私は朝刊は産経新聞と讀賣新聞を購読しております。対局する棋士によっては将棋欄も読むことがあり,産経新聞は棋聖戦,讀賣新聞は竜王戦の棋譜を掲載しております。
加藤一二三という棋士は私は昔から関心がありました。居飛車一辺倒の攻め将棋という棋風は昔から好きで,私が高校生や大学生の時はよく加藤一二三さんの棋譜を並べたりしていたものです。「加藤一二三名局集」という本も持っています(笑)。
さて,先日の棋聖戦(産経新聞)では,加藤一二三さんとしては本当に惜しい局を落としてしまいました。「トン死」というやつです。「トン死」というのは,将棋で,自分の王将の詰みを見落として詰まされて負けてしまうことを意味します。この局では,加藤さんは終局の5手前までは圧倒的な優勢だった,そして勝勢といってもいい状況だったのに,自玉の即詰みを見落としてあっという間に負けてしまったのです。加藤さんのような超ベテラン(72歳)で1308勝という史上第2位の実績のある棋士でも,「トン死」を喰らうことがあるのですね。本当に勝負というものは下駄を履くまで分かりません。
それにしてもその局の観戦記者の記事が本当に面白い。ちょっと引用してみましょう(この時点では加藤先生が絶好調で,圧倒的な優勢の場面です)。
「この一連の好手順の間、加藤はまるでディスコのDJみたいにノリノリだった。体を揺らして踊るようなしぐさ。朗らかな声で、得意の『あと何分ですか』にはじまり、『これはカキクケコですね』『こうする、すると相手がこうする。そしてビシッ』としゃべり続ける。ビシッと言う時には右手で指すポーズまでしていた。」
『カキクケコ』というのが私にはよく分かりません(爆笑)。それに対局の相手に聞こえるようにしゃべるのですから(笑)。でも私は,加藤一二三という棋士の将棋が昔から好きで,求道者のようなその姿勢を尊敬しておりました。ただ,対局マナーは揶揄の対象になったりして,その点ではファンとしても苦笑いなのです。でも憎めないところがあるのです。加藤先生のエピソードとして有名なのは,次のようなものです。
・カルピスを魔法瓶に2本作ってきて,あっという間に飲み干した。
・板チョコを10枚ほど対局中に用意して,バリバリ食べ始める(それも2枚重ねて)
・王位戦の昼食休憩には「すしにトマトジュース,オレンジジュースにホットミルク,さらには天ざるを注文する」
・対局中に両膝で立ってズボンをずり上げる。
・結んでいるネクタイが畳に付くくらい異常に長い。
・対局中に相手棋士の背後に回り,盤面を眺める。
・名人戦で詰みを発見し,「ウヒョー!」と言って喜ぶ。
・対局中に10数本のバナナを,房から取らないまま全部平らげる。 などなど
憎めないでしょう(笑)。でもね。棋士としては魅力的なんですよ。もう現役最年長になられましたが,ますます頑張っていただきたいと思います。というのも,私が将棋に熱中していた高校時代に大活躍され,棋譜を並べていた棋士としては,例えば升田幸三,大山康晴,加藤一二三,有吉道夫,内藤國雄,米長邦雄,中原誠など錚々たる棋士が名を連ねておりましたが,もう現役は加藤先生だけですもの。
本当に紅葉の美しい季節となりました。改めて思いますのは,一年というのは本当に短いな,早いなということです。
そして,これまた改めて思いますのは,自分が太ってしまったなと実感するのは,季節の変わり目に一年ぶりに身につけるズボンが窮屈になった際です。もういい歳なんだから,年々太っている場合ではないのです。育ち盛りじゃないんですから(笑)。
何だかとりとめのない話ですが,とりとめのなさついでに,産経新聞社が出している「正論」という月刊誌は,本当に素晴らしい本だと思っております。わずか740円であれだけの充実した内容に接することができるんですもの,ホントに安いです。ランチ一食分(例えば,白身魚フライ定食)と同じくらいです。秋の夜長,もうすぐ冬ですが,くだらないテレビ番組(芸能人の内輪話やマンネリ化したクイズ番組,よそ様の家庭内を野次馬根性で覗くような番組,飲食店のメニューをムダに食い尽くすような番組,バイアスのかかった反日番組,いわゆる韓流のごり押しなどなど)を見ているヒマがあったら,「正論」を読むべきです。素晴らしいコンテンツです。
さて,その「正論」の中のコーナーの一つに「根源へ-草舟立言」というインタビュー記事があり,執行草舟氏の発言が掲載されております。今回は「老いについて 前篇」というもので,大変興味深く読みました。私のような年齢になりますと,「老い」というものをどのように受け入れ,どのように老いていくべきか,死というものにどのように向き合うのかということにも関心がありますが,こういった記事は大変参考になります。
この記事の中には,辞世という言葉が出てきました。ちょっと引用してみます。「常に死を意識して生きろということですね。それによって生き方の根本が固まっていく。・・・キリスト教も武士道も、崇高なるものを目指す非日常を、日常生活の中にもたらしていたのです。その非日常を、形に現しているもののひとつが辞世の慣習なのです。自己の生き方と、その帰結としての死に様を歌や句として残しておくのです。武士だけでなく、格式のある商家や農家の人も辞世を詠んでいます。辞世を詠まないで死ぬことは恥だったのです。だからあらかじめ用意していました。」(月刊「正論12月号」184頁)
なるほどね。それで辞世には名句,名歌が多いのですね。
「願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」(西行)
「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」(良寛)
いずれも素晴らしい。良寛の句は,葉の裏も表も全てをさらけ出して,人生を全うしてこの世を去っていくということでしょうか。なお良寛は,辞世として次のような歌も残しております。
「形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」(良寛)
やはり紅葉(もみじ)ですよ。秋はね・・・。
その日というのは昨日の日曜日なのですが,その日はもう,散々なゴルフでした。自分が嫌になるような・・・(笑)。
約2か月ぶりにゴルフに出かけました。お天気もよく,同伴者も気が置けないメンバーばかりで,楽しみにしていたのですが,近来まれに見る悪いスコアだったのです。いつも口に出すだけで実行に移せなかった「練習」というものを,いよいよ本格的にやっていく時期が来たようです。
日曜日の晩は,家族で鍋をつつきながら楽しく過ごせたのですが,布団の中に入ってさあこれから寝ようとする時に,その日のゴルフのことが脳裏をよぎりました。このままだと悲しくて枕を涙でぬらすことになると思い,自分のゴルフの将来を明るいものにするために,寝つく前に反省というものをしてみました(笑)。
その結果,ボールの捉え方が特にひどかったことに思い至りました。簡単に言うと,その日の自分はボールを強く速くひっぱたくようなスイングだったのです。これではダメです。バックスイングとリリース後のスイングの速さが同じくらいで,力まず,ゆっくりと,しかもボールをクラブのフェイス面で「しっとり」と捉えるような感じて打てばよいと思いました。それができている時は良いショットが出ているのですから。強く速くひっぱたいてはいけないのです。強く速くひっぱたくようなスイングですと,ドライバーもアイアンも,そしてサンドウェッジによるアプローチも予測不可能な方法へボールが飛んでしまうのです。いわゆるシャンクともまた違うような・・・。ちょっと練習場で自分のこの「反省」が正しいのか検証してみたいと思います。
でもこの日のラウンドは救いというものがありました。若いキャディーさんの仕事ぶりがとても良かったのです。スタートまでに時間があったので,さてこれからゴルフ場内の練習場で軽く練習しようと思っていましたら,意を察してか,すかさず「練習場までお送りしましょうか。」と言って,カートで送ってくれたのです。まことに感じの良い対応でした。
そしてラウンド中に付いてくれたキャディーさんは,仙台出身。この春に地元の高校を出て4月からこの仕事を始めたとのこと。キャリアが短い割りには,ベテランと遜色がないような見事な仕事ぶりでした。東北の人は我慢強いといいますが,一生懸命に仕事をし,運動量も豊富で,気立てが優しそうでした。ラウンド後の礼儀正しさも素晴らしい。この日の自分のスコアは惨憺たるものでしたが,キャディーさんたちの良い仕事ぶりに救われました。もう一つ救われた思いがしたショットがございました(笑)。ホールの位置も見えない深いバンカーからのショットがうまくいき,ピンそば40センチまで寄せることができたのです。
数少ない会心のショットを自画自賛している間があったら,一生懸命仕事をして,暇を見つけて本格的な練習をしなければなりません。
実はですね,私はですね,本当に珍しいことに月曜日から水曜日までの3日間,全くお酒を飲んでおりません(笑)。これは最近では快挙といってもよいくらいです。それくらいここ数日は忙しかったのです。特に弁護士として裁判所に提出するいろいろな書面の作成ラッシュが続いていたのです。
年を取りますとね,長い書面の作成は辛いときがあるのですよ。それに書面の作成だけではなく,電話連絡,打合せ,交渉などなど・・・。忙しさやストレスは職業人である以上避けられませんので,バッハの音楽やゴルフ,ジャイアンツの応援,家族との団らん,読書(このたび「今昔物語」を読み始めました。),友人との楽しいお酒などで気を紛らわしながら乗り切っていくしかありません。
9月のある日,同業の弁護士さんで私とそれほど年齢の違わない先生が急逝されました。本当に驚きました。全く突然のことでした。その先生は,私の知るところ,本当に包容力があり,優秀で,淡々としていて,正に「人物だな」と思える人でした。心からご冥福をお祈りいたします。
このようなこともあり,人生の無常を改めて痛感した次第です。日常業務に埋没している昨今,「死」というものをどのように捉えるべきなのか・・・。日々の業務には辛い面もあるけれども,どんなふうに生きていけばよいのか。最近読んだ本の中に,とても印象に残る一節がありました。その本は「日本破滅論」(藤井聡,中野剛志共著,文春新書)という本で,藤井聡さんの発言の中の一節です。ちょっと引用してみましょうね。
「・・・・・ハイデガーの『存在と時間』は一つのヒントになります。この本の重要なモチーフは、最終的に人間は、本来的な人間と非本来的な人間の2種類に分かれるということです。そのあり方を時間性について言えば、本来的な時間性と非本来的な時間性です。本来的な時間性に生きる人間とは何なのか。死を十二分に理解している人、死に対して先駆的に覚悟する人だと彼は言います。自分が死ぬことを、そこにコップがあり水があるように、当たり前のように認識している人です。一方、非本来的な人間は、死を予期できません。自分が死ぬと理屈ではわかっていても、肝ではわからない人は、非本来的な時間性のうちに生きているんです。ハイデガーは次のように議論を展開します。人間の道徳的な退廃は、自らの死を認識することができないことに起因する。この現実の中で、この大地の上でしっかり生きていこうという覚悟は、自らの死の認識から芽生えてくる。自分が死ぬとわかっているからこそ、今のこの時間を一生懸命に生きることができる。逆に、死を考えていないと、昨日のことが今日も続き、今日のことが明日も続くというように、無限にのんべんだらりと生きる人間になってしまう、と。」(同書21~22頁)
弁護士として,何とか人の助けになることのできるやりがいのある仕事に携われているのですから,「死」に対して先駆的に覚悟し,本来的自己,本来的時間性の中で生きていくしかありません。本日は,柄にもなく真面目にまとめてみました(笑)。
いや,本当に感動しました。10月28日(日)の天皇賞(秋)は天覧競馬,すなわち天皇皇后両陛下がお出ましでした。そして,このレースでイタリアのミルコ・デムーロという騎手が,日本のエイシンフラッシュという馬に騎乗して見事優勝を果たしたのですが,レース後にメインスタンドに戻ってくると,手をお振りになって祝福される天皇皇后両陛下に対し,下馬してヘルメットを取り,右膝を付く跪座で最敬礼をしたのです。その見事な礼節,振る舞いに対し,会場はどよめきと,大歓声です。本来は本馬場で下馬してはいけないことになってはいるのですが,彼は天皇皇后両陛下に心からの敬意と感謝の念を示したかったのでしょう。本当に感動しましたし,涙さえ出てきました。「ミルコ・デムーロ」で検索すれば,その時の動画もアップされていますよ。
このミルコ・デムーロというイタリア人騎手は,割と日本でも馴染みが深く,「私が一番好きな国はイタリア。次が日本。」というのが口癖で,新幹線で東京駅に到着した際には,丸の内の皇居方面に向かって必ずお辞儀をするそうです。この騎手は,去る日曜日の天皇賞(秋)の優勝の際に「両陛下がいらした特別な日に,勝つことができてとてもうれしい。」とコメントしています。そして,ウイニングランの際には両手でハート形を作って観衆に応えました。彼のコメントによると,このハートの形は「I LOVE JAPAN 日本のみなさんを愛しています。特別な日に勝つことができて,本当にうれしい。僕の日本に対する感謝の気持ちを表した」という意味だそうです。
このイタリアの騎手は,実は昨年の東日本大震災の直後に行われたドバイワールドカップにおいて,日本の馬であるヴィクトワールピサに騎乗して見事に優勝を果たし,レース後のインタビューでは,東日本大震災という惨事に言及し,「今日は日本人のために朝から祈っていました。ドバイワールドカップを勝てるなんて信じられない。日本を愛しています。ありがとう。」と涙ながらに語っていたそうです。
外国人騎手の中にもこういう親日的な人がいたとは。そして,天皇皇后両陛下に対する心からの敬意,彼には伝統の騎士道精神が宿っているのかもしれません。
それにしても,デムーロという騎手の見事な礼節,振る舞いを目にして,そしてそれに感動した場内の観衆の大歓声を耳して,不覚にも泣けてきたのはなぜなのでしょうか。日本人にとって天皇皇后両陛下の存在はやはり何物にも代え難く,そういった認識はやはり自分だけではなく,みんなも同じなのだという心からの共感が得られたからだと思いますし,歴史と伝統を重んじるイタリア人騎手のこのような礼節,振る舞いを見るにつけ,彼から改めて日本における天皇という存在の有り難さを教えてもらったような気がします。
このブログでもよく登場しますが,私は岸信介という政治家をとても尊敬しております。その長女が洋子さん,その婿が亡き安倍晋太郎(元外務大臣),その子が安倍晋三です。ですから,岸信介は安倍晋三の母方の祖父ということになります。
岸信介という政治家は,三木武吉らと努力の末に,その後の日本の発展の礎となる保守合同を成立させ,そして文字通り命を賭けて,3万人のデモ隊に囲まれながらも「声なき声」の存在を確信して安保改定を成し遂げた政治家です。国士といっても良いでしょう。岸信介の政治家としての器と凄さと能力は,今の売国的な民主党政権を構成している政治家とは全く次元が違います。比較するのも本当に失礼なくらいです。菅とか野田とかいった連中が,よく「命がけで」などという言葉を連発し,もはやインフレ状態ですが(笑),彼らの「命がけで」という言葉は鴻毛より軽い。実際に岸信介は退陣の直前に暴漢に刺され,瀕死の重傷を負っております。文字通り命がけだったのです。
文芸評論家の福田和也は,岸信介という政治家のことを「本物の責任感と国家戦略を持った戦後唯一の総理」と高く評価しております。そこで私は,福田和也の「悪と徳と-岸信介と未完の日本」(産経新聞出版社)という本を読もうかなと思ったのですが,今回は工藤美代子の「絢爛たる悪運 岸信介伝」(幻冬舎)という本にしました。本当に感動しました。
でも今日は,岸信介という政治家の良き家庭人としての一面を彷彿とさせるエピソードを,この「絢爛たる悪運 岸信介伝」(工藤美代子著)という本の中から引用して締めくくりましょう。これは長女洋子が幼少の頃,父信介から可愛がってもらい,面白い話を聞かせてくれた時のことを回想した一節です。
「中野の家では夏の夜など、兄と私を蚊帳の中に呼んで大仰な身振り手振りでおとぎ話なんかをしてくれました。欲張りな和尚さんが小僧に隠れてお餅を食べるお話です。安念と珍念という小僧はいつもふたりがお使いに出されると和尚さんがお餅をこっそり食べているのに気がついて、自分たちの名前を『ぽてぽて』と『ふうふう』に変えて欲しいと頼むんです。ある日、ふたりをお使いに出すと、和尚さんはさっそくお餅を囲炉裏で焼いて食べ始めました。餅についた灰を払うためにポテポテと手を叩いたところ、隠れていた安念が『はアい』と出てきました。仕方ないので餅を安念にやって、次の餅は叩かずに口に入れたら熱いのでフウフウとやったら、隠れていた珍念が『はアい』と言って出てきて餅をせしめた、というお話です。いつも同じ話なんですが、父の話しぶりがおかしくてなんべん聞いても面白かったものです」(97頁)
さくら「・・・今日のバイキングは中華料理が中心ね。」
ひみ子「ええ,『日本の』中華料理はとっても美味しいわね。特にこのホテルの青菜炒めと酢豚は大好きなのよ。・・・あれっ?あなた,その美味しそうな料理,何でピーマンだけ残してるのよ。」
さくら「・・・ばれた?私ね,子どもの頃からピーマンが苦手なのよ。」
ひみ子「へぇ,そうだったの。長い付き合いだけど,気付かなかったわ。・・・でもさ,苦手といったら,私ね,最近つくづく中国という国は本当に苦手だと思い始めてるわ。」
さくら「ホントよねぇ。中国って国は,自分の気に入らないことがあると,相手の国に対して露骨に不機嫌な対応を見せつけさえすれば,相手国の方が態度を改めるだろう,みたいな驕り高ぶった気分があるんでしょうね。そういえば,『不機嫌な中国』というタイトルの本を書店で見たことがあるような・・・」
ひみ子「つい最近も,台湾のオーケストラ『台湾国家交響楽団』が11月に中国公演をするために中国政府にビザ発給を求めたそうだけど,その全楽団員のうち日本人3名だけにはビザ発給を拒否したっていうじゃないの。それに最近じゃ,中国政府は日本人に対してはビザ発給を停止するとかいってるし,日本からの輸入品の通関業務をわざと遅らせるとか,東京で開かれた国際通貨基金(IMF)と世界銀行の年次総会には,わざと中央銀行の総裁や主要銀行の首脳を欠席させたり,ありとあらゆる嫌がらせを日本に対してしてるのよ・・・。バカよねぇ,日本の精巧な部品などが輸入できなければ中国の生産はたちどころに影響を受けるのに・・・」
さくら「そうよね。ホントに酷いわね。」
ひみ子「・・・そうそう,文句ばかり言ってたら,お腹が空いてきちゃった・・。ゴマ付きの揚げ饅頭でも持ってこよっと。」
さくら「ええっ!だってあなた・・・,あれだけ食べたのに・・。」
ひみ子「いいってことよ。私だって,確か今年の春ごろだったかしら,このホテルであなたが食べ過ぎて,ブラウスのボタンが1個はじけ飛んだ歴史的な瞬間をこの目で目撃してるのよ。」
さくら「あ,あなた。・・・中国と一緒で,ホントに嫌な人。」
ひみ子「中国と一緒にしないでよ。・・・で,どうなの?あなたも揚げ饅頭欲しい?」
さくら「・・・じ,じゃあ,3個持ってきてくれる?」
ひみ子「(揚げ饅頭7個を皿に乗せて着席)さっきの話だけどさ,日本人はお人好し過ぎる,やられたらやり返せばいい,外国に向けての宣伝が下手だ,という意見もあるけど,あなたどう思う?」
さくら「わたしはね,結論的には日本と日本人は中国や中国人のマネなんかしなくていいと思うの。それにできないと思う。」
ひみ子「なぜ?」
さくら「気質やメンタリティー,民度が全然違うもの。日本や日本人は,こんなことをすれば『恥ずかしい』という感覚をもってるでしょ。さっき,ビザ発給や通関業務,国際会議への嫌がらせのような欠席の話がでていたけど,そういうことは世間的(国際的)にみて恥ずかしいことだという感覚があるじゃない。『恥ずかしい』という感覚のある日本や日本人は,そもそも中国や中国人と同じことはできないし,すべきでもないと思うの。それよりも,そんな露骨で恥さらしなことをしたって,日本や日本人には通用しない,外交的なカードなんかにはならないということを見せつける必要があるわ。売国的な民主党政権のように,『不機嫌な中国』様のご機嫌をうかがって譲歩する必要なんかさらさらない。そんなものカードにならないということを日本の方が見せつければいいのよ。例えば,靖国神社参拝にしたって,国のために尊い命を落とされ,散華された方々の御霊を追悼して何が悪いの?他国が干渉することじゃない。抗議すれば日本国の首相は参拝を控えるだろうと思わせること自体がだめよ。そんなものは外交カードにはならない,日本国首相は毅然として靖国神社に参拝すべきなのよ。」
ひみ子「確かに・・。中国というリスクはとんでもないわね。もう欧米資本は中国から逃げ出しつつあるわ。投資額の前年比では明らかにそういう数字になっているもの。お人好しの日本は『周回遅れ』と言われていて,この期に及んで中国への投資を増やしているけど,もういい加減に中国のカントリーリスクというものを自覚して欲しいわね。あの反日デモの破壊,略奪,放火に懲りないのかしら。」
さくら「そうよね。まったくだわ。でも,カードといえば,あなたはいつも私に対して同じカードを使っているわね。」
ひみ子「・・・えっ?何のこと?」
さくら「3年前だったかしら,私がうっかりしてランチバイキングの約束をすっぽかしたことがあったけど,ことあるごとに『歴史認識』と称して,あなたは私にそのことを持ち出して譲歩を迫るじゃないの。」
ひみ子「どんな譲歩?」
さくら「・・・たとえば,この前の暑気払いの時だって,酢豚が最後に1個だけ残った時に,あなたはその『歴史認識』を持ち出して当然のように自分が食べちゃったじゃないの・・・。」
ひみ子「・・・・・・・・・」
今では,「体育の日」は年によって10月8日になったり,10月11日になったりしますが,昔は10月10日と決まっていましたよね。「体育の日」というのは不動の日でした。
その昔の「体育の日」,つまり10月10日で思い出すのは,中学時代からの親友であったF君のことです。10月10日は確かF君の誕生日だったと思います。今でもそういう記憶は残っているのです。私の誕生日が6月6日ですから,「お互いぞろ目だね・・。」と言い合っていました。楽しい思い出もいっぱいあります。成績は私の方が良かったけど,人間的な幅の広さや包容力は彼でした。ケンカもしましたけど,すぐに仲直りしてしまうのです。
そのF君は,残念ながら今から4年前に亡くなりました。余りにも早過ぎる死でした。本当に残念です。ご遺族の前で思わず号泣してしまったことは,以前にもこのブログでお話ししたとおりです。本当にいい奴だったのですよ。彼のことは忘れることができません。
学校を出てからは,たまに会ったりもしていたのですが,お互いに仕事も忙しく,遠慮し合っていたのでしょうね。今にして思えば,もっともっと一緒に楽しく飲んでおけばよかったと思います。お互い,年賀状などで「今度一緒に飲みたいね。」などとコメントはするものの,彼が亡くなる約10年ほどの間は,会って一緒に飲むこともほとんどなかったのです。私自身はいつでも誘って飲むことができるといった気楽な気分でいたのですが・・・。本当に悔やまれます。
ご遺族の話では,ことあるごとに家族には私のことを話題に出してくれていたようです。こんなにいい親友がいたのだと。本当にありがたい話です。そのことを仏壇の前で聞かされて,またまた涙が流れてしまいました。お互いに心の親友と思い合っていたのに,どこかで遠慮などがあったのかもしれません。毎年10月10日になると,F君のことを懐かしく思い出すのですよ。合掌。
もちろん,山中伸弥京都大学教授のこのたびのノーベル医学・生理学賞受賞のことです。
私なんかは詳しいことどころか,初歩的なことも分からない門外漢ですが,山中教授の偉業というのは,特定の4つの遺伝子を皮膚の細胞に組み込んで心臓の筋肉や神経などさまざまな細胞に変化する「初期化」を起こし,全く新しい「iPS細胞」を作り出すことに世界で初めて成功したということです。そうすると,いったん病変が生じた細胞と同じものを体の外で作り出すことができますから,難病の治療や新薬の開発などに大きな一歩を踏み出すことが可能になるのです。本当に素晴らしい。
それにしても,山中教授の受賞の際の記者会見における挨拶の内容と態度に私は感動しました。仕事に対する誠実さとその謙虚さ・・・。誠実さと謙虚さがにじみ出ていたのではないでしょうか。
「日本という国に支えていただいて,日の丸の教えがなければ,この素晴らしい受賞はなかったと心の底から思いました。まさに日本という国が受賞した賞だと感じております。・・・・・感想を一言で表現すると,感謝という言葉しかありません。」
この受賞は国や友人や家族の支えがなければなかったと仰っております。山中教授の挨拶を聴いていて,その謙虚さと誠実さに涙が出そうになったくらいです。それにしても地道な基礎研究の大切さを痛感しましたね。
さて,政権交代後の民主党政権によるこの約3年間は,「まるで異民族に支配されてきたかのような」(産経新聞の阿比留記者)時間でした(笑)。襟を立て,鬼の首を取ったような表情,そして文化大革命時の紅衛兵のような振る舞いをしていた蓮舫という議員や枝野といった議員などが,バラマキのための財源作りのために,テレビカメラを入れ,「事業仕分け」と称して日本の優秀な科学者らの研究費を削りまくりました。3年前の記者会見では,この山中教授も「想像を絶する事態」と苦言を呈しておられました。「世界で一番でなければならない理由は何ですか?」と紅衛兵に責められてもねえ(笑)。つくづく民主党という存在は,日本が嫌いで嫌いで仕方なく,弱体化させようというのがその党是でもあるかのようです。そうそう,今朝も歩いて事務所まで通勤しましたが,その途中で民主党の事務所のあるビルの前を通りました。そのロゴマークを目にして改めて思ったのは,例の赤い丸が上下に二つに分裂しているかのようなデザイン,彼らが日本の日の丸の赤い部分をそうしているかのよう,つまり日本という国を分裂させよう,弱体化させようとしているかのようで,とても嫌な気分になりました。
山中教授がスポーツマンであることは分かりますが,京都マラソンで完走することによって寄付金を募らざるを得ない状況というのは,やはり研究者にとって酷な研究環境なのでしょう。受賞の記者会見が開始される直前に,野田という俗物は,これみよがしに山中教授の携帯電話に祝福の電話を入れました。私は「いやーな」気分になりました。何であのタイミングなのでしょうか(笑)。
いずれにしても,日本の優秀な頭脳や技術が海外に流出してしまうことは避けなければなりません。原子力技術にしてもそうです。為政者は,このことについてよくよく思いをめぐらせるべきです。
主に学生時代と,まだ20代の仕事と受験勉強で精一杯のころでしたが,ベートーベンのチェロソナタ第3番をよく聴いたものです。精神が何となく落ち着くのです。特に第1楽章の冒頭のあのゆったりとしたモティーフ(動機)。このモティーフを一言で表現すると,「泰然自若」という表現がぴったりでしょう。泰然自若とは,落ち着いていて物事に動じないさまをいいます。チェロはパブロ・カザルスで聴きました。ピアノは誰だったか今では覚えておりませんけど。
私が素晴らしいと思う保守の論客として福田恆存という文芸評論家がいました。この人は,やはり生前,ベートーベンのチェロソナタを愛聴されていたようです。たまたま最近,「福田恆存-人間は弱い-」(川久保剛著,ミネルヴァ書房)という本を読んだのですが,ますますこの福田恆存という保守の論客の存在の大きさを痛感しました。当時は,いわゆる「進歩的文化人」が論壇を席巻し,周りはみんな左翼思想です。そのような中で,孤軍奮闘して,何とか「閉された言語空間」(江藤淳)を必死でこじ開け,説得力に富んだ正論を展開していたのです。当時としては,とても勇気のいることだったでしょう。その勇気が素晴らしい。かねてから私が福田恆存の評論や著作に関心があった理由は,そこにあります。
前著(「福田恆存-人間は弱い-」)から,評論家としての福田恆存の評価について触れた一部を引用しておきましょう(223頁)。
「アメリカの日本文学者で、保守派の論客でもあったE.G.サイデンステッカーも、福田を『誰よりも尊敬していた』と述べている。サイデンステッカーは、日本のオピニオン・リーダーとしてもっとも信頼できる人物は誰か、との質問に、福田の名を挙げ、『彼の社会や政治に関する評論は、私にはまことに明晰であると同時に、まさに良識を代表するものと思える』と答えている(『流れゆく日々-サイデンステッカー自伝』時事通信社、平成一六年)。
福田恆存は平成6年11月20日に83歳で亡くなりましたが,その葬送に当たっては,ベートーベンのやはりチェロソナタ第3番が流されたとのこと。福田恆存は,この曲について生前次のように述べております。
「先ずあの第一楽章の冒頭、チェロからピアノに引渡される第一主題の、陰陽の展開がこたへられない。第二楽章に入つてピアノとチェロが交互に反復しながら盛上げて行くスケルツォの華麗な流れに身を委ねながら、その美しさがやがては頂点に達して消えてしまふのをおそれ、時々途中でプレイヤーを止めたくなる、・・・」(前著226頁)