実は以前から少しばかり気になっているものに,「調性格論」というものがあります。シェーンベルクの音楽のように調性を超えた無調音楽ならばともかくとして,普通の音楽には調性というものがあります。ほら,例えば,イ短調とか,ニ長調とか,嬰ハ短調とか,変ホ長調とかです。
そしてそれぞれの調には性格というものがあるとして,昔から「調性格論」なるものが議論されてきました。私がこういうことを初めて知ったのは,「マタイ受難曲」(礒山雅著,東京書籍)という本の中で,ヨハン・マッテゾンという音楽学者の「調性格論」に言及されていたからです。このマッテゾンという人は,私にとっては神のような存在であるヨハン・セバスティアン・バッハと同時代に生きた人です。
このマッテゾンの「調性格論」の一部から順不同に紹介すれば,次のようになっております。
ニ長調・・・幾分鋭く頑固,騒動,陽気,好戦的,元気を鼓舞するようなもの
イ短調・・・少し嘆く,品位ある落ち着き,眠りを誘うが不快なものは全くない
変ホ長調・・非常に悲愴,深刻に訴えかける,官能的な豊かさを嫌う
ロ短調・・・奇怪,不快,憂鬱,めったに用いられない
ヘ長調・・・世界で最も美しい感情を表現する,洗練を極める,寛大,沈着,愛,徳
ハ短調・・・並外れて愛らしい,哀しい,温和すぎる
嬰ヘ短調・・ひどい憂鬱,悩ましげに恋に夢中になっているような感じ,孤独,厭世
ト長調・・・人を引きつけ雄弁に語る,輝き,真面目,活発
ホ長調・・・絶望,死ぬほど辛い悲嘆,恋に溺れて全く救いのない状態
ト短調・・・最も美しい調性,優美,心地よい,憧れ
などなどです。肯定的なものもあれば,否定的なものもあります。その調性の個々の曲を思い浮かべると,確かに一理あるなと思える面もありますが,「えっ?」と思ってしまうものもあります。例えば,ショパンのバラード第1番は私が好きな曲で,ト短調だったと思いますが,マッテゾンの性格付けどおりでしょう。でも,ショパンの作品9の2の夜想曲(ノクターン)は変ホ長調ですが,マッテゾンの性格付けには違和感を覚えます(笑)。それに,バッハの「ミサ曲ロ短調」は畢生の大作であり,私はむちゃくちゃに好きなんですが,ロ短調の性格付けの悲惨なこと(爆笑)。
マッテゾン自身も,この性格論は主観的なものであり,曖昧な面を含んでいることは認めているようです。それに,実はマッテゾン以外の音楽学者の中にも「調性格論」を論じている人がいて(例えば,ミース,シューバルトなど),それこそ千差万別の性格付けです。でも,それもまた面白いと思います。花言葉だって,何か確たる根拠があるとは思えません。そういう意味では,「調性格論」もちょうど花言葉のような感じでしょうか。
すみません,またバッハの話ですわ。どうしても好きなんだから,仕方ないわね・・・。
インヴェンションという2声の初歩的な対位法を駆使した曲集がありますが,自分でも弾くことのできるものが多くて,身近に感じます。インヴェンションという曲集には素晴らしい曲ばかりが集められておりますが,私が昔から特に好きなのは,13番目のイ短調の曲が素晴らしいと思います。・・・泣けてきますよ,本当に。昔何かの本で読んだことがあるんですが,ある音楽評論家か演奏家だったかはもう忘れましたが,その人はこのバッハの13番目のインヴェンションを聴いて感動し,音楽の道に進む決心をしたそうです。
それからっと・・,バッハのパルティータ第1番のプレリュード,これも本当に素晴らしい。・・・泣けてきますよ,本当に。特にグレン・グールドで聴いてみてごらんなさい。バッハっていう人は,どうしてこういう美しい曲想が浮かぶのでしょうか。この美しいメロディーが頭から離れません。癒されるのです。
それからっと・・,「主よ,人の望みの喜びよ」という曲をピアノで聴いてみたのですが,・・・泣けてきますよ,本当に。さっきから本当に,お前は感情失禁か!と言われるくらい泣いておりますね(笑)。それくらい美しいメロディーなのです。もともとこの曲は,バッハの教会カンタータ第147番の「心と口と行いと生活で」の中にある声楽曲なのですが,ピアノで聴くのもまた素晴らしいと思います。この「主よ,人の望みの喜びよ」のピアノ楽譜はいろいろなものが出ていますが,何と言ってもヘス編曲のものが最高でしょうね。マイラ・ヘスというイギリスの女流ピアニストが編曲したものが一等味わい深いと思うのです。
秋の夜長,CDで聴くのもいいでしょうし,私が挙げた以上の3曲,ユーチューブでもアップされておりますので,是非聴いてみてください。・・・泣けてきますよ,本当に。
朝晩は少し肌寒いような季節になってきました。私はいよいよ元気です。前にもこのブログで書いたことがあるような気がしますが,音楽を聴くとしても,真夏など暑くてたまらないような日々にはせいぜいバッハかショパンが精一杯です。ブルックナーとかマーラーを蒸し暑い真夏に聴かされたら,辛いです(笑)。でも,秋や冬のような季節には,こういった曲もむしろじっくりと聴きたい気分になります。
ブルックナーの交響曲はどれも長大で重厚ですが,本当に魅力的です。いわゆるブルックナー開始と言われる弦の幽玄な響き,大自然や宇宙を思わせるような雄大な構想とメロディー,期間が長いか短いかは別として,ブルックナーの交響曲の世界に凝ってしまう人も多いのではないでしょうか。彼の交響曲を聴いていると,彼の物事に対するとらえ方や心構えがとてつもなく大きく,気宇壮大な感じがします。些末なことでクヨクヨするなと励まされているかのような・・・。
ずいぶん前になりますが,あるドイツ人の夫婦が,ブルックナーをめぐって結局は離婚問題に発展し,実際に離婚したという記事を読んだことがあります。奥さんがとにかくブルックナーの曲が大好きで,自宅では四六時中ブルックナーの音楽を流し(夜の寝室においてもです。),夫の方がもうイヤだと,堪忍袋の緒が切れてしまったようです。この実話では,私はむしろ夫の方に同情しますが(笑),その一方で,それだけブルックナーの交響曲の魅力も否定できないという気もします。彼の曲にはそういう何かがあるのですよ。
ブルックナーの交響曲では,やはり第4番(ロマンティック),第7番,第8番,そして円熟の極みである第9番(この第4楽章は彼の死の直前まで作曲作業が続けられていたのですが,未完に終わっております)などが好きです。その中で1つだけ今聴かせてあげるといわれたら,第8番(ハ短調)を選ぶでしょうね。
昨日は,ある地区の小中学校連合音楽会に行ってきました。私の所属しているロータリークラブは,この地区のこの連合音楽会を25年間にわたって協賛してきたそうです。そして昨日は,大きなステージでの晴れ舞台,小中学校の若い人たちの生の演奏を楽しんだのです。仕事の都合で一部しか鑑賞できませんでしたが,素晴らしい演奏でした。吹奏楽あり,合唱あり。
それにしても音楽活動に参加している若い人たち(小中学生)は元気で,本当に楽しそうですね。目が生き生きとしています。やはり音楽というものの力を感じます。ロータリークラブは職業奉仕だけでなく社会奉仕をしているのですが,こういう若人の音楽会に協賛できることは本当に嬉しいことです。このステージに立っている人の中には将来音楽で身を立てる人もあるでしょうし,そうでなくても,こよなく音楽を愛し,生活の一部に音楽を取り込み,精神的に凹むような出来事があっても音楽に癒しを求めたり,音楽で元気を回復していけるような大人に成長することでしょう。
話は少し変わりますが,この連合音楽会に参加した子供達は,その置かれている音楽環境には様々なものがあるでしょうが,概してその環境は恵まれているでしょう。音楽に対する関心,興味を持てば,満足のいくまで追求していくことができます。でも,あのバッハやヘンデルの幼少時代は必ずしもそうではなかったようです。バッハは9歳から10歳にかけて,相次いで父母を亡くし,一時期は長兄ヨハン・クリストフ・バッハのやっかいになっていたのですが,この兄は弟バッハの音楽的な急成長をどう感じたのか,バッハの懇願にもかかわらず,有名な作曲家の楽譜を見せてあげず,この楽譜を鍵のかかる戸棚に隠してしまったのです。何とかその楽譜を見ることができたバッハは,夜中に月の光で何か月もかけて苦労して写譜をしたのです。音楽に対する渇望です。
一方,ヘンデルの方はというと,その父はヘンデルが法律家になることを強く希望していたため,ヘンデルが音楽に関心を示したり,没頭することを嫌い,家の中にあった楽器という楽器を全部屋根裏部屋に移動させ,ヘンデルが楽器演奏をすることを禁じました。でもヘンデルは,音楽に対する興味を抑えきれず,父に内緒でこっそりと屋根裏部屋に忍び込み,そこにあったチェンバロを弾いたのです。これも父に見つかり,父はチェンバロを家から無くしてしまいます。ヘンデルはそれでも友人の家のチャンバロを弾かせてもらっていたのです。やはり音楽に対する渇望です。
昨夜は自宅で夕食をとってから,好きなお酒を一滴も飲まずにすぐにバッハの音楽を聴き始めました。中断してお風呂に入り,再びバッハの音楽を聴きながら眠りにつきました。7月28日はバッハの命日ですので,その前夜私はバッハの音楽にじっくりと浸りたかったのであります。
昨夜はバッハのいろいろな音楽を聴きましたが,やはり涙が出てきました。特に,「ミサ曲ロ短調」の最終曲である「平和を我らに与えたまえ(ドナ・ノヴィス・パーチェム)」の時にはあふれましたね。バッハの音楽は魂に語りかけるような,魂を揺さぶるような深遠な音楽なのです。バッハは,音楽の究極の目的は神をたたえることと魂の再生だと考えていたようです。私はキリスト者ではないので,その意味からすると,たとえバッハの音楽に感動したとしても,キリスト者のそれの半分くらいの感動の度合いなのかもしれませんが,自分自身バッハの音楽で心から癒され,魂の再生をはかるきっかけが与えられることは間違いありません。
最終的には,バッハの音楽が好きならば自分だけがその深い森の中で癒されていれば良いのですが,どうしてもバッハの良さを伝えたい衝動もあります。ただ,私のように楽理的なことも分からず,音楽史の研究をしたこともないような者がいくら声高に叫んでも説得力がありませんので,これは数枚のDVDに登場する何人かの人のコメントなのですが,それを紹介したいと思います。
① 生物学者 ルイス・トマス
→ 宇宙,そして地球外の生物に送り届けたいメッセージや人類の誇るべき宝は何かと言われれば,それはバッハの音楽だ。
② ピアニスト ジョアンナ・マクレガー
→ バッハの音楽がない世界はあり得ないのです。
③ 歌手 ボビー・マクファーリン
→ バッハのメロディーはすごいんだ。聞くたびになぜか涙があふれる。魂に届くんだよ。「2つのヴァイオリンのための協奏曲」の第2楽章を初めて聴いた時,涙が止まらなかった。
④ 音楽学者(ハーバード大学教授) クリストフ・ヴォルフ
→ バッハの楽曲は実に多様性に富み,知性と豊かな感情を併せ持っています。私を魅了して止みません。
⑤ 音楽学者 ジョシュア・リフキン
→ 彼(バッハ)の音楽は語りかけてきます。仲間内に1人だけいる少し変わった人のように・・・「僕は流行とは違うかもしれない。人気もないかもしれない。でも信じてほしい。信じてくれれば,あなたの人生を変えますよ。」とね。
弁護士の感じるストレスにもいろいろなものがあるでしょうが,事件処理の見通しがなかなか立たないことにストレスを感じることもありますし,最近では仕事がなかなかはかどらないことに対するストレスも,これまたなかなかのものです(笑)。そういう訳で,せめて仕事以外の時間帯では癒されたいとの気持ちから,バッハの音楽世界(深い森の中)に入って行ってしまうのです。
ごく最近,佳い音楽DVDを入手できました。トン・コープマン指揮,アムステルダム・バロック管弦楽団・合唱団の演奏による「バッハ:カンタータ集 全6曲」というDVDです。全6曲のうち,5曲は教会カンタータで,もう1曲は「コーヒーカンタータ」という名で有名な世俗カンタータ(おしゃべりはやめて、お静かに)です。5曲の教会カンタータは,56番(われは喜びて十字架を負わん),106番(神の時こそいと良き時),131番(深き淵より、われ汝に呼ばわる、主よ),140番(目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声),147番(心と口と行いと生きざまもて)です。
どうですかねえ,200曲近くあるバッハの教会カンタータの中でたった5曲を選べと言われたら本当に困りますが,私の中で当選確実なのは140番(目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声)と147番(心と口と行いと生きざまもて)ですが,その他はとても選び切れません。でも,このDVDに収録されている曲はどれも素晴らしいと思います。
トン・コープマンという人は,一言で表現しますと,求道者という表現がピッタリです。バッハのカンタータ全曲録音という偉業を達成しておりますし,その研究熱心さは半端ではありません。この人は,昔から,「バッハの弟子でありたい」と公言してきたことからも分かりますように,本当にバッハが好きなのでしょうし,古楽器演奏を追求しています。
「バッハ=カンタータの世界Ⅰ 教会カンタータ アルンシュタット~ケーテン地代」(東京書籍)の中で,トン・コープマンは次のように述べております(364ページ)。
「幸い、メンゲルベルク,リヒターのようなバッハの演奏は、もはや過去のものとなっている。といって、われわれは、知ったかぶりになるつもりはないし、警察官を気どりたいわけでもない。われわれが望むのはただ、バッハがわれわれの肩をたたいてこう言ってくれることだけである。『君たちは、私の考えていたことが何であったかを誠実に探してくれた』、と。」
古楽器演奏の追求により,バッハの作品が,バッハの時代に鳴り響いていたのと同じやりかたで再現されるのは好ましいことでしょう。その意味でも,トン・コープマンは求道者なのでしょう。ただ,私は,カール・リヒターの演奏もこよなく愛しております。リヒターのような演奏が過去のものになってしまったとの評価には違和感を覚えますし,それが「幸い」とは思いません。どちらの演奏も佳いのです。それにしても,トン・コープマンの指揮ぶりは,ユーモラスで,ひたむきで,ほほえましさを感じます。
またバッハのことか,と言わないで読んでいただきたいと思います。私がクラシック音楽を聴くとき,最近ではもうバッハの曲が90パーセント以上になってしまっているのではないでしょうか。自分の中ではバッハは神様のような存在ですし,癒しの源泉なのです。そのバッハの曲の中でも,かねてから「凄み」というものを感じている曲があります。
「凄み」とひとことで言っても分かりにくいでしょうが,この場合の「凄み」の意味というのは,魂の深部に語りかけるような内省的な音楽であること,バッハと同時代の音楽家でも後生の音楽家でもまねが出来ないような独創性があること,今聴いてもちっとも古さを感じない斬新さがあることなどでしょうか。最近でも繰り返して聴いているバッハの曲の中で,特に「凄み」を感じている曲を3つほど挙げてみたいと思います。
第1は,ミサ曲ロ短調の終わりから2番目の曲,「アニュス・デイ(神の子羊)」です。アルト独唱で,低音域が中心の沈鬱なメロディーで,ためいきの動機が繰り返されます。魂の深部に語りかけるような内省的な音楽で,こういう旋律は誰にもまねが出来ないでしょう。その後に続く終曲の「ドナ・ノヴィス・パーチェム(平和を我らに)」の平和的で安らかな旋律とは好対照ですが,この曲の旋律も何故かずっと頭に残る素晴らしいものです。本当に凄みというものがあります。
第2は,平均率クラヴィーア曲集第1巻の第24番のフーガです。この曲集の最後を締めくくるのに似つかわしい雄大な構想のフーガで,その半音階的進行には斬新さがあり,これもバッハならではです。やはり凄みを感じます。
第3は,無伴奏チェロ組曲第5番のサラバンドです。最初に聴いた時は,何と不気味な曲だろうと思ったのですが,何度も聴いていると,これも魂の深部に語りかけて内省的ですし,独創性,斬新さが半端ではありません。あのムスティスラフ・ロストロポーヴィッチがこの曲をこよなく愛していたそうです。
この3曲などは特に頭の中に残っているのですが,いずれにしてもバッハは凄いのです(笑)。
前にもこのブログで書いたことがありますから,二度目というのは気が引けますが,童謡・唱歌の「ふるさと」という曲は,本当に佳い曲ですね。つくづくそう思います。
「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき ふるさと 如何にいます 父母 恙 無しや友垣 雨に風につけても 思い出ずる ふるさと 志を 果たして いつの日にか 帰らん 山はあおきふるさと 水は清き ふるさと」(作詞/高野辰之,作曲/岡野貞一)
私も幼少の頃,約2年間,熊本県の田舎でのんびりと過ごした経験があります。このふるさとという曲を聴いてじーんとくるのは,その当時目に焼き付いた田舎の風景が私自身の原風景として残っているからでしょう。でも,私だけでしょうか。都会育ちでも,田舎育ちでも,この歌詞に出てくるような風景は日本人誰もが有している心象風景なのではないでしょうか。
「世界三大テノール」として有名,しかも親日家(来日は20回以上)であるプラシド・ドミンゴさんは,この4月に来日し,東京・渋谷のNHKホールでのコンサートのアンコール曲として,この「ふるさと」を日本語で唱われたそうです。本当にありがたいことです。東日本大震災や,福島第一原発の事故などで,海外のアーティストによるコンサートのキャンセルが相次ぐ中で,このドミンゴさんは,「来ないつもりは全くなかった。震災を前に音楽ができることはほとんどないが,音楽はつかの間であっても人を幸せにできる。悲しみや苦しみを忘れさせることができる。」と話されたそうですし,日本の悲劇をワシントンで知り,総監督を務めるワシントン・ナショナル・オペラでの公演前,「君が代」を演奏してくれたということも伝えられています(産経新聞)。
ドミンゴさんは,アンコールでこの曲を選んだ理由を,「ノスタルジックで誰もが知る曲と聞いた。日本語の曲を歌ったことはあるが,今日は特別な意味があった。いつの日か強い気持ちになれる日が来ると信じています。」と述べられたそうです。
そして,ドミンゴさんが日本語で「ふるさと」を歌い始めると,約3600人の聴衆からはどよめきが起こり,やがて聴衆全員が総立ちになって合唱し,多くの人は泣きながら唱っていたそうです。
バッハの教会カンタータ第22番「イエスは御許に十二弟子を招き寄せ」の第5番目(最終曲)のコラールは何と癒される曲なのでしょう。思わず何度も何度も繰りかえし聴いてしまいました。美しいメロディーの四声部からなる合唱(コラール)を支えているのは,特にオーボエと第1バイオリンで,このリズムとメロディーはどことなく人間の着実な歩みの様を彷彿とさせます。
このコラールの歌詞の中に,「起こし給えわれらを、御身の御恵みもって」(訳:松浦純)というのがあります。このような歌詞と,人間の着実な歩みの様を彷彿とさせリズムとメロディーを聴いていると,いったんは打ちのめされた人間が復興していくための勇気も与えられます。本当にバッハは佳い曲を作ってくれたものです。
ドイツは無条件降伏,日本はポツダム宣言の受諾をして終戦を迎えたのですが,辺り一面は無残な焼け野原,廃墟です。しかしながら,日本は終戦後わずか13年しか経っていない1968年にはGDP(国内総生産)で世界第2位になり,見事な復興を遂げています。またドイツも,焼け野原の数年後には世界のトップ3に入る復興を遂げました。4月8日付けのウォール・ストリート・ジャーナルのウェブサイトには,このたびの東日本大震災に寄せて,次のような記事を掲載されています。
「(ドイツの戦後復興の記事を受けて)日本人は深夜も働き続けたドイツ人によく似ている。社会における教育と愛国主義への重視も突出している。この国は土地が狭く、自然資源も乏しいのにこれほどの繁栄を成し遂げたのだ。だが、最も強大な資源は『日本人』という国民だ。彼らはほぼ全員が優れた教育を受け、目標を成し遂げようとする強い意志を持っている。常に革新の精神を持ち、心の底から国の盛衰興廃に関心を寄せているのだ。」
時の政権担当者の有能・無能の違いによって遅い・速いの違いがでてくるのは仕方ありませんが,東日本は必ず復興すると確信しています。
まず初めにお断りしておきますが,音楽好きの私は,どの音楽家も心から尊敬しております。ただ好みの問題として,個々の曲には好きかそうでないかの違いはもちろんありますし,音楽家(作曲家)の作風についても若干そういうところはあります。
今年は西暦2011年ですから,作曲家であり著名なピアニストであったフランツ・リスト生誕200年記念の年です。ですからリストは,昨年生誕200年を迎えたショパンやシューマンより一歳年下ということになります。今年はリスト生誕200年を記念して何らかのイベントやコンサートが開かれるでしょうね。
リストはそれはそれはすごい超絶技巧をもったピアニストだったようです。テクニック的にはその当時右に出る者がいなかったほど。ですからリストは「ピアノの魔術師」とか「鍵盤の王者」などと呼ばれていました。「ラ・カンパネラ」とか「超絶技巧練習曲」とかの彼の作品からすればそのテクニックの凄さを窺い知ることができます。実際にそれを作曲し,聴衆の前で演奏していたのですから。そういえば,リストの曲を得意としていたピアニストを振り返ってみても,ジョルジ・シフラ,スビャトスラフ・リヒテル,アンドレ・ワッツといったテクニシャンぞろいです。
でも私は,リストの曲は最近では聴く機会が少なくなりました。昔からそれほど多くもありませんでしたが。はっきり言うと,感動があまりないのです。「超絶技巧練習曲」なんかを聴いていても,技巧面ばかりが強調されているような気がして,「詩」を感じないのです。リストのファンには申し訳ありません。
同時代のショパンは「ピアノの詩人」と呼ばれているように,たとえば「12の練習曲」(作品10),「12の練習曲」(作品25)を聴いていて,感動しますし,詩的で「詩」を感じます。「詩人」のショパンの方を私は好むのです。あの名指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーもショパンの曲を大いに評価し,自ら奏でていたとその夫人が伝えておりました(エリーザベト・フルトヴェングラー)。また,どのピアニストも旧約聖書のように評価,練習しているであろうバッハの「平均率クラヴィーア曲集」のどのプレリュード,どのフーガにも詩的なものを感じるのです。