長野県伊那方面にとても律儀な方がおられる。かつてこの方の事件依頼を受け,代理人として交渉などをし,数年前に無事解決となった。事件の内容はもちろん言えないが,内容的にはこの方にとっても望外の喜びだったろう。ただ,事件終了後の弁護士報酬は7~8回の分割払いとさせていただいた。その分割払いが半分くらい終わったある日,この方から「申し訳ありませんが,支払を1か月遅らせてもらえませんでしょうか。」という丁寧な電話連絡があった。
この方も比較的高齢で経済的には余裕のある方ではなく,しかもこのような丁寧な電話連絡。僕はとてもうれしくも恐縮し,言葉に気を遣いつつも丁寧に以後の支払を免除させていただきたい旨を申し上げた。この方は再三にわたってそのような措置を固辞されたものの,僕の方から何とかそのようにしてもらった。それからである,この方からは毎年冬になると,美味しい日本酒が当事務所に贈られてくるようになったのである。僕としては,申し訳ない,もう十分にお気持ちはいただきましたから,などと言いながらもお言葉に甘えていた。
そうしていたところ,先日,この方から僕あてに近況報告などの電話があり,「ここ数か月体調を崩して寝込んでおり,申し訳ありませんが今年はお酒をお贈りすることができないのです。」とのこと。何と律儀な方なのであろうか。こういう方がおられることがうれしかった。もう,お気持ちだけで十分である。
さて,伊那と酒といえば,前にもこのブログで一度触れたが,井上井月という放浪の俳人である。彼は江戸後期から明治中期にかけて活躍し,伊那方面を約三十年間にわたって漂泊,放浪しつつ句を残した。種田山頭火はこの井上井月のことを心から慕い,一度故郷の山口からはるばる伊那へ行乞しつつ,井月の墓参りを試みたが,あと一歩というところで肺炎を患い,墓参りを断念している。でも山頭火の井月に対する思慕の念は絶ちがたく,その四年後に再び故郷の山口からはるばる伊那を訪れ,ようやく墓参りを果たす。その時,山頭火は井月の墓を前にして四つの句を残している。
「お墓したしくお酒をそゝぐ」
「お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました」
「駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね」
「供へるものとては、野の木瓜の二枝三枝」
本当に山頭火というのは自由律で素直な感情を表現したのだなと思うし,このような句に接するにつけても,井月に対する思慕,敬愛の念が強かったことを改めて感じる。
皆様,新年あけましておめでとうございます。月並みではありますが,本年もどうぞよろしくお願いいたします。・・・おっと,このブログに対し,多くの皆様からの割れんばかりの暖かい拍手とご声援をいただき,私としても気も狂わんばかりに喜んでおります(笑)。さてと・・・・,今年はどんな年になりますか。大晦日には「あぁ,良い年だったなぁ。」と振り返ることのできる年でありますように。お互いにねっ!
年末年始は,大晦日と元旦に実家で過ごした以外は,自宅での読書三昧であった。前から読みたいと思っていた若狹和朋氏が書いた「日本人が知ってはならない歴史」,「続・日本人が知ってはならない歴史」,「日本人が知ってはならない歴史・戦後編」の3部作(朱鳥社)を全部読んでしまった。これは日本人なら一度は読んでおいた方が良いと思う。「知ってはならない」というのは逆説的な表現で,「知っておかなければならない」というほどの意味である。箇所によっては著者が本当に読者を意識しているのかと思うほど,独特の言い回しでどんどん論を進めていって多少読みにくさを感ずる部分もあるが,日本の近現代史の歴史認識に関し,「目からウロコ」が落ちる部分が多い。控えめな表現を使っても「必読」であろう。キーワードとして残っているのは,マルクス主義のフランクフルト学派,コミンテルン,エージェントとなったユダヤ人の世界認識,ロボトミー手術,東京裁判の欺瞞性などである。政治的なプロパガンダではなく,あくまでも史実に基づく正しい歴史認識はとても重要だと思う。この本の中で特に印象に残った言葉は,歴史を失うということは将来を失うという言葉である。批判を承知で敢えて言うが,少なくとももうそろそろ東京裁判史観のみの認識からは脱却しなければならないと思う。そうでなければ誇りをもってこの国を守っていくことができない。
この3部作はいずれも必読なのではあるが,特に3作目の「日本人が知ってはならない歴史・戦後編」の第1章「昭和陛下の墓参り」の中の「祭文」を読んでいて,恥ずかしながら思わず大粒の涙がこぼれてしまった。
さて,大粒の涙で眸を洗われた後に僕が目にしたものは,高校1年生の愛娘あてに来た年賀状の山の高さが,僕のそれと遜色ないという厳然たる事実であった。愛娘というのは,あかねちゃんといい,当事務所の名前の由来ともなっている。一句ひねれば,
「幾星霜 愛子(まなご)の賀状 そびえ立つ」
(大意)
(もう私もずいぶん年をとってしまったものだ。髪には霜のように白いものがまじり,それがはっきりわかるようになってしまった。愛する娘あてに来た年賀状が机に積まれているが,その山の高いこと。私あてに来た年賀状の山の高さと遜色ないまでになっている。ついこの間まで,ハイハイしながら私の所に寄って,片言の言葉で何かをせがんでいた赤ちゃんだったのに。もう一人前に人脈を築き上げ,級友などから私あてと同じくらいの数の年賀状をもらうようになっている。このようにして世代の交代をむかえるのだなあ。)
あー,恥ずかしい。「幾星霜」なんて季語にはなってないんじゃないか(笑)。
仕事は忙しいけれど,自宅にいる時くらいはできるだけ本を読みたい。早く読みたいなと思っているけど,書店でなかなか手に入らない本がある。若狭和朋という人が書いた「日本人が知ってはならない歴史」という本で,正編と続編があるそうだ(それに,戦後編も出て3部作になっている。)。早く読もうといくつかの書店へ行き,店内の検索サービスで調べても「品切れ中」,「在庫なし」という表示が出てしまうのだ。いっそのことアマゾンか何かで通販で買おうか。
この本が読みたいと思ったのは,ネットの書評で好評だったこともあるが,作者の若狭和朋という人の経歴中に,大学を出て通産省の官僚になったにもかかわらず,間もなくこれを辞めて「4か月ほど雲水になった」という趣旨のことが書いてあったからだ。雲水というのは,行雲流水の略で,空を行く雲と流れる水,物事に執着せず,淡々として自然の成り行きに任せて行動することのたとえである。要するに4か月ほどの間,全国をあてどもなく漂泊したということである。彼をしてそのようにさせたのは,新婚生活僅か約4か月で最愛の伴侶を事故で亡くしたという冷厳たる事実だったようである。
雲水と言えば,非定型俳句の尾崎放哉のことも想い出される。「咳をしても 一人」という句に出会った時の衝撃も忘れられない。彼も,東京帝国大学法科を出て普通の会社に入って仕事をしていながら,結局は退職し,いわば諸縁を放下する形で雲水になった。そういえば,このブログでもたびたび登場する漂泊の俳人種田山頭火も雲水の生活であろう。このような雲水の心境,生活に漠然とした憧れをもつこともある。少し前に「新 脱亜論」(文春新書)という本を読んだが,その著者である渡辺利夫(拓殖大学学長)も自己の専門分野とは全く畑違いの「種田山頭火の死生-ほろほろほろびゆく」(文春新書)という本も書いている。誰でも,このような雲水の心境,生活に漠然とした憧れをもつことがあるのだろうか。
とうとう待ちに待ったドラマ「坂の上の雲」が始まった。NHKで,2011年の秋にかけて3年がかりの全13話ということらしい。この「坂の上の雲」という小説は,司馬遼太郎原作の巨編であり,これまでの発行部数が1800万部を超えたという。日本の人口を考えると,この発行部数は凄い数であろう。
文春文庫から全8冊(第1巻~第8巻)の文庫版が出ていて,僕も読んだことがある。何とも言えない読後感であった。感動したこともちろんである。明治の人々の気骨と無私の精神,失われてはいけない日本人の特性を認識できたし,今後自分の人生で遭遇するであろう個々の局面でどのように考え,行動すべきかについての規準を示してくれる。少なくともヒントを与えてくれると思う。よく,識者に対するアンケートで「この一冊」というものがあるが,この本を挙げる人も結構いる。
この小説は,秋山好古,真之兄弟,正岡子規の3人を中心に話が展開していくが,これらに限らず,途方もなく魅力的な明治人が次々に登場する。前にもこのブログで,その中の一人として広瀬少佐について言及したが,そのほかにも,児玉源太郎,東郷平八郎,大山巌,小村寿太郎,陸羯南など素晴らしい明治人が目白押しである。これらの人々に加え,黒木為楨,奥保鞏,乃木希典,野津道貫などに恐らく共通するのは,いずれも明治維新前に各藩で藩校などの教育機関,さらにそれより小単位の制度(例えば,薩摩藩における郷中,会津藩における什など)でしっかりとした教育,識見を植え付けられ,これを身につけていたということだろうと思う。
今,民主党政権下で「子供手当て」や「高校無償化」などの金銭等の給付面のみに言及され,実際に施される教育の中身について触れられることが少ない。資源の少ない日本は,人こそが資源であり,教育(科学技術研究も含む。)こそ国家存立の基盤という認識が必要なのではないだろうか。
この「坂の上の雲」を読み,それぞれの場面を想像するにつけても,人こそが資源だなと改めて痛感する。この本は何度も何度も読み返したいし,それに値する一冊である。さて,ドラマの方はというと,正岡子規役の俳優香川照之は,役作りのために体重を30キロ代後半まで減量したという。確かに正岡子規は類い希な才能には恵まれつつも,宿痾のために世を去り,この小説の第3巻目までの登場である。ここまでの役作りをして臨むというのも役者として凄い。ドラマにも大いに期待したい。
グレン・グールドという人は,異色かもしれないが,天才ピアニストであったことは間違いない。バッハのゴルトベルク変奏曲のうち,晩年に録音した方のものや,平均律クラヴィーア曲集などは今でも僕の愛聴盤である。グールドは秋に亡くなったが,早くも没後27年も経つ。そのグールドは,カナダ国籍だったが,夏目漱石の「草枕」をこよなく愛し,繰り返し読んでいたということだ。
正直言うと,文豪夏目漱石の作品は,「坊っちゃん」,「吾輩は猫である」,「こゝろ」くらいしか今まで読んだことがなかった。かのグールドが「草枕」を愛読していたという情報に接して,それで興味を持ったのである。・・・・・・・「草枕」を読んでみた。すぐには読書感想が思い浮かばない。僕がかつて読んだ漱石の作品と比較すると,少し異色の作品ではなかろうか。グールドがこの作品を愛読していた理由を知りたい気になった。彼はこの作品のどんな点に惹かれたのであろうか。とても興味深い。
漢文調の文章が延々と続くくだりにはいささかやっかいな思いをしたが,何となく魅力のある作品ではある。宿屋の庭付近から夜中に聞こえてくる小さな歌い声や,突如として湯気の中に浮かぶ女体,その他の自然描写などは幻想的ともいえる。また,その歌い声や女体の主は,出戻りの那美という女性であるが,彼女はこの小説においては極めて大きな存在である。また,随所に現れる人生や事象に対する内省的,洞察的な表現。繰り返すが,あのようなバッハを表現するグールドがこの「草枕」という作品のどんな点に惹かれたのかが知りたい。
台風18号,今回の台風は非常に手強かった。僕が天気図上ではじめてこの台風を目にしたのは,今から数日前で,まだ日本からはるか南海上にあった。ところが,その時の中心気圧が915ヘクトパスカルだったから,内心「こりゃー凄いな。」と思った。この台風が日本に上陸することがあるとすると,その時点でも相当の勢力を維持しているだろうと直感したのである。
僕は名古屋市内に住んでいるが,ちょうど今朝の明け方が暴風雨のピークだった。相当の迫力で,室内にいても恐怖を感じるくらいだった。それでも何とか通勤する時間帯には風も治まり,歩いて職場まで行くことが出来た。
その道すがら,台風が過ぎ去った後の街の様子をつぶさに観察してきた。路上には,木の枝,まだ青い葉っぱ,枯れ葉,花びら,木の実などが散乱していた。行く先々で,集合住宅や共同店舗の前では,複数の人達が協力し合いながら箒で掃除をしていたし,一軒家の前でも初老のご婦人がやはり丁寧に掃き出しをし,鉢植えの手入れなどをしていた。本当に日本人というのはきれい好きであり,街の美観をいつも考え,花や樹木などの自然をいたわり愛でる民族なのだなと思った。
台風などによる暴風を古典的な表現で「野分(のわき)」,「野分け(のわけ)」というが,徒然草の第十九段(折節の移りかはるこそ)には,次のような表現がある。
「また野分(のわき)の朝(あした)こそをかしけれ。」
その大意は,「また,台風が過ぎた翌朝の景色はとても興味深いものだ。」というものだ。今朝の通勤途上でこのことを実感した。ただ,僕がこのブログを書いている時点ではまだ件の台風が日本列島を縦断中である。その進路上にある地方の方々の無事を心からお祈りしている。
今年の梅雨は長かった。長梅雨というのだろうか。僕の住んでいる地方は,昨日ようやく梅雨明け宣言が出された。降雨量も多かった。降雨といえば,山口県防府市及びその周辺の豪雨災害があった。防府市の老人ホームが土石流災害に襲われ,多数の人が亡くなった。亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りすると同時に,その他被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。
山口県防府市は,漂泊の俳人,種田山頭火の生まれ故郷である。
「雨ふるふるさとははだしであるく」
山頭火の有名な句の一つである。この句自体は,山口県小郡市で作られたもののようだが,小郡と故郷の防府とは近い。ふるさとの雨を詠じた句。山頭火はどんな気持ちでこの句作をしたのであろうか。山頭火自身の自句評を引用すると,「雨ふるふるさとはなつかしい。はだしで歩いてゐると、蹠の感触が少年の夢をよびかえす。そこに白髪の感傷家がさまよふてゐるとは。」(村上護著,「山頭火名句鑑賞」91頁,春陽堂)。雨の日の行乞も決して楽ではなかったろうが,山頭火の場合は,もうそんな苦楽の感情を超越していたのかもしれない。
また,山頭火は,故郷について次のようなことも述べている。「故郷忘れ難しといふ。まことにそのとほりである。故郷はとうてい捨てきれないものである。それを愛する人は愛する意味に於いて、それを憎む人は憎む意味に於いて。(中略)しかし、拒まれても嘲られても、それを捨て得ないところに、人間性のいたましい発露がある。錦衣還郷が人情ならば、襤褸をさげて故国の山河をさまよふのもまた人情である。」(村上護著,「山頭火名句鑑賞」85頁,春陽堂)。これまた山頭火にあっては,虚栄,卑下などといった感情も超越していたのだ。
「うまれた家はあとかたもないほうたる」
新聞の書評欄を見ていたら,「宮本常一が撮った昭和の情景 上下」(宮本常一著,毎日新聞社)というのがあった。今は亡き民俗学者宮本常一が,行く先々で昭和の日本の有様を26年間にわたって写真撮影したものの中から選りすぐったものだという。書評を書いた思想史家田中純氏は,「昭和の農村・漁村・山村の景観や人々を記録した魅力的な写真の数々が、入手しやすい形で書籍化されたことを心から喜びたい。」,「・・・・・この切ない懐かしさはどこからやってくるのだろう。」などと述べている。宮本常一自身も,「忘れてはいけないというものをとっただけである。」と述懐している。
僕は昭和生まれで,いつも懐かしい昭和に逢いたいと思っている。ノスタルジーを感じるのである。ノスタルジーという言葉にもいろいろな意味があるが,僕のいうノスタルジーとは,過ぎ去った時代を懐かしむ気持ちのことである。是非ともこの宮本常一が撮影した写真集を入手し,軽くお酒などを飲みながら楽しみたいと思った。
また,懐かしい昭和で思い出したが,以前僕は,牛山隆信さんが監修した「秘境駅へ行こう」という面白い番組を見ていたことがある。時間とお金さえあったら,日本全国のとっておきの秘境駅をいつか巡ってみたいと憧れていた。この牛山隆信さんという人は,まだそんなに年でもないのに,顔自体が全く飾り気がなく素朴な「秘境」のような顔をしていて,非常に好感がもてる。彼の企画は,日本全国の秘境駅を,①秘境度,②雰囲気,③列車到達難易度,④車到達難易度の4項目において5段階評価をし,ランキングするというものである。
この番組自体も相当に面白かったが,牛山さんの「秘境駅へ行こう!」(小学館文庫)という本もいずれ読んで,どこかの興味深い秘境駅に旅し,懐かしい昭和に逢いに行きたいと思っている。
「また『マタイ受難曲』かよー」なんて言わないでね。今日は,マタイ受難曲の曲そのものよりも「マタイ受難曲」という本のお話なのです(あれっ?今日はいつもと文体が違う)。前にも一度このブログで触れたことがあると思いますが,その本というのは,「マタイ受難曲」(礒山雅著,東京書籍)のことです。
僕がこの本を東京の書店で偶然見つけたのは,平成7年3月ころでした(あの忌まわしい地下鉄サリン事件が起こった直後のことです。)。司法修習生の時代も終わりを告げ,4月からはさあいよいよ弁護士1年生という時期でした。この本を購入してしばらくの間は,仕事が忙しくて読む余裕がなかったのですが,恐らくちょうどその年の今ぐらいの季節からこの本を読み始めました(今日はこの文体でこのまま突っ走ります)。
著者(礒山雅氏)のマタイ受難曲への思い入れは半端なものではありません。その求道心とこの曲に対する素晴らしい研究の成果がこの本に凝縮されております。他の本と比較した訳ではありませんが,マタイ受難曲の研究成果に関する本としてこれ以上のものが現時点で存在するでしょうか?・・・・・。例によって,この本の「はじめに」の部分から少し引用してみましょうね。
「・・・・・私は、構想の雄大さと親しみやすさ、人間的な問題意識の鋭さにおいて、《マタイ受難曲》こそバッハの最高傑作であると思っている。この作品には、罪を、死を、犠牲を、救済をめぐる人間のドラマがあり、単に音楽であることをはるかに超えて、存在そのものの深みに迫ってゆく力がある。それはわれわれをいったん深淵へと投げ込み、ゆさぶり、ゆるがしたあげく、すがすがしい新生の喜びへと、解き放ってくれる。研究者としての私にとって、《マタイ》はいつも、大きな目標として、頭の上にあった。その《マタイ受難曲》の研究に、私は、自分の四十代を費やした。その集成が、本書である。・・・・・・・・」(17~18頁)
どうです,皆さん。もう読むしかありませんよねぇ・・・。それにしても,ある研究者の四十代,約10年間を費やす対象となった「マタイ受難曲」という存在。これは何度聴いても涙がでてくる至高の存在なのであります。僕もこれまで,ある本を何度も読み返した経験はありますが,今回この「マタイ受難曲」という本を読み返すのは5回目で,5回目を迎えたのはこの本が初めてです。というのも,今年の11月に合唱団の一員としてこの曲の上演があり,そのために練習を重ねているのですが,改めてこの曲に対する理解を深めるにはこの本を読み返すのが一番だと思ったからです。
一昨日は梅雨空の雨が降り,夕方には雷が暴れた。行乞の旅に出た網代傘姿の山頭火は,雨とはどのように付き合ったのだろうか。その日の食い扶持を確保しなければならないのだから,雨だからといって行乞を止め,畳の上で大の字になっている余裕はなかったと思う。
「あの雲がおとした雨にぬれてゐる」
「雨なれば雨をあゆむ」
「笠をぬぎしみじみとぬれ」
山頭火は,雨でも自然と一体である。当然のことながら自然を敵対する勢力とは全く思っていない。
では,暑い晴天の日はどうか。
「炎天をいただいて乞い歩く」
「炎天の下を何処へゆく」
山頭火はたとえ炎天でもやはり自然と一緒だ。一体である。
それに引き替え僕といったら。真っ黒に日焼けすると法廷で「遊び人」と思われてはいけない,紫外線は大切な髪に悪いなどといった理由で,男性用日傘を差して歩いている。山頭火とは違い,あたかも自然を敵対視し(そのつもりはないのだが),自然から自己を防衛している(・・・・・いわゆるUVカットというやつ)。でも日傘は結構重宝している(笑)。
でもねぇ,山頭火の気持ちが解るなどとは,とても恥ずかしくて言えない。山頭火の生き方に共感を覚えるなどと言っても説得力がない。それでも何となく山頭火の生き様に憧れる。五七五でない山頭火の自由律非定型句に心を惹かれるのである。