ランチの後には,散歩がてら近くの書店に立ち寄ることが多い。先日,「居場所のないこどもたち」(鳥山敏子著,岩波現代文庫)という本を見つけ,お得意の半身浴などをしながら読んでみた。この本には,「アダルト・チルドレンの魂にふれる」という副題が付いていた。
アダルトチルドレンという言葉を今まで耳にしたことはあったが,その意味は分かっていなかった。「大人のような子供たち」といったような,直訳みたいなことをして済ましている場合ではなく,実は,機能不全家庭(その淵源には機能不全夫婦がある)が生み出す悲劇,つまり,子どもの時期に子どもらしく生きさせてもらえず,そのまま大人になった人たちのことをいうそうだ。
この本で紹介された事例によると,例えば,アルコール依存症で酒乱の父親の暴力にいつもビクビクしながら過ごすことを余儀なくされた子ども,嫁と姑の不仲から,小さい時からおばあちゃん子として育てられたため,母親からはその後に生まれた弟や妹のようには可愛がられずに差別されて育った子ども,厳格な教育者一家に育ち,決して甘えることを許されずに育った子ども,過保護,無視など,様々である。要するに,「子どもの時にたくさんの心の傷を負ったままケアせず、大人になっていったこういう人たちのことを、最近、アダルト・チルドレン(AC)とよぶようになりました。からだは大人であっても、精神は保護者を必要とする子どもから成長していない大人という意味」だ(186頁)。
アダルトチルドレンの問題の深刻さは,僕がこのブログでよく使う「負の連鎖」,「負の再生産」を招いてしまうからであろう。すなわち,親からの愛情を受けることなく(受けた形をとっていてもその愛情が歪んでいることもある),自由にのびのびと子どもらしく過ごすことを許されなかったアダルトチルドレンは,自分が大人になって育児に従事する段階になっても,やはり自分の子どもに甘えさせることをほとんど許さなかったり,精神的・肉体的虐待を加えたりなど,やはり機能不全家庭(家族)を形成してしまう傾向があるということである。
この本の著者は,「ワーク」という活動を通じて,アダルトチルドレンの子どもとしての魂の叫び(インナー・チャイルド)を出させることによって精神的にケアし,立ち直らせる試みを実践し,多くの成果を上げているようであるし,そのような草の根の活動も有効だ。でも,わが日本は,OECD(経済協力開発機構)の発表によると,先進国28か国の中で教育予算(教育機関への公財政支出がGDPに占める割合)が最低だそうだ。子どもは宝であり,教育や機能十全の家庭は国家の基礎である。教育予算をより充実させ,例えば,悩みを抱えている子どもたちのカウンセリングなどをもっともっと十分なものにする必要があるのではないか。もっとも,家庭の機能不全の状況が尋常でなく,看過できないようなものであれば,法制度上は「親権の剥奪」というものが用意されてはいるが,そのような事態には至らないまでも,悩んでいる子どもたちのメンタル面をケアしていく必要性は高い。カウンセリングも有効だと思われる。そして子どもたちが何でも気軽に相談できるように,「(相談できる)こういうものがあるよ。」という広報(アピール)も重要だし,当然にそのためのスタッフも充実させる必要がある。
「負の連鎖」,「負の再生産」というものは,将来にわたってできるだけ断ち切っていかなければならないであろう。
西 郷「はっ,はっ,はっ。毎年桜の季節になるとさ,この『のれそれ』を三杯酢で食べられるのが幸せでさ。美味しいなぁ,いいな日本は。野球も強いしな!」
大久保「うん。確かにこれは旨いな・・・。それに,野球もな・・・。」
西 郷「あれっ?お前,いわゆる不機嫌ってやつか?どうした。」
大久保「どうもこもないわ。そのとおり,いわゆる不機嫌ってやつよ。」
西 郷「お前,せっかくの,しかも旬の『のれそれ』に失礼だぞ!いったいどうしたんだ。」
大久保「この前,行きつけの床屋さんに行ったのよ。そこの理容師さんが言うのに,その人の自宅がある学区の中学校じゃ,授業そのものが成立していないクラスがかなりあるというじゃないか。この日本がこれからどうなってしまうのか,落ち込んでしまったわ。」
西 郷「・・・・・・・・。何?・・・・・せ,成立?・・・授業に成立,不成立なんていう概念があるのか?授業っていうのは,チャイムが鳴ったら先生が学問を教えて,生徒がその話をちゃんと聞いて,質問や回答をしながら,そしてとんちんかんな回答や優等生の回答をみんなで共有しながら,それこそみんなが成長していく場だろう。俺なんか,中学生のとき,everydayを『エヴリデイ』じゃなくて『エベリデイ』と発音して,クラスのみんなから1か月くらいは『エベリデイ』と茶化されたわ。その代わり俺も,これに奮起した。顔に似合わず英語の成績がトップクラスになったって訳よ。」
大久保「そうだよ。本来はそうだ。オレたちが子供のころはそうだった。と,ところがだ。その中学校では,先生が話し始めても大声しゃべっている奴はおるわ。走り回る奴はおるわ。その状況に先生は注意もせず,黙々と小声で学習指導要領にしたがった内容を読むだけで,授業にならんそうな・・・・。」
西 郷「・・・・。えーっ?・・・。日本の中学校がその有様だと?・・・・えーっ・・・・無秩序状態ではないか・・・・(泣く)。」
大久保「・・・。たまたま,オレも最近ある新聞の子供のコーナーを読んでいたら,ある子供の悩み相談があって,『自分は勉強したいのに,教室が騒がしくて,先生は騒がしい生徒を注意するのが精一杯で,とても勉強できる環境ではありません。どうしたらいいんでしょうか?」という投書があったんだ。オレはそれを読んで,・・・それを読んで,・・・(泣く)。」
西 郷「おいおい。お前まで泣くんかい。お互い年のせいか,涙もろくなったなぁ・・・。ちょっと感情失禁気味だよな。提案だが,俺たちで『全日本感情失禁協会』という名前のNPO法人でも作ろうか。」
大久保「アホ抜かせ!オレは本当に国を憂いておるんだ!」
西 郷「大久保,憂国の士よ!じゃあ,どうしたらいいと思う?」
大久保「はっきり言って,教育の現場がそうなるのは,淵源をたどると実は家庭教育の問題だと思っとるんじゃ。人がちゃんと話しているのに,それを静かに聞けないというメンタリティーを醸成してしまったのは,要するに親の躾の不十分さよ。『自分がされて嫌なことは人にしない。』という最低限のモラルが家庭で生成されていない訳よ。」
西 郷「そっから先は俺に言わせろ。」
大久保「いや,オレが言う!」
西 郷「いや,俺が言う。教育は国家百年の大計だ。急がば回れだ。実は,家庭教育,躾ができない親は,もう残念ながら出来上がってしまっている。もう今さら彼らには期待できない。これからは,ちゃんとした家庭教育,躾ができる『将来の親』を育成していけば良いのだ。長い目で見れば,やはり五十年から百年はかかるだろう。しかし,五十年から百年かかっても立て直せるのであれば,何のその!それには,先ほどの趣旨と一見矛盾するようだが,やはり学校教育の立て直しだ。一生懸命やっている教師もいるが,そうでない教師の質を高める必要がある。教師も勇気を出す必要がある。勇気を出せる教師を育成する必要があるし,そういった教師が生き生きと活躍できる場を作る必要がある。そして,授業が成立していない有様を放置するような組織でもだめだ。学校をあげて,少なくとも『成立しない授業』なるものをなくす努力と協力をしなければならない。教育機関をちゃんとしたものにすることによって,とにかく家庭で躾というものをすることができる『将来の親』を養成していくんだ!」
大久保「何年か前に辞めた元首相。確か彼の先祖は長州藩出身ではないかと思うが,一部のマスコミから相当に叩かれておった。でも,彼の肝いりで活動していた教育再生会議。これが目指していたものは,方向性としては良かったと思っているんだ。」
西 郷「うん。それにしても,授業が成立していないクラスは,まずは秩序というものを取り戻さんかい!ひとが話をしている時は黙って聞く,耳を傾けるという最低限のことはしなけりゃならんし,させなきゃならん。」
大久保「うん。それで行こう・・・・・・・。まぁ,オレたちは『エベリデイ』居酒屋で飲んでばかりだがな。」
西 郷「・・・・・・・・・・・・・・・・」
大久保「おい,西郷。この店も,ここんとこ,ちょっと客の入りが悪いなぁ。やっぱり不景気で,財布のひもがかたくなっとるのかなぁ・・・。」
西 郷「うーん。レバ刺しのような内臓ものは俺は苦手だが,どのメニューも割と安くて,味がいい店なんだがな。それに,一杯やった後のラーメン食うには,すぐ近くに屋台もあるし。まっ,せいぜい俺たちはいつもみたいにここで安酒を飲んでいくか。」
大久保「うん。で,どうだ最近は。」
西 郷「どうもこもないわ!」
大久保「出たな。お前のぼやきが・・・。何が不満の今日この頃だ・・・?」
西 郷「今朝だ。メールしながら歩いとる若い会社員風のボンクラ男がおった。ぶつかるまいとして右側に避けたら,今度はすぐに,メールだか何だか知らんが,携帯電話をいじくりながら歩いとるバーコードの中年男とぶつかりそうになった。咄嗟にさらに右側に避けたら,最後の締めは,携帯電話で何やらしゃべくりながら自転車を運転しておるボンクラ娘と本当にぶつかりそうになった。俺は,『ここはどういう星だ。』,『こういう世界で俺はこれからも生きていかねばならんのか。』と愕然となった。本当に情けない。」
大久保「まぁ,携帯は俺も使うが,何故通行の邪魔にならんように立ち止まって隅に寄れんのかな。昔の江戸の『往来しぐさ』のように,できるだけ多くの人が気持ちよく過ごせるような配慮,思いやりがなぜできんのかな。」
西 郷「もう泣けてくるわ。ちょっと最近,年のせいか,感情失禁気味だし・・・」
大久保「はっ,はっ,はっ。毎晩お前の涙が見れて楽しいわい。」
西 郷「あほ抜かせ!」
大久保「でもな,西郷。俺も,ちょうど今朝の体験だが,朝マンションを出てすぐに,大きな声で『おはようございます!』と元気に挨拶してくれた小学生の女の子がおったぞ。うちの学区では,1年生だけは黄色い帽子をかぶって登校することになっておるから,きっと1年生の女の子だ。それも全く知らない子だ。うれしい挨拶じゃないか!それから間もなくして,交差点にあるコンビニの前ですれ違った小学生風の男の子は,いかにも学校の図書室から借りていそうな『ファーブル昆虫記』という本(図書館のラベルが貼ってあった)を小脇に抱えて,行儀良く通りを歩いて行きおった。きっと昆虫が好きなんだ。そういう子供たちを眺めていると,我が日本国の子供たちもまんざらではないと思った。」
西 郷「こういう子たちが,あの携帯電話3連発のようなボンクラな大人にならないように願ってる。」
大久保「みんながみんな立派すぎる国民というのも何やら気持悪いが,少なくとも他をかえりみない『往来しぐさ』もできないような人間にしないためには,ちゃんとしたしつけと,他人を思いやるメンタリティーを醸成する最低限の教育だろう。」
西 郷「まあな。俺たちも,偉そうなことを言っておるが,毎晩飲んでばかりだしな・・・。」
大久保「でも俺は,評判の悪い定額給付金をもらったら,景気浮揚の一翼を担うべく,この店で飲むぞ。それが結局は,回り回って,日本経済の立て直しに役立つし。」
西 郷「そうすると,少し客の入りが悪くなったこの店も大丈夫だ。それはそうと,もうすぐ3月だ。4月異動が気になるが,お前だけ抜け駆けして課長補佐に昇進するなよ!係長昇進時期が一緒なら,課長補佐昇進時期も一緒だ。裏切るなよ!」
大久保「仮に俺が課長補佐の辞令をもらったとしても,お前があれほど苦手なレバ刺しを食べる覚悟と勇気と誠意を示すなら,いったんもらった辞令を人事部に返してもいいが,どうだ。」
西 郷「・・・・・・・・・・・・。ふんっ,お前だけが課長補佐の辞令をもらえるとも思えん。ど,どうでもいいけど,レバ刺しだけはいいわ。」
街中での法律相談が終わった後や,ランチの帰りなどに,デパ地下の生鮮食料品売り場で大好きなトマト,甘夏,ちりめんじゃこ,あじの開きなどを買って帰ることがある。そういう時,僕がレジの順番待ちをしていると,残念ながら後ろの人の買い物カゴが僕の体に有形の圧力をかけてくるという体験をよくする。決して気のせいではない。「有形」の圧力なのだ!
そういう時にヤンワリと後ろを振り返ると,その圧力の主は,決まってオバサンなのだ。全国約6018万人の僕のブログ愛読者の中にはその年齢層の女性も含まれ,僕も法律事務所の経営者だから経営面からも特定の層を敵に回したくはないのだけれど,事実は事実として言わせてもらうザマス。過去にこのようなカゴ圧力の経験をしたことは少なくとも7,8回はあったが,顔こそ毎回違うものの,繰り返すがその圧力の主はことごとくオバサンだったのだ。
僕としても何とか一矢報いるべく,カゴが当たっている腰の辺りに力を入れて少し押し戻してみると,10秒ほどは正常に戻る。しかし,柔らかいグミが指で押されて元に戻るように,気がつくとたちまち「有形の」カゴの圧力を再び腰辺りに感じるのである。いったい何故このような現象が起こるのだろう。セパレート式の矢印信号が出たのに気づかない先頭車両の運転者に対し,あろうことか3台後方の運転者がジレてクラクションを鳴らしてしまうように,一向に進まない列にイラついて直前の僕に圧力をかけてしまうのだろうか。いやいや,まさかそんな理不尽な人がいるはずはない。「早く進まないかなぁ」と無意識のうちにそのような行動となってしまうのだろうか。それとも,「絶対に割り込ませないぞ。スペースを空けないぞ。」という意識が強くて,そのような圧力付きの密着状態になってしまうのだろうか。相手にスペースを与えるなというのはサッカーの原則だが,さすがにデパ地下では困る。
住みよい街づくりのために,また,日本の明るい未来のために,今一度,自分の買い物カゴが列の前の人に「有形」の圧力を与えるなどといった,傍若無人な振る舞いをしたりしていないか確認し合おうではありませんかっ。
西 郷「最近,特に冷えるなぁ。こういう時は,やっぱりおでんに熱燗だな。大久保どん。ご機嫌いかが?」
大久保「どうもこもないわ。」
西 郷「おっ,今度はおまえがそのセリフか。おまえが不機嫌だと,少し気にはなるけど,悪趣味だが少し嬉しい気もする(笑)。一体どうしたぃ。」
大久保「まぁ,本気で怒ることじゃないかもしれんが,最近民放のテレビで,『大食い大会』や『全30メニュー完食ツアー』みたいな番組が流されとるが,ああいう番組を目にすると,不機嫌になるのよ。すぐにチャンネル変えちゃう。」
西 郷「確かにおまえは大食漢じゃないが,どうしてだ。」
大久保「ああいう番組では,フードファイターとかタレントが最後は苦痛に顔をゆがめながら食べとるだろう。俺がチャンネルを変える理由は2つある。貧乏育ちの俺は,食べ物というのは『おいしい。おいしい。』といいながら,味わっていただくものだという気持ちがあるからだ。嫌々無理に胃袋に押し込むものではない。もうひとつは,フードファイターらの人間離れした食べっぷりは半端じゃない。見ていて自分の胃まではち切れそうで気分が悪くなるからなんじゃ。」
西 郷「確かにな。食べ物だって,あんなに苦痛に顔をゆがめながら食べられるために生まれてきたんじゃないだろう。浮かばれんわなぁ・・・。」
大久保「大食漢のおまえも賛同してくれるか。世界中には飢餓で亡くなる人も大勢いるし,この日本国にだって腹すかしている子供もいると思う。あんな番組の企画はしょせん一過性のものだと思っとったが,結構ひんぱんに目にする。あれで視聴率がとれているのかな。ああいう企画は俺にはどうしても理解できん。」
西 郷「大久保どん。食べ物というのは『おいしい。おいしい。』といいながら,味わっていただくものだというのは,その通りだ。俺は,この,おでんのたまごが大好物でな。ほれ,・・・・こうやって箸で半分に割るだろう。そうすると,黄身が少しくずれるから,それをまず味見する。・・・・そして,半分を頬張って,・・・それから,おでんのつゆを少しいただく・・・。この黄身と白身とつゆのコラボレーション!俺の至福の時なのよ。ところで,大久保どんの至福の時はどうよ?」
大久保「俺か?おれは,ほれ,この串に刺したうずらの卵のフライをな・・・こうやってソースにどっぷり付けて,・・・そして,いったん皿の上に横たえるだろ。・・・・・そこで,ほれ,千切りのキャベツをフライの衣の上にまんべんなくタップリのせるだろ。・・・そして,こうやってうずらちゃんの卵を一個ずつ頬張るのよ。卵と,サクサクの衣とサクサクのキャベツのハーモニー,いやアンサンブルといってもいいかな。これが俺の至福の時よ。」
西 郷「そうか,結局お互い卵好きのコレステロール仲間か・・・・・」
大久保「湯豆腐とねぎまとなんこつとレバ刺しは,もう注文しといたぞ。久しぶりだが,西郷どん,どうだ最近の調子は?」
西 郷「どうもこもないわ,ったく。」
大久保「またか。お前はそれが挨拶代わりか。不機嫌の原因は何だ。」
西 郷「昨日車を運転していて,ふと中央分離帯の所を見たら,空き缶,ペットボトル,弁当の空箱がいっぱいあった。こんな物らが土から生えてくる訳ないじゃろ。投げ捨てる奴らは一体どういう了見だ。」
大久保「うーん。同感だな。投げ捨てる直前に良心の呵責というものがないのかな。」
西 郷「日本人が劣化しとるのか・・・。こういうことは,まず家庭内できちんとしたしつけがなされていれば,大人になってもいざ投げ捨てる直前に『ん?』という形でルール違反に心理的なブレーキがかかるはずだ。家庭内できちんとしたしつけができていないようならば,学校の道徳の中で少なくとも最低限の公衆マナーを教えないといかんぞ。」
大久保「昔の日本人ならば,そんなことは学校などで教えなくとも,親の責任で家庭内で厳しくしつけられていたはずだ。しつけられていない人間は親になってもしつけることができないという負の再生産となる。嘆かわしい・・・。しかも道徳などでそのようなことを教えると,『価値観の押しつけ』などとクレームをつけかねない人もいる。」
西 郷「何?特定の宗教教義を強制する訳じゃないんだぞ。『中央分離帯に物を投げ捨てることもある程度は許される』などといった価値観があるのか?百歩譲ってそんな価値観があったとしても,それは保護に値するのか?しょせん,『しつけ』なるものは本来的に押しつけなのだ。それで誰からも非難されることのない立派な大人になれるんじゃ。何が不満だ!数学者の藤原正彦さんも『国家の品格』という本の中で,しつけは押しつけで結構という趣旨のことをおっしゃっておられた。」
大久保「2年前に会津若松に旅行に行ったんだがな。」
西 郷「え,えっ?あ,会津の人たちはフレンドリーだったか?」
大久保「えっ?何でそんなこと聞くんだ。会津の人たちは人情味があってみんな暖かかったぞ。」
西 郷「そうか,それは良かった。それで会津旅行がどうしたんだ。」
大久保「うん。昔,会津藩には『什の掟』というものがあって,『卑怯な振舞をしてはなりませぬ。』,『弱い者をいぢめてはなりませぬ。』などといった7か条の決まりがあり,その最後に『ならぬことはならぬものです』とある。」
西 郷「うーん。その通りだ,しつけは押しつけで良いのだ。理屈抜きなのだ。それにしても昔の人は良いことを言うなぁ・・・(西郷泣く)。」
大久保「泣くな,みっともない。それはそうと,西郷どん,レバ刺しも食べろよ。」
西 郷「レバ刺しは俺は遠慮する。」
大久保「でも,もったいないぞよ。」
西 郷「それこそ『価値観の押しつけ』じゃ。」
大久保「・・・・・・・ん?」
大久保 「やっぱ,寒い夜は熱燗にかぎるな。どうじゃ,西郷どんのご機嫌は。」
西郷 「どうもこもないわ。ったく,マナーの悪い自転車乗りがおるな。朝,出勤するとき,横道から急に自転車が出て来おって,もうちょっとでぶつかりそうになったわ。」
大久保 「おお,そうだな。俺も時々,横着な自転車乗りのせいで大いに不愉快になる時があるんじゃ。歩道を人が大勢歩いておるのに,信じられんくらい猛スピードで突っ切ろうとする奴が結構おるわ。まぁ飲め。」
西郷 「あんなスピードで走って,子供や老人にぶつかったら一体どうするんじゃ!乗り方によっちゃぁ,自転車でも殺傷能力があるんじゃないのか。大概にせんと。」
大久保 「そうじゃな。マナーの悪い自転車乗りは,自分はいつでも止まれるというおごりがあるのとちゃうか。とにかく,俺ら歩行者に恐怖感を与えるなっちゅうに!」
西郷 「ワシも最近メタボだし,季節も感じたい歳になったからのう,散歩がてら歩いて出勤するのが楽しみなんじゃ。じゃっどん,マナーの悪い自転車乗りのせいで,歩きの方向を変えるときもいちいち後ろを振り返って安全確認じゃけん。気が安まらんわい。」
大久保 「そうよ。日本人が劣化しちょるのう。自転車にも『江戸しぐさ』が必要よ。」
西郷 「『江戸しぐさ』?何じゃそれ。顔に似合わず,小洒落たこと言いおって。」
大久保 「万年係長!相変わらず何も知らんな。どこぞの偉い様みたいに,マンガばっかり読んどるんじゃろうが。」
西郷 「万年係長じゃと?おまえが言うな!何じゃ,その『江戸しぐさ』ちゅうのは。」
大久保 「当時世界一の人口をもった江戸の商人たちが作り上げた行動哲学じゃ。要するに,多くの人たちができるだけ気持ちよく生活できるようにと,思いやりに裏打ちされた一つのマナーじゃな。往来でのマナーで言ったら,『傘かしげ』『肩引き』『七三の道』なんかじゃのう。自分の傘のしずくが行き交う人にかからんようにする。肩がぶつからんようにする。道をできるだけ譲るということよ。」
西郷 「おぬしに教えられたくはなかったが,確かにその通りじゃな。思いやりじゃな。自転車には全く罪はないが,それに乗る者は『江戸しぐさ』でいかんかい!」
大久保 「いつもは意見の合わんことが多いが,今宵はちとちがうな。もう一軒行こう。」
西郷 「おう!」
オーディションの結果(合否)を通知するハガキが先日自宅に届いた・・・・・・・・・・・・・・・・・。ひっ,ひぇー!合格だーっ!良かった(泣)。かくなる上は,もちろん仕事は一生懸命にやるが,「マタイ受難曲」に向けた合唱団の練習も,健康に気をつけて一生懸命にやるぞーっ!(笑)
健康といえば,僕はここ数年続けて年1回人間ドックを受けてきた。でも,人間ドックの数ある種目の中で,僕がどうしても毎回うまくいかないというか,苦手な種目が2つある。1つは,バリウムによる胃部X線検査の前に飲む発泡剤である。検査技師から「はい,ゲップは我慢してくださいね。」といつも言われるのに,決まってゲップをしてしまうのである(ひどい時には技師からそのように言われている最中にも!)。もう1つは,腹部エコー検査の際,担当者から「はい,おなかをふくらませてぇ。」と言われておなかをふくらませた直後にエコーの器具でそこをグリグリされる時に,どうしても吹き出して笑ってしまうのである。この苦手種目2つについては,ここ数年連敗を続けている。
先週の金曜日,本年度の人間ドックを受けてきた。さきほど述べた苦手2種目については,結論からいえば1勝1敗だった。発泡剤のゲップについては,今度ばかりは気合いが入っていたせいか,全くゲップをすることなく,胃がパンパンの極めて良好なX線写真が撮れたのではないかと自負している。し,しかし,腹部エコーの方は,またまた3回ほど吹き出して笑ってしまい,担当者に迷惑をかけてしまった(彼は人格者のようで不機嫌そうな顔はしなかった)。どうして笑ってしまうのだろうか。担当者の顔が近くにあるし,しかも連敗も続いているし,「絶対に笑ってはいけない!」という強迫観念が自分を支配するからだろう。しかし,その日の担当者は,私に腹を膨らませる指示をするに当たり「はい,おなかポーン」,「おなかポーン」,「ポーン」という滑稽な表現を使うのである。この情況でさらに器具でお腹をグリグリやられるのだから,笑い上戸の僕に笑うなという方が酷である。よーし。来年は絶対に笑わないぞ!(笑)
ピアノの音は今度は1オクターブ下となり,同じテストが始まった。つまり,ピアノの音に合わせて,アーアーアーアーアーアーアーアーアー(例えばドレミファソファミレド)と歌う。今度は比較的低音域で歌いやすい。しかもこの音域でさきほどのように音程が3度ずつ(おそらく)上昇していったとしても,まあ何とかなるだろう・・・・。と,ところが,今度は音程が徐々に下に移行し始めたのである。え゛ぇーーっ・・そ,そんなぁ-。音域の限界に挑戦させられる自分がそこにいたのである。
この最後のアーアー・・・・の時も(超低音),あごが引け,目は超上目遣いになり,ちょうど餅をのどに詰まらせてもがいているようなすごい形相になっていたに違いない(否,そのように確信している)。は,恥ずかしい・・・。結局,僕はテノール音域でも高音域に難があり,バス音域でも低音域に難があるという現実に直面したのだ。思い起こせば,僕はカラオケに行っても,♯や♭を手前勝手に多用し,いつも歌いやすい状態で歌っていた。安逸をむさぼっていたのである。
少年期で声変わりがする前は,音楽の先生に,「君はいいボーイソプラノをもっているね。」なんて言われた栄光の時代もあったのに・・・。ええい,過去の栄光が何だ。現実を直視しろ。このようにして,僕のオーディションは終了した。採否の結果は後日ハガキで通知されるとのこと。
でもね・・。僕は本当に心からバッハの音楽が大好きで,この音楽家を尊敬し,「マタイ受難曲」もスキでスキでたまらない。結果はともかくとして,この曲歌いたさに老骨にむち打って果敢に挑んだ自分をほめてやりたい気もするのよ。人生の1ページとしてね。
最後に,オーディションをしてくれたこの合唱団は非常にフレンドリーで,皆さん嬉々として練習に参加し,合唱指導も素晴らしく,ドイツ語の歌詞の習得も本格的である。是非この「マタイ受難曲」の演奏を成功させて欲しいと心から願っている。