土曜日はカミさんと一緒に名古屋の御園座で歌舞伎を観た。ありがたいことに顧問先の社長さんが,いつもこの季節に1等席のチケットを2枚くださるのである。おかげさまで今回も十分に楽しませていただいた。
この日は市川段四郎,市川亀治郎などの舞台であった。前から7列目でしかも花道に近く,迫力もあった。話の筋が泣かせるもので,何よりも市川亀治郎などの演技が誠に素晴らしく,両眼から溢れる涙が頬を洗うのにまかせていた。恥ずかしながら,冗談や誇張ではなく,3つくらいのシーンでそれぞれ涙が二筋くらいずつ流れたのである。こういう時は,慌ててハンカチなどで拭いたりせず,とりあえずはそのままにしておき,しばらくしてほとぼりが冷めてからそっと指で涙をぬぐうのが一番よい。経験上,そうすれば泣いてしまったことを悟られずに済むことが多いのである。
それにしてもプロの技は凄い。また古典芸能の素晴らしいこと。亀治郎は女形であるが,身のこなしや体型が美しく,いかにも節制していなければあれだけの体型を維持していくことはできないであろう。僕は実はこれまでは,チケットをいただいた時しか歌舞伎を観に行くことはなかったが,これからは当然身銭を切ってでもこの歌舞伎という古典芸能の世界にはまってしまいそうである。
この日の観客の中にも,泣かせる場面ではあちこちでハンカチを目に当てたりするご婦人がいたり,鼻をすする音も聞こえた。義理や人情,人間としての誇り,正義を渇望している人が多いのではないだろうか。そしてそういう文明の一端に触れるために,歌舞伎という世界に一時的に身を寄せているかのようである。「逝きし世の面影」(渡辺京二著,平凡社)という本にも紹介されているように,確かにこの日本には近代以前にこの世でも特異な素晴らしい文明が確実に存在していたのである。礼節,秩序正しさ,優しさ,質素,自然の豊かさ,義理人情,互いに気持ちよく生活していくための工夫などが支配していた文明である。
歌舞伎の演目の中にはそういう文明の一端に触れられるものが多い。しかも毎回思うのだが,歌舞伎の観客は老若男女さまざまで,層が厚いようである。いずれにしても,歌舞伎は当分の間マイブームになりそうな予感がする。
この標題はちょっとピント外れかもしれない。目のやり場がないという言葉は,本来ならば見てはいけないものを見ないようにして,視線をどこに移すか困っている状態をいうのであろう。僕が今日訴えたいのは,前にもこのブログで言ったように,特に最近の民放番組の内容,企画がひどすぎて「目のやり場がない」のである。
若手芸人が登場し,ある飲食店の全65メニューを一定時間内に全部食べ尽くせるかという企画であった。当然最初のころは美味しそうに頬ばるが,そのうち満腹になって苦痛に顔をゆがめながら,イヤイヤ食べ続けるのである。もうダメだと言いながら,いったんは寝て休憩をとり,起きてはまたイヤイヤ食べ始めるのである。ある飲食店の全メニューを食べ尽くしたからといって,それが何になるのだ。食べ物というのは感謝しながらありがたいと思って食べるものである。イヤイヤ食べられている食べ物,食材が不憫でならない。こういうくだらない企画が最近では特に多い。日本の食糧自給率を高めるにはどうしたら有効なのかについて,ためになる討論番組や特集番組でもやらんかい!
こういう状況だから,最近では僕は癒しを求めて「おじゃる丸」や「ざわざわ森のがんこちゃん」などの番組に「逃避」気味である。おじゃる丸のキャラが好きで,僕もスキを見つけては「まったり」したいのは言うまでもないが,「エンマ大王のシャク」を取り戻すために奮闘する子鬼トリオはとてもいい。アオベエの「・・でゴンス」という言い方はとてつもなく好きだし,アカネは僕の娘と同じ名前で,しかも僕の法律事務所の名前でもあるし,キスケはビジュアル的に理屈抜きに可愛い。また,「ざわざわ森のがんこちゃん」に出てくるがんこちゃんの弟のがんぺーちゃんの可愛いことといったら,もう恍惚ものである。しかも,「ざわざわ森のがんこちゃん」の筋書きというか設定には,なかなか哲学的で深く,考えさせられるものがある。NHKの報道や特集番組の中には反日的で東京裁判史観にドップリ浸かった不当なものがあるが,アニメや人形劇はまあいいね。・・・ただ,僕に何の断りもなく「ぜんまいざむらい」の放送が教育テレビから消えてしまったのは,極めて遺憾であり,正に断腸の思いである。NHKはこの一視聴者の言葉を厳粛に受け止めて欲しい。
きのう,4月29日は昭和の日であった。午前中は雨が残ったが,午後からはとても良い天気で,僕はゴルフを楽しんだ。スコアは相変わらずダメだったが,文句なしのニアピン賞を取るなど,随所に良いショットもあった。それに自分の欠点として自覚していた点は,やはりキャディーさんの指摘でも裏付けられたので,負け惜しみではないが収穫はあったのである(笑)。・・・だったらその欠点をちゃんと直せよってか(笑)。夜は,うちのカミさんの誕生日祝いを自宅で行った。僕もそうだが,誕生日を祝ってくれること自体は嬉しいようだが,歳を一つとることは嬉しくないらしい。
昭和の日というのは,もちろん,昭和天皇の誕生日であり,昭和の日が国民の祝日として定められた趣旨は,「激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす」ということである。僕はもちろん昭和生まれだから,昭和天皇のことは今上天皇と同じく親しみを感じる。
昭和天皇が崩御された時のことは,今でも覚えている。当時僕は,名古屋地方裁判所事務局人事課の係長をしていた。人事課の係長というのは結構ストレスがたまり,係長仲間でよく居酒屋で酒を飲んでいたものだ。昭和64年1月6日の金曜日の晩も,行きつけの居酒屋で係長仲間,係員数名といつものようにお酒と料理,カラオケを楽しんでいた。こんなことを続けていたら,司法試験なんて受かる訳ないわねぇ(笑)。僕たちが居酒屋を後にして別れる時は,いつも,「じゃ,またあした。」ではなくて,「じゃ,また今日。」であった。その晩も遅くなり,飲んだ仲間に別れを告げた時には1月7日になっていた。翌日が土曜日で休みだったのでいつもよりも派手に飲み,歌ってしまったのだ。ところが,昭和天皇は,1月7日に崩御された。土曜日だったけど,緊急に職場に招集されたことを覚えている。僕は二日酔いだった。
先日,「昭和天皇論」(小林よしのり著,幻冬舎刊)を読んだ。昭和天皇の終戦時のご聖断の経緯,戦後処理の中で果たされた重大なお役目,国民を勇気づけようとしてなされた「期間にして前後8年半,総日数165日,全行程3万3千キロに及んだ壮絶な」巡幸,「御文庫」に住まわれ質素・倹約に徹された日々,南方熊楠との間の微笑ましい親交などが記述されている。一読に値する本である。昭和天皇は多くの歌を詠まれたが,僕は次に紹介する御製が心に響く。これは終戦後間もなくして詠まれたもので,その大意は,「深い雪の中でも,松が緑を失わないように,日本人もこの敗戦の試練に耐え,日本人の節操を曲げないで,雄々しく生き抜いてほしいという祈りの歌である。」(前掲天皇論172頁)。
「ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞをゝしき 人もかくあれ」
先週の土曜日の夜は家族とカラオケに行った。僕の場合はいつもそうなのだが,最初の曲を入れるまでに相当の時間がかかる。微妙に緊張しているのである。今日は上手く歌えるだろうかと・・・。一曲目を入れるのを躊躇しているうち,前の人が選曲した履歴があったのでこれを見てみると,何と,「君が代」と「仰げば尊し」があるではないか。こういう曲をカラオケで歌う人がいるんだ。勇気百倍,早速「仰げば尊し」を入れて歌ってみた。この曲はこのブログでも書いたとおり,名曲中の名曲だと思っている。
でもこの「仰げば尊し」の歌詞に感動しながら歌っていたら,不覚にも涙目になってしまった。画面はアニメーションだったが,老教師と生徒の卒業までの様々なシーンが連続し,最後は老教師を囲んで生徒全員が号泣するというシーンを目にしたからである。なお,涙目になりながらも歌自体は比較的上手く歌えた。一曲目を歌ってしまうと,度胸がついてあとは止まらない。ちょうどサッカーでいうと,ピッチに出たてのころは緊張しているが,最初のボールが来てファーストタッチを終えたら緊張が解けるというようなものだ。
「仰げば尊し」の中に「我が師の恩」という歌詞があるが,昨晩何気なくテレビのチャンネルを回していたら,ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士が出演していた。砂糖問屋を営んでいた父親は,益川さんの大学進学に猛烈に反対し,母親の取りなしで何とか地元の大学を一回だけ受験することを許されたそうだ。そんな中で益川さんは名古屋大学理学部に進んだ。益川さんの恩師は「坂田モデル」で有名な坂田昌一博士(湯川秀樹博士,朝永振一郎博士と並び称される物理学者)であり,益川さんが生前の坂田博士から受けた恩を熱く語るとき,また生前に録音された坂田博士の肉声を聞くときなどは,本当に深い恩に感謝されている雰囲気が伝わってきた。
民主党が政治ショー化している事業仕分け。無駄遣いカットという面で一部正しい側面もあるが,問題は仕分けする人たちの資質・能力と,仕分け内容の適切さだ。益川博士は,「現状の研究成果は数十年ほど経過して初めて評価される。」,「限られた資源のなかで,役に立つ科学・分かりやすい科学・大学の外で市場原理のもとで成り立つ科学などが研究費の餌場として雪崩れ込んでいる。」と指摘され,日本の基礎科学への研究費配分が不十分であり,大学の基礎科学が危ないと警鐘を鳴らされている。再三述べるように,資源の少ない日本は人こそ資源であり,人材育成こそが重要である。そのためには,「子ども手当て」,「高校授業料無償化」などのバラマキではなく,もっと有効でメリハリの利いた予算配分にすべきであろう。
日本国内で薄毛を気にしている人は約1300万人に上るそうだ。僕もその一人(笑)。ニュースでやっていたけど,日本皮膚科学会がまとめた「薄毛治療のガイドライン」というものが発表されるという。日本皮膚科学会に所属する合計10人の皮膚や毛髪の専門医が,治療や植毛など10種類の対処法について,公表されている研究論文をもとに科学的根拠の有無を調査し,分類したものである。
このガイドラインも十分参考になるだろう。僕もここ数十年,ハゲの恐怖に苛まれながら生きてきたのだが,これまでの経験や付け焼き刃の知識に基づいて,この方面の専門家ではない僕なりに,薄毛に関してほんの少し考察を加えてみたい。
必ず物事には原因と結果がある。薄毛になるということは,やはりそれなりの原因があるはずである。遺伝説や男性ホルモン説などもあって,難しいことはよく分からないが,薄毛になる体質や生活習慣などがとても大きいと要因だと最近では思っている。特に血流。髪の毛は血の余りのようであるし,毛髪の生成は何よりも毛母細胞,毛乳頭の働きを活発にするための栄養が血液で十分に運ばれていなければならない。僕としては,頭皮の外からやみくもに育毛剤を振りかけたり,自毛であれ人工毛であれ頭皮に植え込んだり,などといった手法には限界があると思っている。要するに,体の内側からのアプローチが重要だと思う。薄毛になる体質を内側から変えていき,そのために生活習慣なども改善していくことである。
体温を上げ,血流を良くする。運動,マッサージだけでなく,血流の良くなる食材を使った料理など。次に,ストレスをほどよく緩和するための工夫。ストレスが過剰になると血流が悪くなるそうだ。それにストレスは皮脂の過剰な分泌の原因となる。これは皮脂腺を肥大化させ,さらに皮脂量を増やすという悪循環に陥る。仕事に精出すのも結構だが,時にはリラックスしたり体操したりするのが良いと思う。ストレスを感じた時や,リラックスするために喫煙する人もいるが,毛細血管の血流を悪くするので,このような育毛にとってのマイナス因子をできるだけなくすべきである。それと,何よりも睡眠を十分にとることである。これも極めて重要。成長ホルモンは午後11時ころから午前2時くらいまでの間に多く分泌されるので,毛髪の成長のためにはこの時間帯にはぐっすり眠っているのがいい。これに加えて,過度の摂取はだめだけど,亜鉛などのサプリメントの活用,それとコラーゲンなんかもいいのではないだろうか。まだまだいろいろとあるが,キーワードは「体の内側から」であろう。
あとは,達観である。人間,年相応というものがある。髪にいつまでもしがみつくべきではない。年相応の毛量で結構である。それに,髪の毛フサフサで女性にモテモテであっても,果たしてそれだけで心が満たされるであろうか(笑)。・・・決して負け惜しみなんかではない(爆笑)。人間,むしろ中身が大切である。髪が薄くても一緒に話していて楽しい,良い時間を過ごせたと思われるような人間になればいいと思っている。「ぜんまいざむらい」に出てくるぜん様と,なめざえもんとでは,毛量としてはなめざえもんの方がかなり上回っているであろう。ぜん様の頭頂部はなにしろぜんまいなのであるし,なめざえもんは立派で長すぎるほどの髷である。それでも,ずきんちゃんがぜん様の方に心惹かれているのは,結局はぜん様の人柄なのである。毛量なんかではない。
またまた桜の話である。だって,本当に見事なんだもの。朝の徒歩通勤経路に,小学校の裏道があるが,裏道とはいうもののその満開の桜の見事なこと。裏門にも桜が咲き乱れ,今朝は国旗(日の丸)が掲揚されていた。今日は小学校の入学式なのだ。こういう贅沢で見事なシチュエーションで小学生が入学してくる。みんな一生懸命に勉強と運動をして,立派な大人になってくれよ。頼むよ。
日本の桜の主なものは,ご存じソメイヨシノである。淡い色でその姿形や散り方は日本人の心をとらえて離さない。日本の国花についてはそれを定める法律は存在しないが,桜と菊が事実上は日本の国花として定着しているであろう。ところが,このソメイヨシノの起源について,韓国起源説というものがあるらしい。韓国では,韓国のチェジュ島の「王桜」とソメイヨシノを同一視して,「日本で楽しまれる桜は韓国起源のものである」といった論調があり,しかもその「王桜」の自生地にどんどんソメイヨシノを植林してしまうなどの活動まであるという。
先日,ゴルフで疲れてヘトヘトになって自宅で晩酌していると,NHKのニュースで,ソメイヨシノの起源について報道していた。そのニュースでは,韓国起源説に依拠せず,ウィキペディアにも書いてあるように,ソメイヨシノというのはエドヒガン系のコマツオトメとオオシマザクラの交配で生まれたサクラの園芸品種であるとしていた。「近隣諸国条項」ではないが,近隣諸国に配慮し過ぎるほどのNHKにしては,グッジョブである。
実際問題として,平成19年3月,千葉大学などの研究グループによる遺伝子解析によれば,ソメイヨシノがエドヒガン系のコマツオトメとオオシマザクラの交配で生まれた可能性が高いと学術的に究明されているし,やはり同じ年には,アメリカ合衆国農務省研究者による遺伝子比較調査によっても,韓国の「王桜」と日本のソメイヨシノとは別種であると発表されている。ウィキペディアには「韓国起源説」という用語の解説があり,それによると「韓国の個人・団体などが、他国の文化などの起源・伝播を朝鮮半島に求める,根拠不十分で非合理的な言説群の俗称」とある。このような現象の背景にある事情については,そのウィキペディアの該当箇所で縷々指摘されている。日本固有の文化でありながらこれまでその俎上に上がってしまったものとしては,次のようなものが列挙されている。
「剣道」,「剣術」,「侍」,「武士道」,「日本刀」,「柔道」,「空手」,「相撲」,「寿司」,「刺身」,「海苔」,「日本語」などなど。・・・・・つらいねぇ。
僕が思うに,一番大切なこと,事の本質は,起源などではなく,そのようなものを心から愛し,受け継ぎ,民族に定着,発展させてきたものこそが正に文化であるということだ。桜に限って言うと,桜の姿に心を動かされ,その散り際に「もののあはれ」,「無常」を感じ,だからこそ桜が咲いている間は精一杯愛でようという心情がその国,民族にそれこそ染み渡ってきたかどうかということである。日本人が桜を心から愛し,これに自分の気持ちを仮託してきたという事実は,古くは「万葉集」の中で詠われた次のような歌などからも明らかである。
「あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいたく恋ひめやも」
「去年の春逢へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へけらしも」
「龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに」
「梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや」
「春雨に争ひかねて我が宿の桜の花は咲きそめにけり」
いやー,日曜日はほぼ完全な寝たきり老人になってしまった。前日に同業者とゴルフをやってカートにほとんど乗らずに歩きまくったものだから,疲れ果てたのである。最近は,休日も事務所に出ていた日が多かったので,ふとんの中で本を読んだり,プロ野球を観戦したりして,たまにはまったりするのも良いものだ。
前日にゴルフ場で見た桜の木々はこれまた誠に見事であった。美しい桜を見ると心が洗われる。その桜の見事さの対極にあったのが,僕のゴルフのスコアである。この同業者のゴルフコンペは,優勝者とブービー賞を取った者の2名で次期幹事をやるルールになっているが,僕は次期幹事をやる羽目になってしまった。それこそ悲惨なスコアで,栄えあるブービー賞に輝いてしまったのだ。いつもの「早打ち」と「力み」が止まらず,「分かっちゃいるけどやめられない」状態。ショットが悪いからバンカーにつかまってばかり。バンカー・トゥー・バンカーというのはご存知でしょうか。バンカーに入ってしまって,そこから脱出のショットを打ったら,グリーンをオーバーして反対側のバンカーに再びつかまってしまうことだ。再びつかまってしまったバンカーからは1打では脱出できず,途中で泣けてきそうになった(爆笑)。・・・・・まじめに練習しよう。
でも,ゴルフ場では僕にとって感動したものが一つあった。一匹でのどかに舞っているモンキチョウ(紋黄蝶)の姿を見ることができたのである。モンキチョウの姿を目にしたのは,もういつだったか記憶にないほど久しぶりである。そういえば,モンシロチョウの姿も街中ではあまり見られない。モンキチョウに至っては最後にその姿を見たのはもう遠い昔だ。小学生の時にひんぱんにその姿を見ることができたように,もっと花を植えて街中でも見られるようになればいい。
仕事に疲れたら,春の野花とモンシロチョウ,モンキチョウなどの小動物の姿を見に,小旅行をするものいいなと思う。
今日はあいにくの雨で,傘を差しながらの通勤になったが,それにしても桜の花の美しく,見事であることよ。最近では桜の季節になると,子どもの頃にはなかったような特別の感慨がある。子どもの頃は,桜を見ても「ああ,きれいだな。」とは思っても,それ以上の感情はなかった。でも最近は,恐らく歳のせいだとは思うが,桜の花を見ると,あと何回このような美しい桜の季節を迎えることができるのだろうか,とか,来年もこのような桜を見ることができるのだろうか,とか(笑)。
子どもの頃に歌った「さくらさくら」という歌は,すごく良い曲だと思うが,今も小学校では歌われているのだろうか。
さくら さくら
野山も里も
見わたす限り
かすみか雲か
朝日ににおう
さくら さくら
花ざかり
さくら さくら
やよいの空は
見わたす限り
かすみか雲か
匂いぞ出ずる
いざや いざや
見にゆかん
実に素晴らしい曲である。「朝日ににおう」というあたりは,本居宣長の「しきしまの やまと心を 人とはば 朝日ににほふ 山桜花」という歌からきているのかもしれない。今も小学校で歌い継がれていることを信じているし,これからも歌い継いでもらいたい。
前にもこのブログで触れたことがあるが,僕は数年前,青森県十和田市にある新渡戸稲造記念館に足を運んだことがある。桜の花にことのほかの思い入れがあったのは,新渡戸稲造先生である。その著された「武士道」という本の第15章には,次のようなくだりがある。
「桜はその美しさの下に、およそ刃物も毒もかくしておらず、自然の呼応に応じて、いつなんどきでも世を去る覚悟ができているし、その色彩は決して派手ではなく、そのあわい香りは決して飽きがこない。」
自然の呼び声に応じていつでもこの世を去る覚悟。桜の散り際は正にそうである。そこにはかなさと潔さを見る。日本人のメンタリティーである。この地上でも稀なほどの尊い日本人のメンタリティーと日本という国は,しっかりと守っていかなければならない。コロッと話が変わってしまうが,平沼赳夫衆議院議員は,桜が似合いそうな立派な代議士であり期待しているが,そろそろ新党を立ち上げるというような情報もある。ぜひ,ぜひ,頑張ってもらいたい。
昨日の晩は飲み会だった。その会場に移動する途上で歩きながら見た月は,まことに見事な月であった。寒い夜空にまん丸で大きな月がポッカリと浮かんでいた。夜空にはえていた。月の光は明るく,何よりもその輪郭がくっきりとして全くぼやけていない。輪郭がブレていないのである。
ブレと言えば,鳩山という人の発言がまたまたブレている。米軍普天間飛行場移設問題で,この人は従前から今年の3月末までに政府案を一つにまとめると明言していた。つい先日,26日の記者会見でも「最終的には政府案を一つにまとめなくては交渉はうまくいかない。3月いっぱいをめどに政府案をまとめる努力をしている。」と述べていたにもかかわらず,その舌の根の乾かぬ昨晩,今度は,「いつまでに全部やらなきゃいけないという話ではない。今月中じゃなきゃならないとか,別に法的に決まっているわけではない。」とブレているのである。法律で決まっていないことなどは百も承知だ。それよりも一国の首相として,自分の発言に責任を持て。この人のこのような言い分は,何か不都合なことをしでかした少年が,「それは別に法律に反している訳じゃないもん。」と言い訳しているようなもので,実に卑怯である。
またまたこの人のせいで不愉快になってしまった。美しく見事な月の話だったのに。僕が心から敬愛するヨハン・セバスティアン・バッハは,幼いときに両親を相次いで亡くし,数年間は兄に育てられた。バッハは,音楽に対するやむにやまれぬ求道心,向上心,興味から,鍵のかかった戸棚からこっそりと兄の楽譜を拝借し,月の光で写譜していたという。同時代のヘンデルも,彼を法律家にしたいという父から音楽に関心をもったり,楽器を奏でることを禁止されていたが,音楽に対するやむにやまれぬ興味から,屋根裏に隠されていたチェンバロを父に内緒でこっそり弾いていたという。
今宵は飲み会もないことだし,月の光で写譜する努力を怠らなかったバッハに敬意を表して,教会カンタータなどを聴いてみることにするかな。
土曜日は気の合った者同士で久し振りのゴルフをやった。2月11日の建国記念日にゴルフの予定は入っていたが,雨で中止になったため,昨年末以来のラウンドであった。前回のラウンドでは久し振りに良いスコアが出てご満悦だったが,その好調さが維持されているかどうか。・・・・・だめだった(笑)。例の,力みと早打ちの悪い癖がでてしまい悲惨なスコアだった。ただ,前半の9ホールで「もう今日はだめだ。」と諦めたほどだが,後半は結構良く,「悪い点を認識しそれを修正していくことができた」という点だけが収穫だった。明日につながる雰囲気はあった。自分自身に言うのも何だけど,頑張って欲しい(笑)。
同じ土曜日の夜,晩酌しながらテレビでニュースを見た後,何気なくチャンネルを回していると,お笑い芸人の番組がやっていた。ゴルフ疲れの中,いい気分でお酒を飲んでいたら,思わず僕の晩酌の手を止めてしまうほどの,インパクトのある芸名に出会った。・・・・・「もりやすバンバンビガロ」(笑)。な,何だろう,この芸名は。この「もりやすバンバンビガロ」という芸人は,基本的にはジャグラー+マジシャンなんだろうと思う。リンゴ3つをジャグリングしながら,その忙しい最中に見事にそれらのリンゴをかじるという,奇妙ながらも感動的な芸を披露していた。
それよりも,気になるのは「もりやすバンバンビガロ」という芸名の由来,意味である。別にそんなこと知らなくても生きてはいけるし,今後の弁護士稼業に支障などはないが,何かしらすごく気になってしまった。知的好奇心というやつか。風変わりな芸名ではあるが,別にこれといった意味はないのかもしれないし,ひょっとしたら,途方もなく深遠で,哲学的,形而上学的意味が与えられているのかもしれない。僕はほろ酔いながらも,必死でこの芸名の由来,意味をインターネットで調べた。・・・うーん,どうしても分からない。「もりやす」というのは,何となく名字だろうなという察しはつくが,「バンバンビガロ」がなぁ(笑)。調査の結果,この名付け親が,同じ吉本興業の「モロトゆーき」という人だということは分かったが,この芸名の由来,意味はなぁ。ただ,元Jリーガーの「もりやすはじめ」選手とプロレスラーの「クラッシャーバンバンビガロ」選手を足したものだという情報もある。もしこれが本当だとすると,「もりやすはじめ」さんというのは,元日本代表でサンフレッチェ広島などで大活躍した森保一選手のことか。あとは,「クラッシャーバンバンビガロ」を検索してみると,かつて新日本プロレスで活躍したクラッシャー・バンバン・ビガロ(本名はスコット・ビガロ)選手が出て来た。ただこの方は,3年前にアメリカ・フロリダ州の自宅で亡くなっている。いずれにしても,芸名に無限のインパクトを与えられた「もりやすバンバンビガロ」さんは,これからも頑張って欲しい。