先週末にはちょっとばかり感動したことが2つあった。
金曜日の夜の月を皆さんはご覧になっただろうか。仕事を終えて自宅に帰る道すがら,それはそれは見事な月を眺めることができたのである。何しろ大きかったし,色も真っ白ではなく少し茜色がかっているように見えた。月というのはこんなに大きなものだったのかという驚きさえあったし,うさぎさんの餅つきの様子も何となく分かったのである。月というのは日によって様々な姿を見せてくれるし,見る者に様々な思いを抱かせてくれる。とにかくこの晩の月には感動した。
明くる土曜日の晩には,うちのカミさんが飲み会ということで娘のあかねちゃんと行きつけの蕎麦屋さんで外食したのだが,その道行きの世間話で,こちらからその話題に触れた訳ではないのに,あかねちゃんの方から前夜の月の見事さに言及してきた。あかねちゃんも前夜の月にはちょっとした感動を覚えたようだ。
週末の2つ目の感動はやはりバッハの音楽であった。土曜日の晩はあかねちゃんのお酌でほろ酔い加減となり,お風呂に入った後はすぐに布団に入り,良い気分で上田秋成の「雨月物語」を読んでいた。この古典のすばらしさは後日改めてこのブログで触れることにして,ちょっと疲れたなと思ってテレビのスイッチを入れたら,本当にタイミング良く,ちょうどアンドラーシュ・シフというピアニストの演奏会の放送が始まるところだった。この日は幸運だった。演目はバッハのフランス組曲全曲などであった。私もこの演奏家の平均率クラヴィーア曲集のCDを持っているが,アンドラーシュ・シフはおそらく当代一流,世界最高のバッハ弾きの一人であろう。
フランス組曲は第1番から第6番まであり,どれも好きなのだが,特にこの晩に聴いた組曲第2番の冒頭のアルマンドの旋律は胸にじーんときた。感動のあまりうっすらと目に涙が・・。アルマンドはドイツ風の舞曲というほどの意味で,摺り足が主体となる舞曲のこと。バロック期の組曲の冒頭(第1曲)は,だいたいは前奏曲(プレリュード)かこのアルマンドということになる。アルマンドはフランス組曲第5番のものが特に有名で私も好きだが,この晩ばかりは組曲2番のアルマンドに感動した。これは本当に佳い曲である。
翌日曜日の昼間に恐る恐る練習してみた。私にとっては苦闘の連続だったが,前半だけは何とか譜面を見て弾けた。なぜ苦闘の連続なのかというと,私の技術が劣っている点は度外視するとして,いわゆる係留音が少なくないからであろう。でもバッハを弾く場合にはこれは乗り越えなくてはならない宿命なのである。
組曲2番のアルマンドに感動し,そのメロディーがくるくる頭の中で回っている状況で,昨日は東京出張であった。もちろん八重洲地下中央口の旭川ラーメン「番外地」の塩バターコーンラーメンを食べて帰ってきたことはいうまでもない(笑)。
皆様,新年明けましておめでとうございます。相変わらず大変なふつつか者ですが,本年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて,今朝も徒歩での通勤になりましたが,名古屋の朝はとても寒く感じました。年末までは手袋をすることもなかったのですが,今朝は思わず手袋をしてきました。昨年の夏は語りぐさになるほどの暑さだったのですが,同じような振幅でこの冬は語りぐさになるような寒さになってしまうのでしょうか・・・。
きのうは家族とともに大阪に行ってきました。同業の弁護士さんから勧められ,宝塚歌劇団の歌劇を観てきたのです。大阪の梅田芸術劇場のシアター・ドラマシティという所で,その演目は月組公演「STUDIO 54(スタジオ フィフティフォー)」でした。宝塚歌劇は生まれて初めての経験で,うちのカミさんも娘のあかねちゃんも同様でした。
ミュージカル風の進行で,開始して30分ほどの間は少なくとも私は放心状態でした。圧倒的な迫力と大音響と非日常性(笑)とで,私はもはや仮死状態(笑)。瞳孔が開きかけたのではないかと思いました(爆笑)。でも,25分間の休憩を経て最後まで鑑賞したら,やはり感動しました。宝塚の中でもどうも月組は,「芝居の月組」と言われるだけあって,非常に完成度が高いと思いました。男役主演の霧矢大夢さん,女役主演の蒼乃夕妃さん,カッコ良かったわよー。
一時は仮死状態に陥った私でしたが(笑),とにかく元気をもらいました。宝塚ファンの気持ちがよく分かりました。というのも,観終わった後にはとにかく元気になるのです。やはりプロだと思いましたね。歌舞伎も確かに良いのですが,落ち込んでいる時に理屈抜きで自分を元気にするなら,宝塚もありですね。特に月組・・。
お互い今年も良い年にしたいと思います。
平成22年の年の瀬もせまってまいりました。皆さんはこの1年はどんな年でしたでしょうか。自分自身のことを申しますと,歳のせいかあまり楽観的に物事を考えることができず,今年も何とか無事に年を越せそうだとの安堵の気持ちでいっぱいというのが実情です。
さて,来年の7月からは地デジ放送が始まり,それまでのアナログテレビは映らなくなります。最近では画面が黒く縁取られ,その旨のメッセージが流され,「早く地デジに切り替えんかい!」とばかりにプレッシャーをかけられているような感がありました。そこで私もとうとう,窮鼠が猫を噛むように,先日地デジテレビに切り替えたのであります。確かに画像が鮮明です。
そんなある晩,夕食をしながら家族でその新品のテレビを見ていたら,L’Arc~en~Cielというバンドが演奏しておりました。私はこのバンドのことはあまり知らなかったのですが,隣に座っていた娘のあかねちゃんに,「L’Arc~en~Ciel」というのはフランス語で虹という意味なんだよ。」と教えたら,「ふーん。そうなんだぁ。」と感心しておりました。私がどうしてそれを知っていたかというと,大学時代に選択しなければならなかった第二外国語はフランス語だったからですし,何よりも当時好きだったシャンソンの「パリの空の下」の歌詞の最後が「arc en ciel」だったからです。
そしてその家族団らんの時,私は「パリの空の下」というシャンソンの名曲のメロディーを頭に浮かべながら,遠い昔の自分の幼少時代のことを思い出したのです。私は姉と妹にはさまれた3人兄弟で,両親とともに5人暮らしをしていたのですが,子供部屋は母屋とは棟が別の離れになっていました。私は幼少のころから風邪をひくとよく扁桃腺が腫れ,寝込んでおりました。そういった時,離れのベッドで一人ポツンと寝ており,食事の時以外は「静かに寝ていないと直らない」とか「お姉ちゃんたちにうつるから」などと養生するように言われ,食事の時以外は家族と一緒に過ごせないことが多かったのです。風邪で扁桃腺が腫れた時は,子供ながらにすごくさびしかったのであります。そういうある日曜日の晩,ああ早く夕食にならないかなぁ,母屋の方に行って家族と一緒にご飯が食べたいなぁ,などと思いながら夕食のお呼びがかかるのを待っていたのです。それぐらい離れで一人過ごすのは寂しいのでありました。そして,ようやく夕食のお呼びがかかりました。私は家族と暖かい部屋で合流し,一緒に晩ご飯を食べたのです。本当に暖かく,「家族っていいなあ。」と心もうれしかったのです。その時にテレビコマーシャルで流れていた音楽が「パリの空の下」だったのです。強烈に印象に残っております。もちろんその当時はその曲名は知るよしもなかったのですが,そのメロディーが頭に焼き付いており,大人になってからその曲名を知ったのです。古いシャンソンの名曲で,その後はよくジュリエット・グレコの歌で聴きました。
先日,そんなことを回想しながら新しい地デジテレビを見ておりました。
さて,全国6192万人もの読者のために(笑),今年も割とまめにブログを更新してきました。来年も,仕事そっちのけで(爆笑),更新していきたいと思います。皆様良いお年をお迎えください。
平成22年(2010年)も,もうすぐ暮れようとしている。2009年はメンデルスゾーンの生誕200年記念の年だったし,2010年はショパンの生誕200年記念の年であった(また,心から敬愛するバッハ没後260年でもあるけど)。
でも,2010年はドイツが生んだ作曲家シューマンの生誕200年の年でもある。ショパンとシューマンは同年の生まれなのである。2010年ももうすぐ暮れようとしているのだから,どうしてもシューマンのことについても触れておきたい。
自分の明確な記憶として,私がシューマンの曲を最初に鑑賞したのは12歳(小学校6年生)の時である。音楽の授業でロマン派の曲の鑑賞をし,その際にシューマンの歌曲「流浪の民」を耳にしたのである。その迫力とすばらしさに圧倒された記憶がある。その後もシューマンの曲は何度も耳にしたが,私が好きなのは交響曲ならば第1番「春」と第3番「ライン」である。特に第3番「ライン」はとうとうと流れるライン川を彷彿とさせるし,心をわくわくさせるものがある。あとは,先ほどの歌曲「流浪の民」,それからピアノ組曲となっている「子供の情景」から「知らない国々」,「珍しいお話」,「トロイメライ」なんかが好きである。シューマンは妻のクララとの間に8人の子をもうけ,大変な子煩悩だったといわれているが,「子供の情景」の各曲を聴くとそんな感じがよく出ていると思う。「トロイメライ」って変な名前だなと思っていたが,どうやらドイツ語で「夢想」とか「夢想にふける」といったような意味のようである。確かに曲調からすると,夢見がちな子供が何かしら静かに夢心地で夢想にふけっている感じがある。
私が12歳だったころは趣味でピアノを習っていた。少しでもうまくなりたいと願っていた。そんな頃にシューマンの伝記を読んでいたら,シューマンはやはり少しでもうまくなりたいとの一心からピアノの猛練習をし,それがたたって薬指に怪我をし,ピアニストの夢をあきらめ,音楽家,評論家としての道を歩むことになったとのこと。ピアニストの夢をあきらめざるをなかったことに,子供ながらに同情したものだ。ショパンと同時代に生きたシューマンは,評論家としても著名で,本日のブログのタイトルは,評論家シューマンがショパンを初めて世に紹介した時の言葉である。
どうやらシューマンは,晩年はライン川に身を投げたりして精神を病み,不遇だったと伝えられるが,その作品群の価値は不滅である。改めて伝記と,珠玉の作品群を鑑賞してみたいと思う。伝記については,「シューマン-愛と苦悩の生涯」(若林健吉著,新時代社)が好評のようだ。一度読んでみよう。
この寒さはいったい・・・。あれほど長い,あれほど暑い夏だったのに。厚手の布団で寝ていても,どうやら寒さで目が覚めた。大好きな秋が短く終わり,このまま冬に突入するのだろうか。低体温に気をつけなきゃ。
リチェルカーレというのは,ウィキペディアによると,楽曲様式の一つで,その淵源を辿るとルネッサンス期までさかのぼる。リチェルカーレはイタリア語で「探求」という意味のようである。その様式はフーガと同様いくつかの声部からなり,曲の冒頭で1つの声部に示された主題が次々と他の声部に模倣されていく。その模倣の態様にフーガほどの規則性はないが,素人の耳にもフーガとよく似ていると思われるし,区別がつきにくいと思う。歴史的にはリチェルカーレはフーガに取って代わられた。
リチェルカーレですぐに思いつくのは,やはりバッハの「6声のリチェルカーレ」である。学生時代から精神的にゆったりしたい時などに聴いていた。この曲は,バッハの「音楽の捧げ物」の中に含まれており,傑作であると思う。リチェルカーレは,前にも触れたように,一つの声部に示された主題が次々と他の声部に模倣されていくのだが,この「6声のリチェルカーレ」の冒頭から現れる主題こそ,フリードリヒ大王がバッハに示したハ短調の主題である。この主題は,何と言おうか,深甚な憂いを秘めて忘れがたく,いつまでも頭に残るような主題である。この主題から次々に他声部へ模倣され,変奏され,織物のように展開されていく。バッハ晩年の円熟,枯淡をしみじみと感じさせる素晴らしい曲である。
11月3日は文化の日。文化の日といえば,ゴルフである(笑)。この時のゴルフのスコアというと,先日の雨中のゴルフの時と比べると,何と21打縮まった。しかしそのスコアでさえも,決してほめられたものではない。もう僕のゴルフも潮時か・・・。いや,もう少し頑張ってみる(笑)。
秋の夜長に癒される曲を聴くのだったら,やはり夜想曲(ノクターン)であろう。昨日,10月17日はショパンの命日であった。子供の頃に最初にあこがれた音楽家がこのショパンだった。
ショパンの夜想曲で最も好きなのは,有名すぎるかもしれないが作品9-2のものと,「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」という楽想指示がついている嬰ハ短調(遺作)のものである。作品9-2の変ホ長調のものは,僕が小学生の頃にある商品のテレビコマーシャルで初めて耳にした曲で,本当にあこがれたものだ。こんな風にピアノが弾けたらいいなと・・・。
年をとってしまった今は,むしろ嬰ハ短調(遺作)の方が好きだ。遺作となっているが,これは楽譜が死語に発見されたという意味で,実際の成立年代,つまり作曲された時期はショパンがまだ20歳前後のころ,姉のルドヴィカのために作られたといわれている。これは本当に佳い曲である。この曲を聴いただけでショパンが好きになる人もいるのではないか。ポーランド生まれのショパンは,20歳ころにフランスに移って以降は,結局生まれ故郷には帰ることができなかった。でも姉のルドヴィカは何とかショパン最期の年にパリを訪れ,その臨終の際もショパンの病床に付き添い,看取った。
ポーランドで思い出すのは,僕が20歳だったころ,東京で知り合ったIさんという大学院生のことである。僕がショパンを熱く語っていたところ,偶然このIさんはポーランドに留学に行く直前だった。その後Iさんは,僕の自宅に「ジェラゾヴァ・ヴォラ」という写真集を贈ってくれた。今もこの写真集は僕の自宅にあるが,この写真集の題名はショパンの生まれ故郷の名である。是非その地を訪れてみたくなるような写真集である。
蛇足といってはボロディンに失礼だが,夜想曲(ノクターン)といったら,このボロディンの弦楽四重奏曲第2番ニ長調の第3楽章の夜想曲も捨てがたい。なにも捨てる必要などは全くないが,これまた本当に佳い曲で,秋の夜長にピッタリなのである。
本当によい季節になった。秋が一番好きである。こういう季節を迎えると,理由は全く分からないが,何かしら佳い音楽を聴きたい気持ちになるし,空の雲や月,街路樹,路傍の小さな花などにも目が向くようになる。炎天下の夏では,精神的にもそういう余裕がもてないのであろう。
産経新聞を読んでいたら,あのピアニストのマウリツィオ・ポリーニが高松宮殿下記念世界文化賞を音楽部門で受賞したという記事が載っていた。18歳でショパン国際ピアノコンクールで優勝したこの現代最高のピアニストの一人も,もう68歳だ。僕も今まで二度コンサート会場でポリーニの演奏を聴いたが,もう一度聴いてみたい。10月には東京と京都で公演があるようだが,残念ながら今回は行けそうにない。過去二度のポリーニ体験のうち一度は,東京文化会館での青少年のためのコンサートで,確か20代までという年齢制限がなされていたのだが,どうしても聴きたかった僕は年齢詐称してでも潜り込んでしまった(当時既に30歳を超えていた(笑)。もう時効である)。
思い起こせば,若いころにポリーニの「ショパンの24の練習曲集」のレコード(ケースの帯に「これ以上、何をお望みですか?」というキャッチフレーズの付いたもの)を聴いてからというもの,このピアニストに絶えず注目してきた。今でも世界最高のピアニストの一人であろう。先の産経新聞の記事では,ポリーニのインタビューにおける発言も掲載されていたが,ポリーニは日本の聴衆などについて次のようにコメントしている。
「日本の聴衆は並はずれて丁重で、音楽も演奏家も大切にしてくれます。日本人の民主主義的な国民性や芸術に対する深い尊敬、優れた教育、礼儀が、そういう民主主義的態度を形成していると思えます。武満徹や細川俊夫のような現代作曲家を生み、映画などでも並はずれた芸術的感性を発揮していますね。」
今年2010年は,ショパンの生誕200年に当たる。ポリーニのショパン演奏は誠に素晴らしい。できるだけ最新のポリーニのショパン演奏の録音を物色してこよう。
芸術と言えば,俳句も日本の素晴らしい芸術世界,精神世界の一つである。日曜日の朝に何気なくテレビを見ていたら,江戸年間の尼僧俳人である田上菊舎の生き方とその俳句作品についての紹介がなされていた。得度していること,漂泊の旅を続けていたことなどから,種田山頭火にも一脈通ずるところがある。女性の身でありながら仏道修行と作句しつつの漂泊の旅。何が彼女をそうさせたのであろうか。テレビでは,菊舎の次の句が紹介された。滞在先で菊舎にまとわりつくほどに懐いていた可愛い女の子と,前年の暮れには年が明けて春になったらあちこちに花見をして回ろうとの約束をしていたのに,その女の子は急死し,その約束もかなわなくなった。その時の心境を詠んだ句であり,切々たる無常観にあふれている。
「花に遊ぶ やくそくむなし 野辺送り」
菊舎は,次のような句も残している。
「鐘氷る 夜や父母の おもはるゝ」
芸術めく秋に,少しばかり田上菊舎に関する本でも読んでみようか。
今日7月28日は,あのヨハン・セバスティアン・バッハの命日である。今年は没後260年となる。思い起こせば,僕にとってバッハの音楽は,自分の若い頃から初老の今日に至るまで,絶えず癒しの源泉であった。
昨年の7月28日もバッハの命日にちなんだ記事をこのブログで書いた。僕がいくら天才ブロガーといえども(笑),昨年のこの日に書いたバッハの命日にちなんだ記事以上のものはもう書けない。だから今日は,バッハの音楽に対する僕の偽らざる思いを,音楽評論家の加藤浩子さんの著作を引用する形で伝えたい。
実は以前にも1度,このブログで取り上げた著作に,「バッハへの旅」(加藤浩子著,東京書籍)というのがある。これは著者が,バッハ生誕の地であるアイゼナッハからその終焉の地であるライプツィヒまでの旅を綴った本で(写真家の若月伸一さんの写真が豊富に掲載),これ1冊でバッハゆかりの地を実際に旅した気分に浸れるし,バッハの伝記にもなっているし,音楽史や楽曲に関する知識も得られる。
この著作の随所に現れる表現内容からしても,バッハ及びその音楽に対するこの著者の心からの敬愛の情を窺い知ることができる。だから今日は,バッハの音楽に対する僕の偽らざる思いを,この加藤浩子さんの著作を引用する形で伝えたい(同書342~343頁の「あとがき」から)。
「バッハに導かれて、ここまできた。いつ出会ったか、記憶にないままに。けれど気づいてみたら、いつもバッハがいた。好きな作曲家は大勢いるのに、好きな音楽もたくさんあるのに、ふと佇んだとき、曲がり角にいるとき、いつもバッハがそこにいた。バッハはさりげなかった。そして強かった。・・・・・だがその足跡をたどればたどるほど、私はバッハの音楽へのかぎりない愛を、音楽を極めたい、その高みに上り詰めたいというたぎるような情熱を、感じずにはいられなかった。それがどれほど破格であることか。それはバッハに魅せられたひとりひとりが知っている。バッハに慰められたひとりひとりが知っている。行く手の見えなかった私がここまで歩いてこられたのも、バッハの強さの、破格さの、証明であるように思えるのだ。」
中学生の時も,高校生の時も,音楽の時間の歌のテストはとても苦手だった。僕は音楽自体はとても好きだったのだが,歌のテストだけは気が重かったし,恥ずかしかったのである。先生の伴奏に合わせて個室でテストされるのならまだしも,衆人環視,みんなの前で一人ずつというのはどうも・・・。
おとといの夕食の時,娘のあかねちゃんが,来週音楽の時間で歌のテストがあると言って何やら口ずさんでいた。そのメロディーを聴いてすぐにピンと来た。何と,僕が以前から好きだったヘンデルの「私を泣かせてください」というアリアである。どうやら,この歌のテストは生徒が2曲のうちから好きな方を選択できるようで,もう1曲はメンデルスゾーンの「歌の翼に」という曲だそうだ。あかねちゃんは,「私を泣かせてください」の方を選ぶとのこと。
「私を泣かせてください」というのは,とても佳い曲,美しい曲で,ヘンデルの歌劇「リナルド」の第2幕で登場する有名なアリアである。敵の魔術師に捕らわれたアルミレーナという女性が悲嘆にくれながら恋人を想って切々と歌う。その歌詞の冒頭は次のようなものである。
「私を一人で泣かせてください 過酷な運命に ため息をつかせてください 失われた自由に ・・・・・・」
あぁー,ヘンデルもいいよね。メロディーメーカーだわ。ヘンデルはバッハと同じ年(1685年)にドイツで生まれたが,ロンドンに渡って大活躍した。この歌劇「リナルド」はロンドンに渡って初めて世に問うた歌劇で,初演は大成功を収めたということだ。
あと,ヘンデルの歌劇のアリアでお勧めなのは,ご存知,「ラルゴ」という名で知られた「オンブラ・マイ・フ」である。これは歌劇「セルセ」第1幕第1場で出てくるアリアであり,そのメロディーの美しさはたとえようもない。それにしても,部活で真っ黒に日焼けしたボーイッシュなあかねちゃんが,「私を泣かせてください」を歌うとは。想像もできないし,仮に想像できたとしても思わず笑っちゃう(笑)。
昔はピアノを習う人の必須の教科書みたいになっていたのが,バイエルピアノ教則本である。僕が習い始めたのは遅くて,もう小学校6年生になっていた。当然そのころは,このバイエルピアノ教則本から入る。僕が使っていたのは,確か「こどものバイエル」という本で,随所に可愛らしい挿絵が入っているものだった。今でも自宅で晩酌をして少し酔っぱらってピアノでも弾いてやろうかという時には,バイエルを引っ張り出すことがある。そうすると,懐かしい昔の記憶が蘇るのである。
うちの娘もかつてピアノを習っていたが,やはりバイエルの教則本を使っていた。運指や基本的な技術を学ぶにはやはり格好の教材なのだろう。♯や♭が徐々に増えて,自然に音階も学べるようになっている。このバイエル教則本を作ったのがフェルディナント・バイエルというドイツの作曲家で,5月14日はこのバイエルの命日である。1803年生まれで1863年に亡くなっているから,時代としては今年生誕200年を迎えるショパンやシューマン,その1年先輩のメンデルスゾーン,その4年後輩のワーグナーらと同時代人である。僕も娘のあかねちゃんもバイエルの練習曲で学んだのである。
その娘のあかねちゃんも,もう高校2年生である。学校であった事など,食卓で娘からいろんな話を聞くが,どうやら学園生活は多少の気苦労もあるが,とてつもなく楽しいらしい。それに,興味のあるアーティストが,最近ではEXILEからUVERworldに移行しつつあるらしい。うちのカミさんの通報によると,少し前のある夜中に,あかねちゃんが寝言で絞り出すような声で叫んでいたらしい。翌朝,朝食時に「昨日,寝ながら絶叫してたよ。すごく恐い夢でも見たの?」とうちのカミさんが尋ねたら,どうやら学校でもとりわけ親しい同級生が転校することになったという夢を見て,悲しさのあまり叫んだということである(爆笑)。どうやらあかねちゃんは,学園生活を謳歌しているらしい。