2日前にも書きましたが,安倍晋三首相は外交,安全保障,経済政策(いわゆるアベノミクスの第1の矢【大胆な金融政策】と第2の矢【機動的な財政政策】)など,大変良い仕事をしておられると思います。ただ,最近特に気になっているのは,やたらと「女性比率」の数値目標にこだわった政策を闇雲に推進している嫌いがあるという点です。
安倍政権は「成長戦略」の中核として「女性活用」を声高に宣言し,平成32年までには社会の指導的地位に占める女性の割合を3割以上にするとしています。女性の社会進出に格別異論はありませんし,その能力次第ではどんどん登用されるべきでしょう。しかし,とにかく「3割以上」という枠を設けてしまうこと自体には違和感があります。先日の産経新聞の記事の中で評論家の櫻井よしこ氏が主張していたように「ジェンダーフリーの旗だけを振るのではなく、伝統的な女性の役割を日本人の生き方のひとつの形として大切に守っていけるようなバランスのとれた計画にすべき」だと思います。
というのも,夫の収入だけで暮らす専業主婦世帯は総務省の調査で745万世帯であり,また厚生労働省の調査でも独身女性の3人に1人が専業主婦を希望しています。さらに内閣府の調査では「夫が働き、妻は家を守る」のがよいとする人が51.6%で,特に20代ではこの割合が約20ポイントも伸びたのです。しかも総務省の労働調査では,働きたいと考えている女性は約300万人ですが,フルタイム志望は2割以下なのです。
櫻井よしこ氏が述べるように「こうしたことは女性たちが、働くことの意味を経済性だけに求めているのではないことを示しているのではないか。子供の教育を含めた文化的価値や、高齢化時代の両親の介護など社会的価値において自分の力を生かすことを望んでいるのではないか。」と思えるのです。
要するに,先に述べた政策(「平成32年までに社会の指導的地位に占める女性の割合を3割以上にする」)は,それ自体が自己目的化しているのではないかとの疑問が払拭できません。先日の産経新聞のコラム「産経抄」にも書いてあったのですが,確かに能力と意欲のある女性のために活躍の場を広げる方針に異論はないものの,女性の社会進出そのものが目的となってしまえば,本末転倒になります。ドイツのメルケル首相は「政治の世界には『女性優先枠』は必要ない」と発言して実力主義を貫き,元祖「鉄の女」のサッチャー元英国首相も女権拡大運動には冷ややかでした。北欧社会が女性割当枠を設けておりますが,必ずしも成功しているとばかりは評価できません。
くれぐれも自己目的化しているような安易な政策を策定,推進するのではなく,総合的で,「伝統的な女性の役割を日本人の生き方のひとつの形として大切に守っていけるようなバランスのとれた」政策が求められていると思うのです。
夏なんですから,「暑い,暑い」と言っていてもどうしようもありません。暑くはありましたが,昨日の夕方は事務所から自宅まで徒歩で帰りました。もうすぐ自宅に着くという辺りで若いお母さんと3歳くらいの女の子が歩いているのを見かけました。「○○ちゃん,もう暗くなったね。」,「うん。」という何気ない母子の会話が耳に入ってきました。何かほのぼのとしたものを感じました。
各家庭にも様々な事情がありましょうが,私は昔から母親はせめて子が3歳くらいになるまではずっとそばにいて育んでいくのが良いと思っていました。今でもそう思っておりますし,我が家では3歳と言わず小学校低学年くらいまではそうしていました。もちろん育児には父親も参加です。一緒にお風呂に入ったり,寝る前は2冊ほど絵本を読んで添い寝をしたり・・・。そして何よりもよく子に話しかけたり,また家庭内で夫婦の会話が豊富なら子もその会話を聞いて成長します。もちろん躾けも必要です。
ところで,安倍晋三首相は,第一次安倍内閣の時もさることながら第二次安倍内閣でも外交,安全保障,経済政策(いわゆるアベノミクスの第1の矢【大胆な金融政策】と第2の矢【機動的な財政政策】)など,大変良い仕事をしておられると思います。やはりこれまでの仕事ぶりや成果をみますと,余人をもっては代えがたいというべきでしょう(あの鳩山由紀夫や菅直人と比較するのも大変失礼です【笑】)。でも,アベノミクスの中の第3の矢【民間投資を喚起する成長戦略】については,以前から違和感を覚え,首を傾げざるを得ない部分を少なからず含んでいると思っていました。特に最近では「一体何をそんなに焦っているのだろう」と感じるのが「女性が輝く日本」というスローガンの中身です。
端的に申しますと,「女性が輝く日本」というスローガンの下,現政権が性急に推し進めようとしている政策は,何か不必要に専業主婦を目の敵にし,伝統的な日本の家庭文化とでも言うべきものを壊し(「育児より働け」),無理に数値目標を欧米の水準に合わせようとしているかのようです。具体的には配偶者控除の廃止,「第三号被保険者制度」(夫が正社員等の場合,妻の収入が130万円未満であれば保険料を負担しなくても健康保険や国民年金に加入できる制度)の廃止,会社等の配偶者手当の廃止などが真顔で検討されているのです。
女性の輝き方は様々でしょう。総合職,バリバリのキャリアウーマンを目指して自己実現を図ることを第一とする人もいれば,サザエさんに出て来る磯野フネさんのように割烹着を着て家事,育児を十全にこなし,夫や子らがその役割を全うできるような良きハウスキーパーたる立場にある人もおり,これまたとても尊敬されるべきでしょう。それが日本の伝統的な家庭文化とでも言うべきものです。
当の女性たちも「子供が三歳くらいまでは母親は仕事を持たず育児に専念」という意見に20~30代の子育て世代の80%が賛成しています(国立社会保障・人口問題研究所『全国家庭動向調査』2008年)。八木秀次氏の「この八割の女性の意向を抑えてでも社会で『活躍』させたいとでもいうのだろうか。ここは少なくとも育児に従事する期間は、働かなくとも育児に専念できるよう優遇する制度を設計するのが新たな人口を生み出す女性たちのニーズにも叶う現実的な政策ではないのか。」(月刊誌「正論」平成26年8月号)との意見に賛同したいのです。日本を守る本当の意味の少子化対策というのは,外国人移民(家事に従事するメイドを含む。)を闇雲に導入することではなく,また竹中平蔵などの政商の悪魔のささやきにたぶらかされることではなく,方向としては間違っていないアベノミクスの第1と第2の矢を勇気をもって推進し,何より賃金を上げ(これにより妻も一定期間は経済面においても安心して育児に専念できます),日本人女性の(移民のではありません)合計特殊出生率を上げていくことだと思うのです。
なお,これに関連することについては,後日気が向いたら(笑),このブログで書いてみたいと思います。
かなり前のことになりますが,このブログでも現在の法曹養成システムのうち弁護士養成のそれは既に破綻に近くなっていることを指摘したことがあります。法曹というのは裁判官,検察官,弁護士のことを指します。今の司法試験制度は,原則として法科大学院(ロースクール)を修了した人にしか受験資格が与えられておりません。しかし受験できるルートがそれだけですと,高額な法科大学院の授業料を支払うことのできる比較的裕福な人しか司法試験を目指すことができなくなります。そこで,予備試験という制度が新設され,この予備試験に合格すれば法科大学院を修了しなくても司法試験の受験資格が与えられます。
要するに現在の司法試験は,法科大学院修了者と予備試験合格者に受験資格が与えられ,山の頂上に至るには法科大学院(原則)と予備試験(例外)という2つのルートがあるという訳です。ところが,文部科学省の集計によりますと,来春の法科大学院の予定定員総数は3175人で,ピーク時の5825人から約45%減少という状況で,かつて74校あった法科大学院は募集停止が相次ぎ,来年度に学生募集するのは54校に過ぎません。しかも今春の入学状況はというと,募集した67校の定員計3809人に対し,入学したのは2272人であり,入学者が定員を下回ったのは91%に当たる61校で,そのうち44校は定員の半数にも満たなかったのです。志願者数自体も年々減っており,来年度も定員割れが相次ぐのは必至です(産経新聞)。
一方,もう1つのルートである予備試験(現行の法曹養成システムでは「例外」と位置づけられているもの)については,今年の出願者は何と1万2622人で,初めて法科大学院の志願者数を上回ったのです。予備試験制度は経済的な事情などで法科大学院に通えない人のために設置された例外ルートですが,現役学生らが「近道」として受験する傾向が強まっており,2011年の制度導入以降その出願者は増え続けております。しかも司法試験の合格率はどの法科大学院よりも高いのです。私が昔に受験した旧司法試験はこの予備試験に近いシステムです。
考えて見ますれば,グローバリズムやら新自由主義やら規制緩和やら,やたらに美辞麗句を並べ,弁護士を増やせば弁護士の法的ニーズも増えるはずだ,いや増やさなければならないという安易かつ机上の空論でスタートした現行の法曹養成システム・・・。従来の司法試験は5~600名程度の合格者でしたが,現在では2000名にまで激増しています。でも,司法試験に合格し,司法修習を修了したにもかかわらずどこにも就職できないという人たちがこれまた激増しています。このままだと弁護士という職業に魅力を感じることはできず,ひいては志願者数の減少と質の低下も大いに懸念されるのです。制度設計自体が誤っていたのです。
もう既に完全に破綻しているのですよ。では法科大学院側は,学生を入れて何とか修了させたはいいけれど,修了者のその後の進路をちゃんと把握しているのでしょうか。文部科学省の調査によりますと,法科大学院修了者のうち,大学院側が進路を把握していない人が3割を超えているということが分かりました(産経新聞)。予備試験合格者の司法試験合格率とは違い,法科大学院修了者の合格率が低迷し,その修了後も法曹になれない人が多数いる中,就職先などの進路確保が急務になっており,文部科学省は法科大学院に対し,修了者をちゃんとフォローして支援を強化するよう求めている状況なのです。
ただいずれにしても,昔のような司法試験制度ではなぜいけないのでしょうか。現行の法曹養成システムは少しどころか,完全に破綻していると言わざるを得ません。そのことに当局も気づいているはずなのに,一体全体何を考えているのでしょうか。「勇気ある撤退」が求められております。
とうとう日本維新の会は分裂いたしました。むしろ遅きに失した感もありますし,私自身は石原慎太郎さんが橋下という人物を高く評価してきたこと自体,どうしても解せないのです。この両者では所詮,国家観,歴史観,もっと広く言えば見識という点で全く異なります。橋下という人物はよく自己の歴史認識めいたことを口にしますが,浅薄であり,歴史というものを本当にどの程度勉強したことがあるのか疑問に思うこともあるのです。せいぜいが「ふわっとした民意」頼みの人であり,もう既にメッキがはげているというか,馬脚が現れています。
約1年半後の分裂ですが,今日の産経新聞のコラム「産経抄」には面白いことが書いてありました。橋下氏が率いる日本維新の会と,石原慎太郎氏が率いる太陽の党との合体から軋轢,呻吟,忍耐,そして最終的な分裂の過程について,そして今後の「再婚」の可否について,次のような表現がなされておりました。
「結婚については、フランスの劇作家、アルマン・サラクルーがこんな名言を残している。『人は判断力の欠如で結婚し、忍耐力の欠如で離婚し、記憶力の欠如で再婚する』。基本政策が一致しないまま、『数の論理』で結びついても、早晩瓦解(がかい)に追い込まれる。その記憶を大切にして、再婚に臨んでほしい。」
うまいことを言うものです。ただ私は,「再婚」などはあり得ないと思いますし,すべきでもないと思います。理由は先に述べたとおり,石原さんと橋下氏の両者では所詮,国家観,歴史観,もっと広く言えば見識という点で全く異なるからです。それに何より,石原さんに付いていくと思われる議員の方々には,誠に素晴らしい見識を有しておられる方々が多いのです。中山成彬,中山恭子,平沼赳夫,三宅博,山田宏などなど,錚々たるメンバーです。いずれにしても中山恭子さんのような方がアントニオ猪木さんと同じ党の参議院議員団を構成していたというのは何とも違和感があったのです(笑)。
もうあまり時間もありません。石原慎太郎さんの最後の仕事として,自由民主党の政策のうちで何としても喫緊の課題として成し遂げなければならない部分について,協働関係を形成していき,達成すべきでしょうね。またこれは余談ですが,私が尊敬する政治家は,いずれも共通点があります。それは確固たる国家観と歴史観を持っているということだけでなく,いずれも正しく,美しい日本語を話され,記される方々であるという点です。
5月の連休中に,ある親しい方々と2日連続ゴルフをするという計画はもう恒例になっています。毎年楽しみにしておりますし,今年も5月3日と4日,知多半島のその美しい同じコースでゴルフを楽しみました。
スコアの方は相変わらず満足のいくものではありませんでしたが,ドライバーもアイアンも自分のスイング上の問題点(なかなか直らないクセのようなもの)を改めて認識することができましたし,次こそはとてつもないスコアでラウンドしたいと思います(笑い)。若い頃ならば2日連続なんてへっちゃらだったのですが,この年齢になるとそうでもありません。特に2日目の朝は「大丈夫かな」と不安になるくらいです。しかし,しかしですよ,2日目のラウンド後半になると,不思議ですがもっとやりたいという体になっているのに気づくのです。ヘタなくせにゴルフが好きなんでしょうね。
さて,うちの法律事務所は今年はカレンダーどおりに仕事をしていますので,5日(月)は自宅でゆっくりと過ごしました。普段は平日に朝や昼のワイドショーの類をテレビで見ることはないのですが,この日は疲れていたこともありボサーッとこういう番組を見ていました。それにしても,こういう番組には「コメンテーター」や「文化人」と言われる人たちが次々に出てきます。日曜日の朝の陰気くさい反日番組にも出てきますが(笑)。国際的な問題や社会事象などに対し,もっともらしいことをそつなくコメントしてくれますが,私はあまり信用してはおりません。特に番組のレギュラーにまでなっている「コメンテーター」や「文化人」については,専門分野に関する知見,知識を有している人に対するリスペクトというものがあるのかなと疑問に思います。彼らは毎週,何でも「知っている」からです。また,「コメンテーター」や「文化人」の中には芸能プロダクションに所属している人もいるのです。
テレビ画面でこういう人たちが訳知り顔でコメントしているのを見聞きしますと,評論家の福田恆存先生が述べられた次のような言葉をいつも思い浮かべるのです。
「ところで、『文化人』とは、かういふばあひに意見をきかれる資格ありと見なされてゐる人種であり、また當の本人もいつのまにか何事につけてもつねに意見を用意してゐて、問はれるままに、ときには問はれぬうちに、うかうかといい氣になつてそれを口にする人種である-かう定義していいやうにおもひます。(中略)だが、『文化人』はなんでもかんでも、あらゆることに原因や理由を指摘でき、意見を開陳できなければならないのでせうか。どうもさうらしい。いはゆる『文化人』と称されてゐるひとたちは、無言のうちに日本中から押しよせてくるさまざまな問ひにたいして、古代ギリシァの巫女のやうに、たえず身がまへし、足をすくはれないやうにしてゐなければならないらしい。笑はれないためには適切な答へをしなくてはならない。だが、あらゆることにたいして適切な答へなどできません。(中略)それにしても、かれらは『自分にはよくわからない』とか「その問題には興味がない」とか『いままで考へたこともないことだから、にはかに答へられない』とか、さういつた返事をなぜしないのでせう。(中略)人間はさうなににでも関心をもつはずのものではなし、さうなにもかも始終こころにかけてゐるものではないのに、なにかが起ると、まるでその問題を半生かかつて考へぬいてきたやうな返事をする。そんなばかな話はない。」(「平和論にたいする疑問」)
中国の国家主席をしている習近平という人は,年の割には額が狭いこともあり,全体的にどう見ても賢そうには思えません。この人は3月下旬にはベルリンで行った講演で,「日本は南京大虐殺で30万人以上を虐殺した」などと嘘八百を並べてドイツに行ってまで日本を貶めたのですが,さらには4月下旬に新疆ウイグル自治区のカシュガル地区の視察で警察を訪れた際にも,「和冦との戦いに学べ」として,和冦と戦った先人に学んで反テロ闘争に備えるように指示したばかりです。ここでも日本を貶めており,この人は反日的言動をすることも自己への求心力を維持する手段だと思っているのでしょう。中国共産党全体もそうですが,求心力はそんなものでは維持できません。もっと真剣に民の生活を考え,真摯な気持ちに立ち返り,いわゆる「経世済民」の観点に立たなければ政権の正当性(レジテマシー)が失われてしまうのです。
この習という人が「和冦」うんぬんと言った直後に,新疆ウイグル自治区のウルムチで爆弾テロが発生しました。もちろん一般市民を無差別に巻き込むテロは正当化できませんし,許せません。なお,これは中国共産党によるさらなるウイグル族弾圧の口実を作るための陰謀だとする説もありますが,当局はウイグル族による爆弾テロと発表しています。ただいずれにしても,僧侶の焼身自殺が後を絶たないチベット,そしてウイグルなどなど,少数民族の不満,そして当局によるさらなる苛烈な弾圧の悪循環という現実は否定できないでしょう。
昨日の産経新聞には,評論家の石平さんの評論記事が掲載されていました。それによると,新設された中国中央国家安全委員会の初会合で,委員会トップの習近平が講話をし,「総体的国家安全観」という耳新しい概念を持ち出したそうです。その講話では「政治安全,国土安全,軍事安全,経済安全,文化安全,社会安全,科学安全,生態安全,資源安全」などの11項目を羅列し,それらの「安全」全てを守っていくのが「総体的安全観」の趣旨だというのです。
この11項目のうち習という人が特に強調しているのが「政治,経済,軍事,文化,社会」の5つだそうで,実はこの5項目のうちで外国からの軍事的脅威に対する「軍事安全」以外は全て国内問題としての「安全」を意味し,石平さんは今の中国は「内なる脅威」に怯えていると指摘しています。確かにそうだと思います。政治面では一党独裁,汚職に対する不信感と不満。経済面ではバブル崩壊,シャドーバンキングがらみのデフォルト危機,景気減速。文化面では「イデオロギー」中心の重しが利かず,娯楽やセックスを追い求める大衆文化の蔓延。社会面では年間20万件を超える暴動。
実はそれだけでなく,これは習という人が指摘した「生態安全」,「資源安全」の範疇に入るのでしょうが,PM2.5などの大気汚染,水質汚濁(特に重金属汚染),砂漠化などの問題も看過できません。尖閣諸島沖で領海侵犯を繰り返している場合ではないのです。
習という人も最近さかんに日本を貶めていますが,実際にはもういっぱいいっぱいなんでしょうね。
とうとう中国の裁判所(上海海事法院)は,浙江省の港にあった「商船三井」の貨物船を差し押さえましたね。しょせん中国の裁判所や裁判なんてものは,国際的に通用する「司法」などではなく「政治」なのです。法の支配,法治主義の対極にあります。
なぜそう言えるのか。それは新聞などが指摘しているとおり,「この時期の貨物船差し押さえには、日中関係の悪化を受けた政治判断が絡んでいることは明らかだ。」,「株価低迷,環境の悪化などの問題を抱え、習近平指導部の求心力は低下している。ある共産党筋は、『習指導部は、江沢民時代以降実施してきた愛国主義教育によって、国民の間で高まっている反日感情を利用し、国民の不満をガス抜きさせようとしている』と分析した。」などと報道しているように(産経新聞),やはりしょせん中国の裁判所や裁判の本質は共産党の意向で何とでもなる「政治」なのです。現に,いわゆる戦時徴用工の訴訟などについては,それまでは中国の裁判所は全く受理すらしなかったのに,ここへきて受理し始めています。この豹変ぶりは一体何なのでしょう。日本政府や日本企業に対するゆさぶり以外の何物でもありません。
いずれにしても,日本政府や日本企業としては,最高裁判所が平成19年4月27日の判決で示したように「日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の日本国又はその国民若しくは法人に対する請求権は,『日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明』5項によって,裁判上訴求する権能を失ったというべきである。」との立場で良いと思いますし,毅然とした態度をとらなければなりません。
カントリーリスクとは,海外投融資や貿易を行う際,対象国の政治・経済・社会環境の変化のために,個別事業相手が持つ商業リスクとは無関係に収益を損なう危険の度合いのことをいいます。中国なんかはカントリーリスクの高さは世界でも有数でしょう。例の尖閣諸島沖の中国漁船衝突問題や尖閣国有化の際に中国全土で繰り広げられた暴動,破壊,略奪,放火のシーンを皆さん忘れてはいませんよね。フジタの社員4人は人質のように拘束されもしました。さらに,チャイナリスクとして恐ろしいのは,知る人ぞ知る,中国の民事訴訟法231条です。中国国内で民事上の問題を抱えている外国人は出国を差し止めるというものなのです。日本へ帰って来れないのですよ(笑)。笑い事ではなく,中国人が日本企業や事業者に嫌がらせしようとすれば,すぐに「給料未払いだ」,「退職金を払え」,「代金が少ない」などといって訴訟等を起こせばいいのです。何としてでも日本へ帰りたいと思うなら,法的にはとても納得がいかなくてもお金を払わなければなりません。
中国商務部の発表では,今年の第1四半期(1月から3月まで)の日本の対中投資額は前年比で47.2%減少し,ここ10年間で最大の減少ペースになっていますし,EUからの対中投資額も減少しております。中国における人件費の高騰や景気の減速(不動産バブル,シャドーバンキングがらみのデフォルト危機など)だけでなく,カントリーリスク(チャイナリスク)をいやというほど認識したからという側面もあると思います。
日本企業としては,それでも中国でのビジネスに打って出るというのなら,こういったリスクを負担する覚悟をしなければならないでしょう。余計なお世話でしょうが(笑)。
3月16日の産経新聞には「日曜講座 少子高齢時代」という標題で,論説委員の河合雅司さんの論考記事が掲載されていました。歴史捏造や誤報,中韓への「ご注進」を繰り返すどこぞの新聞社とは大違いで(笑),さすがは産経新聞,素晴らしい記事です。日本の伝統や文化の維持という観点を捨象して官僚が頭だけで考えた安易な移民受け入れ政策に警鐘を鳴らすものでした。
確かに,国立社会保障・人口問題研究所(社人研)は,日本の現在約1億2750万人の総人口が,2060年に8674万人,2110年には4286万人まで減ると推計しています。日本の合計特殊出生率(人口統計上の指標で,一人の女性が一生に生む子どもの平均数を指します)の状況からするならば,そうなるのかもしれません。
じゃあ,ということで2月には内閣府が「移民の大量受け入れ」という選択肢を示しました。それによると2015年から毎年20万人の受け入れを開始していき(毎年ですよ,毎年!),後に述べる条件(合計特殊出生率の回復)が満たされれば,2110年にはほぼ1億1000万人の日本の人口が維持されるというものです。2110年までには約2000万人の移民が日本に存在するのです(驚)。どうですか,皆さん・・・,5人に1人が移民です。しかも,この試算は2030年以降の合計特殊出生率が「2.07」に回復することが条件になっており(希望的観測としか言いようがありません!),仮にこの希望的観測による条件がクリアされないとしたら,2110年における日本人の数は社人研が予測するとおり4286万人で,その一方で移民の数は2000万人となっています。このような大量の移民の存在は,この日本社会においてインパクトがむちゃくちゃ強すぎませんか(笑)。
「移民の大量受け入れとなれば言葉の壁や文化の摩擦も生じる。天皇への尊敬の念や古来の文化や伝統が変質する可能性がある。住宅や社会保障、子供の教育などにも膨大なコストを要するが、税負担増でまかなうしかない。とりわけ問題は長期の加入を要する年金だ。移民の年齢によっては支給期間が不足するだろう。将来的な低年金や無年金者の対策コストが増えることにもなる。さらに、年老いた両親を母国から呼び寄せようとする人が増えれば,移民政策とは異なる問題を迫られる。ゴミ出しや騒音トラブルが話題になってきたが、大量の移民受け入れには、治安悪化や社会モラルの崩壊を不安視する人も少なくない。多くの国で移民排斥事件が起こっている。治安コストを過小評価することはできない。」(河合雅司論説委員)
さすが産経新聞,本当にその通りです。「隣人が外国出身の人、それが当たり前になって日本はやっと普通の国になる」などと世迷い言を繰り返しているどこぞの新聞とは大違いです(笑)。
ちょっと断っておきますが,今問題になっている外国人労働者の受け入れの問題と移民受け入れの問題は全く違っております。移民は日本国籍を付与し,永住が前提です。でも外国人労働者は企業が一時的な戦力として雇用する人たちで,景気動向によって帰国したり,条件によっては他国に移る場合もあるのです。混同してはいけません。
それにしても内閣府が示した毎年20万人の移民の大量受け入れという選択肢・・・。こういった官僚の人たちは東大卒など,確かに勉強がよくできた人たちなのでしょうが,はたして想像力は確かなのでしょうか(笑)。あるいは,日本の伝統や文化,日本という国柄についてはあまり愛着はないのでしょうか。人に人柄があるように,国にも国柄というものがあるのです。移民政策をどんどん推進してきたスウェーデンやオランダでは治安悪化など,本当に大変なことになっております。それに,日本は極東の国です。そして,極東にはジャパン・ディスカウント活動を一生懸命行い,反日教育を行ういくつかの国があり,大量の移民受け入れ政策を実施に移した日には,地の利ということで,こういった国々からの大量移民のあることも当然にそして高い蓋然性をもって予想しなければなりません。今だって新聞紙上を賑わす事件があるというのに,正に恐るべき未来予想図です。安易な大量移民受け入れ政策などではなく,少子化対策をもっともっと充実させるべきです。ひょっとして,官僚の中にはまだ日本を壊そうとの魂胆をもった「コミンテルン」が浸透しているのでしょうか(笑)。政治家の中にもそいういう方々が多く存在していると思われます。悲しい事です。そういえば,みんなの党がガタガタしておりますが,今度その代表になることが有力視されている浅尾慶一郎という人は,民主党に籍を置いていた当時,「1000万人移民受け入れ構想」の提唱者に名を連ね,移民受け入れを積極的に主張しております。
「くわばら、くわばら」(笑)
まだ風や空気は冷たいのですが,何となく春が近づいているような気がします。何となく春が近づいていると感じさせるものには様々あるでしょうが,陽光の暖かさだけでなく日の長さは重要だと思います。私は毎朝午前6時30分頃に起きるのですが,その頃には遮光カーテンの隙間からも既に朝日が差し込んでおりますし(朝日というのはいいですね,新聞の方は反日左翼で全然ダメですけど),午後6時頃に事務所から外に出てもまだ明るいのです。真冬なら私が起きる頃はまだ真っ暗ですし,夕方事務所を出る頃はもう真っ暗なのです。それに最近ではそろそろ水もぬるんできました。
さて,これを言うと本当に不愉快になってしまうのですが,韓国という国の「ジャパン・ディスカウント運動」はエスカレートする一方です。恥を知らないということはある意味では強い(笑)。「ジャパン・ディスカウント運動」というのは,韓国が2005年から国策として行っている「世界に『日本による歴史歪曲』を知らせ,国際社会における日本の地位を失墜させることを目的とした」活動のことを指します。真実は,韓国や中国こそが歴史を捏造しているのにね・・・(スタンフォード大学の研究機関からは,「歴史」の意味について日本のそれは「ヒストリー(史実)」,中国のそれは「プロパガンダ」,韓国のそれは「ファンタジー」と表現されています【笑】)。
あの妙な髪型の韓国外相は,3月5日の国連人権理事会の基調演説として「いわゆる従軍慰安婦問題は忘れられたホロコーストだ」などとバカなことを言って日本を名指しで批判しました(みんなウクライナ問題で忙しいというのに)。また,アメリカの韓国系住民は露骨なロビー活動によって,バージニア州の教科書の中で「日本海」に「東海」を併記させる法案を出させ,議会を通過させました。知事が署名をすれば実施されます。アメリカ連邦政府の方針は「日本海」単独表記なのに,所詮,票とカネの前には正義,真実も吹っ飛んでしまいます(笑)。議員と言ったって大したことはありません。さらには韓国系住民は中国系と結託して,今度はオーストラリアにも変な「慰安婦像」なるものを設置させようと画策しています。「ジャパン・ディスカウント運動」はエスカレートする一方です。
そんな中で,安倍晋三首相が大したことをやってくれました。よくやった!諸手を挙げて祝福したいのです。というのは,韓国の民間調査研究機関が韓国人の周辺国に対する意識調査として,日本,アメリカ,中国,ロシア,北朝鮮の指導者の好感度を10点満点で表すアンケートを実施したのです。そうしましたら,韓国人の意識調査結果(平均点)として,オバマが6.19点,習近平が4.78点,プーチンが3.47点,金正恩が1.27点,わが安倍晋三首相が1.11点と,何と金正恩を凌駕して堂々の「不」好感度の第1位という輝かしい結果を獲得したのです(爆笑)。
連綿と続いてきた反日教育と歴史の捏造,「ジャパン・ディスカウント運動」を国策として行うような国に「好感」をもたれるようでは,かえってその人物は日本の国益を損なうことを常日頃しているということになります。それが論理的帰結です(笑)。日韓議員連盟に属している日本の議員の中にはどちらの国の国益を代表しているのかという人が紛れ込んでいる中,安倍首相のこのたびの快挙は誠によろこばしい。
先の名護市長選挙については誠に残念な結果でした。稲嶺進(現職の名護市長)という当選者が,勝ち誇ったように踊りまくっている姿を見て,胸が悪くなりました。彼は絶対に辺野古移設は認めない,「県外移設だ」と言っておりますが,私は普天間飛行場の移設はこれまで長時間をかけて何とか結実した計画どおり,そして先の沖縄県知事の承認どおり着実に進めるべきだと思っております。
読売新聞や産経新聞の社説のとおり,名護市長には代替施設の建設工事に伴う資材置き場の設置などの許可権限があり,工事をある程度遅らせることは可能でしょうが,その権限は限定的なもので,辺野古移設中止にまでは及びません。普天間飛行場は確かに今のままでは危険です。だからこそその危険性を除去するために,これまで長時間をかけて案を策定し,折衝を重ね,何とか辺野古沖への移設という計画が計画としてやっと結実したのではありませんか。このように移設してまで,従来からの普天間飛行場が果たしてきた役割,つまり在沖縄海兵隊の輸送任務という役割の重要性を今後も維持していくことは,日米同盟や日本全体の安全保障にかかわる問題であって,一地方選の結果で左右されるべきものでは決してありません。それに,当選者の約1万9000票に対し,辺野古移設容認の対立候補は約1万5000票を獲得しているのです。決して大差だとは思いません。
「日本列島は日本人だけのものではない」と迷言を述べた,あの少し頭がおかしいと思われる鳩山由紀夫という人でさえ,学べば学ぶほど抑止力というものの重要性を知ったと告白したではありませんか(笑)。本当は,日本国の首相になる前に,そして「最低でも県外へ」と大風呂敷を広げる前の段階で抑止力というものの何たるかを学んで欲しかったのですが(笑)。抑止力と言えば,かつてフィリピンがクラーク空軍基地,スービック海軍基地から米軍を追い出した後の1995年に,フィリピンが領有権を主張していたミスチーフ礁に,それまで虎視眈々と狙っていた中国が突如として建造物を造ったことは歴史上の教訓です。それが現実なのであり,平和ボケをしている場合ではないのです。
理想論だけを述べ,平和ボケをしている人は確かに存在します。「平和憲法さえ死守していれば日本が戦争に巻き込まれることはない」といった空想論を展開している人もいます。もちろん私だって,戦争は最大限の努力をして回避すべきものだと思っております。でも空想的平和主義の人たちの平和論が,平和=戦争のない状態を意味するだけだとしたら,例えば中国人民解放軍が日本が領有する島嶼部に上陸し,実効支配を始めた場合どうするのでしょうか。平和=戦争のない状態だから,それでもいいと言うのでしょうか(笑)。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するといいますが,今のような状況,つまり日本固有の領土を不法に占拠している国もあり,領空・領海侵犯だけでなく,日本に夥しい数のミサイルを向けている国もある中で,「平和を愛する諸国民」とは,この極東の辺りでは一体どこの国のことを指しているのでしょうか。
日本国憲法を墨守し,絶対視し,空想的な平和論を展開している人に対する揶揄として,哲学者で京都大学名誉教授の田中美知太郎は,次のように述べました(「今日の政治的関心(二)」248頁)。
「・・・平和というものは、われわれが平和の歌を歌っていれば、それで守られるというようなものではない。いわゆる平和憲法だけで平和が保証されるなら、ついでに台風の襲来も、憲法で禁止しておいた方がよかったかも知れない。・・・」