなど大変に興味深いのですが,この本を読んでいてとても懐かしい一節に釘付けになりました。講義後のある学生からの質問の一部で柳田國男の「清光館哀史」に言及があったのです。この学生は高校時代に教科書で「清光館哀史」を読んだことがあると言っていたのですが,そういえば私自身も現代国語か何かの授業の際,教科書にあった「清光館哀史」に接したことを突然に思い出したのです。遠い遠い昔,確かに私もこれを読んだことがありました。そのタイトルを今でも覚えております。でもその話のあらすじは忘れてしまいましたが・・・。
ネットで「清光館哀史」の全文が出ており,改めて読み直してみましたが,「・・・ああ,そうだった,こういう話だった」と,懐かしくも哀しい物語が頭の中でよみがえりました。同じ民俗学者でも,大先輩格の柳田國男の手法や著作内容と,宮本常一のそれとでは大分違っていると思いますが,いずれの著作も興味深く,民俗学の世界は独特の魅力があります。もう一度柳田國男の世界を渉猟してみたいと思います。宮本常一の世界も同様に・・・。なお,宮本常一の著作で素晴らしいと思った一つは,やはり「忘れられた日本人」(岩波文庫)です。必読です。
とうとう読み終えました。「わが萬葉集」(保田與重郎著,文春学藝ライブラリー)という本です。大変に読み応えがあり,もっともっと年齢を重ねたらもう一度読み返したいような名著でした。
これだけの力作を私がたった一言で表現するのは誠に不遜ですが,この本は,日本浪漫派である保田與重郎が万葉集の精神世界に抱いた憧憬で一杯に満たされた本と言うことができるのではないでしょうか。「万葉集」という何物にも代え難い古典に恵まれたことを日本人はもっと誇り,感謝すべきではないのか。そう思います。
この本の末尾には,片山杜秀氏の解説が掲載されているのですが,この本をさらに一言でより分かりやすく表すとすれば,次のようなものとなるでしょう。
「天皇はただ居て、座って、知って、下々はそんな天皇を感じて幸せな気持ちになって、その幸せな気持ちが天皇に知られて、そういう相互の照り返しの中で、いつもまるく治まっている。それが、巻頭の雄略天皇の長歌から、歌集の編纂にあたったとされる大伴家持の歌まで、『萬葉集』を貫くものであろう。『萬葉の精神』として保田與重郎の見出したものであろう。」(同著592頁)
「最も美しい日本の思い出を記した書物『萬葉集』こそが真の古典であり、たとえその世界を取り戻すことが不可能と分かっていても、大伴家持と同じく『その世界を取り戻せ』と主張し続けなければならない。日本は大和の盆地の小さな国に『言霊』を通わせていたときがいちばんよかった。そのときに帰れなくてもそのときを忘れることは決してできない。そんな保田のこだわりは、人間の理性の奢りに水を差せる。日本という小さな島国が無茶な大国化を目指すことへの、あるいは何事でも規模の拡大をよしとしたがる価値観への、些かの歯止めにもなる。いにしえに防人として駆り出された小さく弱き人々、それに類する目に遭っている後代の人々に思いを馳せられもする。『わが萬葉集』の精神が全面勝利する世の中はちょっと考えられない。しかし全面敗北する世界もまた想像できない。それは近代文明の続くかぎり、永遠のゲリラとなって、たとえば大和の盆地、日本の原風景を徘徊し、遊撃戦を継続し続けるであろう。保田與重郎は理知主義への抑止力の源泉として、ますます読まれねばならない。」(同著596頁~597頁)
なお蛇足ですが(笑),グローバリズム,大量移民政策などなど,私は大変違和感を覚えますし,政策としては反対です。人に人柄があるように,国にも国柄というものがあるのです。
今から1年以上も前でしょうかね,ある古本屋で「わが萬葉集」(保田與重郎著)という古本を偶然に見つけ,喜色満面で帰宅したことをこのブログで書いたことがありました。その時は絶対に読みたいと思っていたのです。
でも結局はその古本は読むことはありませんでした。私は行儀が悪く,仰向けに寝っ転がって本を読むことが多いのですが,そうすると何かしら古本の各ページからごく小さな眼に見えない虫(ダニなのかしら)が顔や首に落ちて痒くなりそうな危険性を感じてしまったからです(笑)。古本ってそういうことがありませんか?
でも,さすがは文藝春秋です。やってくれました。昨年の12月末に「文春学藝ライブラリー」として「わが萬葉集」(保田與重郎著)の復刻版を出してくれたのです。文庫本の大きさですからコンパクトで読みやすく,眼に見えないダニのようなものが顔に落ちてくるような心配もありません(笑)。
この本はまだ読んでいる最中ですが,誠に素晴らしい。感動しております。柿本人麻呂,山部赤人,大伴家持など,こういった歌人の偉大な作品が満載され,何よりもこの保田與重郎という人は,万葉人の時代に浪漫的に思いを馳せ,古代からずっと続いてきた日本の文芸,そしてそれを育んできた豊かな自然と日本人のメンタリティーを心から愛しています。我が国が万葉集のような優れた古典を有していることに誇りを感じます。
「わが萬葉集」(保田與重郎著)の末尾には,片山杜秀氏の解説が掲載されているのですが,この本を一言で表すとすれば,次のような表現がぴったりでしょう。
「日本浪漫派を代表する文藝評論家・保田與重郎は萬葉集を育んだ大和桜井に生まれた。その歌に通暁することで自身の批評の核となる『浪漫的なイロニー』を掴みとった著者が萬葉集揺籃の地を歩き、古代の精神に思いを馳せ、歌にこめられた魂の追体験へと誘う。」
実はこの本は文庫本サイズとはいえ約600ページに及ぶ力作で,私もまだ読んでいる途中なのですが,確かに,著者と共に「萬葉集揺籃の地を歩き、古代の精神に思いを馳せ、歌にこめられた魂の追体験へと誘」われている思いがいたします。保田與重郎の次のような思いには,私も大いに共感を覚えます。
「しかしさういふ遠世の無名の人の歌を、多く代々の人々が心にとどめてよみ伝へ、やがて家持によつて記し残されたといふことを考へ併せると、私の心はわが無限の遠つ人への感謝で一杯となる。しかもこの感謝は、自他を一つとするやうな、うれしくなつかしく、よろこばしい気持である。そして、この日本の国に生れ、萬葉集をよみ得るといふことに、悠久な感動を味ふのである。この時、私にとつて、すべての愛国論は雲散霧消し、わが心は遠つ御祖の思ひと一つとなる。この国に生れたよろこびと、この国のいとほしさで、わが心は一杯となる。」(301頁~302頁)
久しぶりの雨のようですが,雨に濡れた深緑もまた格別です。緑がますます濃くなり,目に鮮やかに映ります。本当によい季節になりました。
何度も同じことを言うようになると,老いた証拠だなどと言いますが,敢えてそして改めて私は言います。私は雀(すずめ)が大好きです(笑)。
通勤でも,そして仕事で移動する時も可愛らしい雀の姿を目にすることがありますが,そういう時は足を止め,どこかに腰掛けてずっと雀の様子を見ていたい衝動に駆られます。雀というのは,どうしてあんなに可愛いのでしょうか。
「舌切り雀」という日本のおとぎ話に出て来るような冷酷な婆さんは例外として,日本人は昔から雀を可愛がってきたし,その姿に癒やされてきたのではないでしょうか。後に述べる尾崎放哉の句にも出てきますように,そこにいる人間の姿に慣れてくると,雀は警戒心を解き,人間に近づいてきたりもします。雀はたびたび俳句にも登場し,小林一茶の「われと来て遊べや親のない雀」などはとても有名です。
自由律(非定型)俳句の尾崎放哉も雀を登場させた俳句を作っております。
「雀がさわぐお堂で朝の粥 腹をへらして居る」
「雀のあたたかさを握る はなしてやる」
どうです?放哉の二番目の句は・・・。私はこの句が特に好きなのです。種田山頭火も放哉も,とても寂しがりやである一方,孤高の人であったことでは共通ですが,兵庫県西須磨の須磨大師堂の堂守をしていた当時の放哉は,やはりとても寂しかったのでしょう。「雀のあたたかさを握る はなしてやる」という句は何とも味わいがありますね。満たされない心と寂しさで,思わず近くに来た可愛いすずめを手でそっと握り,その温かさを感じ,ふっと我に返って手を離してやるのです。
山頭火も次のような句を作っております。
「風ふく身のまはりおほぜい雀がきてあそぶ」
「夕雀にぎやかなり、雀と仲よし」
いいですね。実は,その山頭火が「心友」と表現していた,木村緑平という句友がおりました。緑平は長崎医学専門学校(現・長崎大学医学部)を卒業した後,九州で医師をしていたのですが,何かと山頭火を支えておりました。山頭火にとっては,ともすると自暴自棄になりがちな自分が心から甘えられる存在が緑平だったのです。行乞の旅先で山頭火からお金の無心をされても責めることなく,その行乞の旅を支えた人物でした。「種田山頭火-うしろすがたのしぐれてゆくか」((村上護著,ミネルヴァ書房)という本にも,緑平がいかに山頭火にとって心の支えになっていたかが分かります。
その木村緑平こそ,大の雀好きだったのであります(笑)。何と緑平には,雀の句だけで3000句を超える作品があるのです(笑)。最後に緑平の雀の句を一つだけご紹介しておきます。
「かくれん坊の 雀(すずめ)の尻が 草から出てゐる」